安積澹泊(読み)アサカタンパク

デジタル大辞泉 「安積澹泊」の意味・読み・例文・類語

あさか‐たんぱく【安積澹泊】

[1656~1738]江戸中期の儒学者。名はさとる水戸藩士。彰考館総裁として「大日本史」の編纂へんさん従事主著「大日本史賛藪さんそう」。

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精選版 日本国語大辞典 「安積澹泊」の意味・読み・例文・類語

あさか‐たんぱく【安積澹泊】

江戸前期の儒者、史学者。水戸藩士。名は覚。字は子先、通称は覚兵衛。朱瞬水に師事最初の彰考館総裁となって「大日本史」の編纂に従事し、水戸史学の確立に努力した。主著「大日本史賛藪」「湖亭渉筆」「澹泊斎文集」など。明暦二~元文二年(一六五六‐一七三七

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改訂新版 世界大百科事典 「安積澹泊」の意味・わかりやすい解説

安積澹泊 (あさかたんぱく)
生没年:1656-1737(明暦2-元文2)

江戸中期の儒学者。水戸藩士。字は子先,通称は覚兵衛,澹泊斎また老圃と号し,致仕後老牛と改めた。祖父正信のとき初代藩主徳川頼房に仕え,父貞吉は儒学を好み,詩文をよくした。1665年(寛文5)から朱舜水に師事。70年大番組で200石,75年には小納戸役に進む。83年彰考館編修,92年(元禄5)300石,翌年同館総裁に任ぜられ,2代藩主徳川光圀を助けて《大日本史》の編纂に主導的役割を果たした。1714年(正徳4)総裁を辞したが,その後も本紀・列伝の校訂作業を続け,16年(享保1)から5年間は〈論賛〉の執筆に当たった。33年致仕したが,なおも校訂を続け,その完了直後に没した。学者として謙虚な態度を持し,新井白石室鳩巣荻生徂徠らと親交を結んだ。博識でとくに史学に長じ,《澹泊斎文集》《澹泊先生史論》《西山遺事》などの著書がある。
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百科事典マイペディア 「安積澹泊」の意味・わかりやすい解説

安積澹泊【あさかたんぱく】

江戸中期の朱子学者。名は覚,字は子先(しせん),通称は覚兵衛(かくべえ)。常陸(ひたち)水戸藩士。朱舜水に学び,史学に長じた。1692年彰考館総裁となって,徳川光圀の《大日本史》の編纂(へんさん)に主導的役割を果たした。著書《大日本史賛藪(さんそう)》《烈祖成績》《西山遺事(せいざんいじ)》など。
→関連項目栗山潜鋒水戸学

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朝日日本歴史人物事典 「安積澹泊」の解説

安積澹泊

没年:元文2.12.10(1738.1.29)
生年:明暦2.11.13(1656.12.28)
江戸中期の儒学者。水戸藩士。名は覚,字は子先,通称は覚兵衛,澹泊は号。希斎と号し詩文をよくした父貞吉の指示で寛文5(1665)年朱舜水の門に入る。天和3(1683)年彰考館編修となり,元禄5(1692)年300石を給され,翌6年彰考館総裁に任じ,藩主徳川光圀のもとで『大日本史』編纂に指導的役割を果たした。正徳4(1714)年には総裁を辞するが,以後も彰考館に勤務して修史事業に尽力。享保12(1727)年から17年にかけては『烈祖成績』の編纂も担当し,老年で視力の衰えが著しいにもかかわらず精魂を傾けてこれを完成した。博識で史学にすぐれていたが,学者としてつねに謙虚な態度を持し,新井白石,室鳩巣,荻生徂徠らとも親交があった。<参考文献>吉田一徳『大日本史紀伝志表撰者考』,『水戸市史』中巻1

(鈴木暎一)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安積澹泊」の意味・わかりやすい解説

安積澹泊
あさかたんぱく
(1656―1737)

江戸中期の歴史家、水戸藩士。名は覚、字(あざな)は子先(しせん)、通称覚兵衛。澹泊(斎)は号。晩年は老圃(ろうほ)、老牛、碧於亭(へきおてい)とも号した。水戸藩主徳川光圀(みつくに)が招いた明(みん)の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)の門人。1683年(天和3)彰考館編修となり『大日本史』の編纂(へんさん)に従事すること54年に及ぶ。その間1693年(元禄6)には彰考館総裁となった。その生涯の大部分は、佐々十竹(ささじゅうちく)とともに光圀を助けて修史事業に捧(ささ)げられた。後世の創作『水戸黄門漫遊記』の格さんのモデルにされた。禄高(ろくだか)は300石。おもな著書に『大日本史論賛』『烈祖成績』『西山遺事』『湖亭渉筆』『朱文恭遺事』『澹泊斎文集』『澹泊史論』などがある。墓は水戸藩士の常磐原(ときわばら)共有墓地(水戸市末広町)にある。

[瀬谷義彦]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安積澹泊」の解説

安積澹泊
あさかたんぱく

1656.11.13~1737.12.10

江戸前・中期の儒学者。常陸国水戸藩士。父は貞吉。名は覚,字は子先,通称は覚兵衛,澹泊斎・老圃(ろうほ)と号した。祖父以来水戸藩に仕え,水戸藩の賓客であった明の遺臣朱舜水(しゅしゅんすい)に師事して儒学を学ぶ。1683年(天和3)彰考館編修,93年(元禄6)同総裁となり,2代藩主徳川光圀(みつくに)のもとで「大日本史」編纂の中心的役割をはたし,また「論賛」を執筆。致仕後も紀伝稿本の筆削補訂に従事。新井白石・室鳩巣(むろきゅうそう)・荻生徂徠(おぎゅうそらい)らと親交があり,前期水戸学を代表する学者。著書「西山遺事」「烈祖成績」「澹泊史論」「澹泊斎文集」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安積澹泊」の解説

安積澹泊 あさか-たんぱく

1656-1738* 江戸時代前期-中期の儒者。
明暦2年11月13日生まれ。安積希斎の子。常陸(ひたち)水戸藩士。朱舜水(しゅ-しゅんすい)の門にまなぶ。元禄(げんろく)6年彰考館の総裁となり,「大日本史」編修につくした。新井白石,室鳩巣(むろ-きゅうそう)らと親交があった。「水戸黄門漫遊記」の格さんのモデルとされる。元文2年12月10日死去。82歳。名は覚。字(あざな)は子先。通称は覚兵衛。別号に老圃,常山など。著作に「大日本史賛藪」「西山遺事」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安積澹泊」の意味・わかりやすい解説

安積澹泊
あさかたんぱく

[生]明暦2(1656).11.13. 水戸
[没]元文2(1737).12.6/10. 水戸
江戸時代中期の朱子学者。名は覚,字は子先,通称は覚兵衛,号は澹泊,老圃など。祖父正信,父貞吉ともに水戸藩に仕える。朱舜水に学ぶ。博学能文,ことに史学に長じる。新井白石,室鳩巣と交わる。水戸光圀の日本史編纂に参与,彰考館総裁として『大日本史』を享保5 (1720) 年完成し江戸幕府に進献する。著作『烈祖成績』『澹泊斎文集』『湖亭渉筆』『老圃詩かい』『朱文恭遺事』『大日本史論賛』『大日本史賛藪』『神祖遺事』。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安積澹泊」の解説

安積澹泊
あさかたんぱく

1656〜1737
江戸中期の朱子学者
常陸 (ひたち) (茨城県)の人。水戸藩に仕え,朱舜水 (しゆしゆんすい) に学んだ。歴史に造詣 (ぞうけい) が深く,『大日本史』編纂の際彰考館総裁として,その功績は大きい。新井白石・室鳩巣 (むろきゆうそう) らとも親交があった。主著に『大日本史賛藪 (さんそう) 』『澹泊斎文集』など。

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367日誕生日大事典 「安積澹泊」の解説

安積澹泊 (あさかたんぱく)

生年月日:1656年11月13日
江戸時代前期;中期の儒学者
1738年没

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世界大百科事典(旧版)内の安積澹泊の言及

【徳川光圀】より

…また当時の庶民間の旅行ブームや十返舎一九の《東海道中膝栗毛》にならって,光圀の諸国漫遊譚が誕生した。光圀による3回もの蝦夷地渡航や,《大日本史》編纂のため,安積澹泊(あさかたんぱく)(通称覚兵衛。講釈で渥美格之丞。…

※「安積澹泊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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