安政地震(読み)あんせいじしん

改訂新版 世界大百科事典 「安政地震」の意味・わかりやすい解説

安政地震 (あんせいじしん)

安政年間(1854-60)に起こった地震で,次の三つが著名。1854年12月23日(安政1年11月4日)午前9時すぎに安政東海地震(安政地震I)が遠州灘沖に発生した。震央位置は北緯34°,東経137.8°,マグニチュードは8.4といわれるが,震源域は遠州灘沖から駿河湾内の全長200km以上の海域におよんでいることが明らかとなった。有感地域は岩手県から九州におよんでいる。被害のひどかったのは,沼津から浜松に至る沿岸よりの地域と,富士川沿いに甲府盆地におよぶ地域である。津波房総から土佐に至る海岸を襲った。とくに下田では840戸流失全壊,30戸半壊水入り,無事な家は4戸のみであった。津波はサンフランシスコにまで達した。御前崎付近の相良(さがら)では陸が約1m隆起した。この地震をふくめさまざまな調査研究の結果,駿河湾を中心とした東海沖に近いうちに巨大地震が発生する可能性が強いというので,各種の対策が講じられている。

 この後,12月24日午後4時ころに南海道沖の海域(北緯33°,東経135°)にマグニチュード8.4の安政南海地震(安政地震II)が発生した。家屋倒壊地域は中部近畿,四国,九州におよび,出雲でも被害があった。津波の被害は紀伊から九州におよんだ。とくに大坂では津波が川を逆流し,船を沈め,橋をこわし,死者多数を出した。四国での被害も大きかった。この地震で室戸岬付近,串本付近では陸が1mあまり隆起した。死者数は1万人くらいと思われる。安政東海地震の死者はこれよりは少なかった。

 翌55年11月11日(安政2年10月2日)午後10時ごろ,江戸を中心として直下型の江戸地震が発生した。震央は荒川河口付近(北緯35.65°,東経139.8°)でマグニチュードは6.9といわれる。民家のつぶれ1万4000戸以上,町方の死者約4700人,武家方・社寺方を含めると死者は1万人をこえると思われる。地震前に江戸市中で水が湧き出すほどの前兆現象がみられた。江戸川沿いの桑川や幸手(さつて)付近では著しい液状化現象(クイックサンド)がみられた。江戸以外でも現在の東京湾沿岸各地で被害があった。
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百科事典マイペディア 「安政地震」の意味・わかりやすい解説

安政地震【あんせいじしん】

安政年間(1854年―1860年)には,安政1年6月(1854年7月)の奈良〜四日市の地震,同年11月4日の東海地震,翌5日の南海地震,安政2年10月2日(1855年11月11日)の江戸地震,安政5年2月(1858年4月)の飛騨北部地震など多少とも被害を伴う大小20回ほどの地震が発生している。うち東海・南海・江戸地震を安政の三大地震ともいう。東海・南海地震はいずれもマグニチュード8.4と推定され,両地震とも津波の被害も大きく,南海地震の死者は2000〜3000人,東海地震はこれより少なかったと思われる。江戸地震は荒川河口付近を震源とし,局部的だが被害が大きく,市内30余ヵ所に出火,江戸城の石垣がくずれ,諸門が倒れ,壊焼家屋1万4346戸,市中の死者約7000人,藤田東湖,戸田蓬軒らも圧死。

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