宋教仁(読み)そうきょうじん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宋教仁」の意味・わかりやすい解説

宋教仁
そうきょうじん / ソンチャンレン
(1882―1913)

中国の革命家。字(あざな)は遯初(とんしょ)、号は漁父。湖南省桃源県の人。1904年、黄興(こうこう)らと長沙で華興(かこう)会を組織。蜂起(ほうき)失敗後、日本逃亡。1905年、中国同盟会に参加し、その機関紙『民報』の編集にあたった。1911年、譚人鳳(たんじんほう)らと同盟会中部総会をつくり、揚子江(ようすこう)流域における蜂起の準備を固めた。同年10月武昌(ぶしょう)で辛亥(しんがい)革命が起こると革命政府の樹立に活躍した。革命後、南京(ナンキン)臨時政府法制院総裁や北京(ペキン)臨時政府農林部長の要職歴任。1912年8月、同盟会を国民党に改組。その事実上の党首として、選挙で国民党を大勝させた。彼は政党内閣制をつくることで大統領袁世凱(えんせいがい)を制約しようとしたので、袁の憎むところとなり、1913年3月、袁の派遣した刺客のため暗殺された。著書に『宋漁父日記』などがある。

[倉橋正直]

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改訂新版 世界大百科事典 「宋教仁」の意味・わかりやすい解説

宋教仁 (そうきょうじん)
Sòng Jiāo rén
生没年:1882-1913

中国の政治家。湖南省桃源の人。字は遯初(とんしよ),号は漁父。辛亥革命に活躍し,胡瑛,覃振とならべて〈桃源三傑〉といわれる。1903年(光緒29)秋,黄興らと長沙で華興会創立,翌夏に武昌で組織された科学補習所にも参加し,革命に身を投じた。のち日本に亡命,中国同盟会の成立に際しては,彼の刊行していた《二十世紀之支那》誌が機関誌に擬せられたことからもうかがえるように,重要な役割を果たした。在日時の活動は多岐にわたるが,とりわけ08年に《間島問題》を著して間島が中国領であることを証明したことは特筆に値する。帰国後,上海で《民立報》を刊行して世論の醸成に努め,また中部同盟会を組織して蜂起を図った。武昌蜂起後は法制の整備と政党政治の確立に心血をそそいだが,彼の率いる国民党の勢力をおそれた袁世凱の手により13年3月暗殺された。北一輝が《支那革命外史》で譚人鳳(1860-1920)とともに宋教仁を高く評価していることは注目される。
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百科事典マイペディア 「宋教仁」の意味・わかりやすい解説

宋教仁【そうきょうじん】

中国,清末〜民国初の革命派政治家。湖南省の人。1904年黄興らと華興会を結成,1905年孫文らと中国同盟会を組織。辛亥(しんがい)革命後は国民政府の中央集権制を主張して挫折し,南北交渉に当たったが,袁世凱とも反目し,上海駅頭で銃弾に倒れた。その死は第二革命を誘発する要因となった。
→関連項目中国国民党

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宋教仁」の意味・わかりやすい解説

宋教仁
そうきょうじん
Song Jiao-ren; Sung Chiao-jên

[生]光緒8(1882)
[没]1913.3.22. 上海
中国の革命家。湖南省桃源県の人。光緒 30 (1904) 年黄興の華興会結成に参加,長沙蜂起に失敗,日本に亡命し,早稲田大学に学ぶかたわら,雑誌『二十世紀之支那』を発行して革命思想を鼓吹した。同 31年の中国革命同盟会結成に参加,機関誌『民報』の編集にあたった。宣統2 (10) 年上海で『民立報』を発行,揚子江流域の革命工作に従事,同3年辛亥革命が起ると南京臨時政府の法制院総裁として臨時約法を起草した。一時,北京臨時政府の農相となったが,同盟会を国民党 (→中国国民党 ) に改組,理事長代理として (理事長は孫文) 事実上の党首となり,多数議席獲得,責任内閣組織によって大総統袁世凱を牽制しようとした。そのため 1913年3月 20日,袁の手先に上海駅頭で狙撃され,2日後死亡した。

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朝日日本歴史人物事典 「宋教仁」の解説

宋教仁

没年:民国2.3.22(1913)
生年:光緒8.2.18(1882.4.5)
中国読み「ソン・チヤオレン」。中国に議会制民主主義の確立を夢見た辛亥革命期の革命家。湖南省桃源県の人。字は遯初,号は漁父。光緒29(1903)年,ロシアの東三省占拠に抵抗する拒俄義勇隊を組織。同30年には黄興,陳天華らと清朝打倒の華興会を結成し,長沙蜂起に失敗して日本に亡命。早大に入学。中国同盟会の結成(1905)に参加したが,広東中心の孫文と対立し,長江流域での革命を主張して同盟会中部総会を組織,北一輝,内田良平らと親交。辛亥革命後は南京臨時政府で法制局局長,袁世凱臨時大総統の唐紹儀内閣で農林総長。西欧流の議会政党政治・議院内閣制を求めて国民党を組織し,民国2(1913)年の初の国会議員選挙で圧勝したが,袁世凱に暗殺された。<著作>陳旭麓主編『宋教仁集』上下

(横山宏章)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「宋教仁」の解説

宋教仁(そうきょうじん)
Song Jiaoren

1882~1913

清末民国初期の革命運動家。湖南省桃源県の人。1904年,黄興(こうこう)らと華興会を組織して革命運動を始めたが,失敗して日本に亡命,05年孫文らと中国同盟会を組織して,主として長江流域の革命工作にあたった。民国成立後,同盟会を改組して国民党をつくって袁世凱(えんせいがい)に敵対したため,袁に暗殺された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宋教仁」の解説

宋教仁 そう-きょうじん

1882-1913 中国の革命家。
光緒(こうしょ)8年2月18日生まれ。湖南省の人。東京で孫文らと中国革命同盟会を結成。機関誌「民報」を発行。辛亥(しんがい)革命後は南京(ナンキン)臨時政府の法政院総裁となる。1912年同盟会を国民党に改組しその中心人物となったが,1913年3月22日袁世凱(えん-せいがい)の刺客に暗殺された。32歳。字(あざな)は遯初。号は漁父。

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世界大百科事典(旧版)内の宋教仁の言及

【袁世凱】より

…しかし,国会選挙では袁世凱の与党が敗北し,国民党が多数派となった。そこで袁世凱は国民党が国務総理に擬した宋教仁を暗殺し,あれこれと国民党を挑発した。孫文,黄興らは反袁の武装蜂起(第二革命)に決起したが,簡単に鎮圧された。…

【中国同盟会】より

…06年7月,蘇報事件の3年の刑期をつとめあげた章炳麟が来日して《民報》の主筆となると,彼の学者革命家としての名声が革命派の声価をいっそうたかめたが,彼は孫文とあわず,そのため同盟会は内部分裂を起こすことになる。その遠因は孫文,黄興らが華南での武装蜂起路線に執着しすぎたことにあるが(1906年12月から08年4月の間に6度),09年10月に孫文らは香港に南方支部をつくり,11年7月,宋教仁らは〈長江革命〉をとなえて上海に中部総会をつくった。この分裂状況を克服させたのが,武昌蜂起とそれにつづく革命の勝利であった。…

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