安土宗論(読み)あずちしゅうろん

精選版 日本国語大辞典 「安土宗論」の意味・読み・例文・類語

あずち‐しゅうろん あづち‥【安土宗論】

天正七年(一五七九五月織田信長安土城下浄土宗浄厳院で行なわせた、浄土宗と日蓮宗論争。浄土宗の勝となり、日蓮宗側は詫証文を書かされるなど厳しく処罰された。日蓮宗の勢力増大を嫌った信長の計画的な弾圧とされる。

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デジタル大辞泉 「安土宗論」の意味・読み・例文・類語

あづち‐しゅうろん【安土宗論】

天正7年(1579)5月織田信長の命によって安土城下浄厳院で行われた浄土宗日蓮宗宗論。浄土宗側の勝ちとされ、日蓮宗側は詫び証文を出し、厳しく処罰された。日蓮宗を弾圧するためのものとされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安土宗論」の意味・わかりやすい解説

安土宗論
あづちしゅうろん

織田信長の城下安土(滋賀県近江八幡(おうみはちまん)市)で行われた浄土宗と日蓮(にちれん)宗の宗論事件。1579年(天正7)5月中旬、浄土宗の長老霊誉玉念(れいよぎょくねん)が城下で説法をしていたところ、日蓮宗の信者大脇伝介(おおわきでんすけ)と建部紹智(たけべしょうち)が問答をしかけたので、玉念は2人との問答を避け、宗門の僧を出せと答えたことに端を発する。やがて京都の日蓮宗の学僧日諦(にったい)、日淵(にちえん)、日珖(にっこう)の3人が安土へ呼び出され、5月27日城下の浄厳院(じょうごんいん)において、ものものしい警固のなかで宗論が行われた。しかし決着がつかないうちに日蓮宗の負けが宣告され、その場にいあわせた僧侶(そうりょ)や信者たちが数多く捕らえられた。なかでも積極的な伝道活動を行っていた普伝や、事件の発端をつくった大脇伝介は信長の面前で殺され、問答に負けた僧侶3人には、今後は他宗に対して法論をしかけないことなどの起請文(きしょうもん)を書くことが要求された。いわば信長は、城下で起こったこの宗論事件を日蓮宗弾圧の具に使ったのであり、日蓮宗弾圧事件ともいえる。安土宗論を契機として、日蓮宗では従来の強引な布教態度が姿を消すとともに、寺院を離れて活躍する伝道僧の行動が著しく制限されるようになった。それは、のちに江戸幕府が行う仏教統制への第一歩として、重要な意味をもっている。

[中尾 尭]

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改訂新版 世界大百科事典 「安土宗論」の意味・わかりやすい解説

安土宗論 (あづちしゅうろん)

1579年(天正7),織田信長の命令で安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論。当時,信長の本拠だった新興都市の安土では,折伏(しやくぶく)の談義僧でならした普伝日門の布教によって法華宗が猛烈にのびていた。また,信長が当時その統治に腐心した京都や堺でも,町衆社会に法華宗が大きな勢力をもっていた。この宗論自体は浄土宗の僧と法華信徒の問答に始まったが,信長の命で,両宗を代表する高僧らの対論となり,信長の介入で法華宗の無惨な敗北となって決着した。普伝は斬られ,頂妙寺日珖(につこう)ら対論出席者は満座の中で袈裟をはぎとられ,なぐられた。しかも宗論のあと,信長は京都の法華宗本山13ヵ寺から黄金2600枚という莫大な償金をまきあげ,また詫証文をとって浄土宗の本山知恩院に与えた。法華宗の敗北は,それを支持した都市町衆の信長への屈伏を意味し,この宗論は信長の都市政策を大きく推進させる契機となった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安土宗論」の意味・わかりやすい解説

安土宗論
あづちしゅうろん

天正7 (1579) 年5月中旬,織田信長の命により安土浄厳院で行われた浄土宗日蓮宗の間の法論。関東より西上した浄土宗僧霊誉が7日間の法談を安土城下で行なった際,日蓮宗信者建部紹智,大脇伝助らが聴聞していてこれに疑義論問したことが発端。日蓮宗頂妙寺日こう,妙国寺普伝ら僧俗が安土に集り,信長の仲裁を聞かず法論を要求し,ついに法論に決したもので,南禅寺秀長老,因果居士らが判者となり,織田七兵衛ら5人が警固,日蓮宗側の僧徒多数に対し浄土宗側は霊誉,貞安の2人が参加した。問答の結果,日蓮宗が負けて,建部,大脇,普伝ら処罰者を出し,浄土宗に対し法難をしないという証文を出して終った。

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百科事典マイペディア 「安土宗論」の意味・わかりやすい解説

安土宗論【あづちしゅうろん】

1579年(天正7年)5月27日,織田信長が安土で行わせた浄土・法華両宗間の法論。結果は浄土側の勝利に終わったが,かねてから京都や堺の町衆に大きな勢力をもっていた法華宗弾圧を意図していた信長が,当初から計画的に仕組んだものとみられる。
→関連項目日蓮宗

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安土宗論」の解説

安土宗論
あづちしゅうろん

安土法論・安土問答とも。1579年(天正7)5月27日,織田信長の命により,浄土宗鎮西義の浄厳院(現,滋賀県近江八幡市)で行われた浄土宗と日蓮宗の宗論。奉行衆の立会いのもと,両宗各4人の代表と判者4人が出席して13問答を重ねた。信長の内意をうけ,華厳宗の学者とされる因果居士らにより,浄土宗の勝利と判定された。日蓮宗側は奉行衆に詫証文(わびじょうもん)を提出して罰金を納めるなどの罰をうけた。信長が排他的な日蓮宗を計画的に抑圧したものと考えられ,以後,日蓮宗は折伏(しゃくぶく)から摂受(しょうじゅ)へと変化した。「安土問答(宗論)実録」は安土宗論の基本史料。

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旺文社日本史事典 三訂版 「安土宗論」の解説

安土宗論
あづちしゅうろん

1579年,近江国(滋賀県)安土で行われた日蓮宗と浄土宗との宗教論争
織田信長が日蓮宗の勢力を抑えようとして安土城下浄厳院で宗論対決させた。南禅寺因果居士らを判者として無理に日蓮宗を負けとし,日蓮僧を殺害した。信長の日蓮宗への計画的弾圧である。

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世界大百科事典(旧版)内の安土宗論の言及

【安土桃山時代】より

…79年に信長はこの地で日蓮(法華)宗を浄土宗と対決させて敗訴を宣告した。この安土宗論によって日蓮宗は打撃をうけ,抵抗の芽は事前につみとられた。 信長は指出検地や家数改めを行い,権力基盤の強化につとめたが,中国征伐の途上,82年家臣の明智光秀によって本能寺で殺され,政権は未完成のまま瓦解した。…

【宗論】より

… のちに日蓮宗(法華宗)が謗法折伏(ほうぼうしやくぶく)を標榜して台頭してくると,中世後期の宗論は,日蓮宗と他宗との宗論が中心となった。1338年(延元3∥暦応1)備後の守護屋形で対決した本願寺存覚と日蓮宗の宗論,1501年(文亀1)管領細川政元の命で京都で行われた日蓮宗と浄土宗の宗論(文亀宗論),1536年(天文5)天文法華の乱の起因となる叡山の僧と1人の日蓮宗信者との間で争われた〈松本問答〉,75年(天正3)ごろ,阿波一国を皆法華に改宗させようとして三好長治の命で行われた日蓮宗と真言宗の宗論,79年(天正7)織田信長が安土城下の浄厳院(じようごんいん)で浄土宗の玉念らと日蓮宗の日珖(につこう)らを対決させた〈安土宗論〉,1608年(慶長13)江戸城中の家康の面前で行われた浄土宗源誉らと日蓮宗日経らによる〈慶長宗論(江戸宗論)〉などは,その社会的影響にはかりしれないものがあった。以上のうち,大原談義,文亀宗論,安土宗論,慶長宗論を,ときに〈日本四箇度宗論〉という。…

※「安土宗論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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