安国寺(読み)アンコクジ

デジタル大辞泉 「安国寺」の意味・読み・例文・類語

あんこく‐じ【安国寺】

足利尊氏直義の兄弟が、夢窓疎石の勧めによって国家安穏を祈願し、南北両朝の戦没者供養のため、日本の各国ごとに建立させた禅寺。塔も建立され、利生りしょう塔と称した。臨済宗に所属。
安国論寺

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精選版 日本国語大辞典 「安国寺」の意味・読み・例文・類語

あんこく‐じ【安国寺】

[一] 足利尊氏、直義の兄弟が夢窓国師の勧めに従い、国土安穏の祈願、ならびに元弘の変以来の戦没者の供養のため、奈良時代の国分寺にならい、六六か国二島に一寺一塔を建立させた禅寺。臨済宗に属す。延元三年(一三三八)に始まり、南北朝中期には全国にまで及んだという。その寺を安国寺、塔を利生(りしょう)塔と称した。
※梅松論(1349頃)下「三条殿は六十六ケ国に国ごとに寺を一宇立て、各安国寺と号。又塔婆一基を造立して」
[二] 安国寺恵瓊(えけい)のこと。→恵瓊

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日本歴史地名大系 「安国寺」の解説

安国寺
あんこくじ

[現在地名]芦辺町深江

栄触さかえふれにある臨済宗大徳寺派寺院。境内は壱岐国安国寺跡として県指定史跡。老松山と号し、本尊は地蔵菩薩。足利尊氏・直義の兄弟が諸国に建立を求めた安国寺利生塔の一つで、壱岐国安国寺はすでにあった海印かいいん寺をこれに充てたとされる。前身の海印寺は朝廷祈福道場であったという。その開山に臨済宗幻住派の無隠元晦(延文三年没)を招請しているが、元晦は筑前顕孝けんこう(現福岡市東区)に住したのち、貞和年間(一三四五―五〇)に筑前博多聖福しようふく寺の第二一世となり、京都建仁寺・同南禅寺を歴任、その間に壱岐国に老松山海印寺、豊前国に宝覚寺(現未詳)を開創している(本朝高僧伝・壱岐国史)。貞和六年尊氏の鬢髪が当寺に納められ、明徳三年(一三九二)には無隠の法嗣という「透関□徹」が足利氏から公帖を受けて入寺し、寺内に宝持ほうじ院を創建している(「惟肖得巌集拾遺」五山文学新集、「壱岐名勝図誌」)。応永三年(一三九六)顕悦首座が足利義満から公帖を受けて壱岐安国寺に入るが(同年一二月五日「足利義満公帖」安国寺文書)、同六年「一岐安国新住持」として朝鮮王朝に使いを派遣して礼物を献上(「朝鮮王朝実録」定宗元年九月是月条)、交易を行っていたことが知られる。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]川内町則之内 一ヶ谷

おもて川と井内いうち川の合流点の東のいちたににある。臨済宗妙心寺派。万松山と号し、本尊は薬師如来・釈迦如来

「伊予古蹟志」に「尊氏以無極玄師我開山肇営是暦応二年」とみえるが、寺伝によれば開山は智覚普明とされ、建立者は河野通盛である。

安国寺古文書の足利義満寄進状には「伊予安国寺、同国余戸荘、並吉原郷地頭職、松崎浜等事、右為当寺領寄附之状如件、嘉慶二年二月二十八日左大臣源朝臣」とあり、南北朝末期の嘉慶二年(一三八八)安国寺は寺領として現松山市和気わけの一部、三津浜みつはま古三津ふるみつ新浜しんはま地方および現松前まさき町の一部を有したことになり、応永四年(一三九七)の河野通之知行状に「伊予国余戸庄内、大野森山先知行分所領事、上方為御寄進、被御教書上者、早自寺家御知行不相違之状、如件」とあるのはこれを裏付ける(川内町誌)

安国寺
あんこくじ

[現在地名]熊本市横手三丁目

横手菅原よこてすがわら神社から西の花岡はなおか山に向かう直線の道があり、旧井芹いせり川に架かる安国寺橋を渡ったところにある。南は妙解みようげ寺に接する。泰平山と号し、曹洞宗、本尊釈迦牟尼仏。「国誌」によると加藤清正の時に建立された弘真寺が忠広時代に退転荒廃。細川氏の小倉時代に建立された安国寺の住僧梵徹が、細川氏とともに肥後に入国し、弘真寺に住居し祈祷所とし、安国寺と改称したとある。長禄三年(一四五九)の絵馬真経があったと伝えるが(同書)、現在はみられない。本堂正面に仏国高泉書の安国寺の大額がかかる。本尊の釈迦如来坐像は檜材の寄木造で漆箔があり、製作年は安国寺創設の元和年間(一六一五―二四)よりはるかに古い。両脇に阿難と迦葉の立像を従える。本堂裏手内陣に開山明巌梵徹の坐像が安置される。境内には数多くの石造物がある。松葉文塚は安永一〇年(一七八一)来熊し、熊本の俳界に大きな影響を与えた谷口鶏口の記念碑である。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]福山市鞆町後地

御幸みゆきにあり、瑞雲山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊阿弥陀三尊。当寺は足利尊氏・直義の兄弟が安国寺・利生塔を全国に建立した際、法灯国師覚心を開山に仰いで備後国の安国寺として創建されたと伝える。しかし、本尊の胎内に造立銘が発見され、もと金宝きんぽう寺と称する寺でその創建は文永年間(一二六四―七五)にさかのぼり、のち暦応二年(一三三九)に安国寺に改められたのではないかと考えられるようになった。ただ、安国寺に改められた時期については、安国寺と記された史料が応永六年(一三九九)を初見とし(現愛媛県伊予市伝宗寺蔵大般若経奥書)、逆に暦応二年に「鞆浦釈迦堂」(浄土寺文書)の名がみえるため疑問視する説もある。

当寺は、南北朝期以降しだいに衰微の途をたどり、天文年間(一五三二―五五)には鞆を支配していた渡辺氏が寺領について配慮したこともあったが(渡辺詮書状「福山志料」所引)、安国寺恵瓊が当寺の住持を兼ねるに至って再興された。慶長四年(一五九九)には毛利輝元を大檀越として釈迦堂の修理が行われ(安国寺釈迦堂内陣聯銘文)、その頃鞆の三分の一を領していたという。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]那覇市首里寒川町一丁目

首里城の西方に位置する。太平山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊不動明王。首里古地図によると首里城正面から西に延びる綾門大あいじよーうふ道に面し、守礼しゆれい門と中山ちゆうざん門に挟まれた南側にあり、東は南北道を隔てて玉陵たまうどうん、西は御客屋うちやくや、北は綾門大道を隔てて中城なかぐしく御殿・大美うふんみ御殿があった。「琉球国由来記」所収の太平山安国寺記によると、尚泰久王時代、景泰年間(一四五〇―五六)世祖の冥福と国王の健康を祈願し、日本における一国に一寺(安国寺)を置く例に準じて創建されたという。開基は神応じんのう寺の開祖である熙山周雍で、創建時の寺地は「琉球国由来記」には檳榔下村とあるが、「球陽」には首里久場下とあり、「南島風土記」は首里久場川としている。現首里真和志しゆりまわし町一丁目クバサスージを入った中山演技場跡と推定されている。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]松江市竹矢町

中海に注ぐ意宇川の左岸に位置する。宝亀山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊は薬師如来。もとは宝亀山円通えんつう寺と号し、寺伝では宝亀四年(七七三)の創立と伝える。建武四年(一三三七)四月二七日の足利直義御教書(出雲安国寺文書、以下断りのない限り同文書)は「円通寺直老」に宛てられており、祈祷に励むことを命じられている。南北朝時代足利尊氏・直義は夢窓疎石の勧めにより国ごとに安国寺を置く計画を立て、康永四年(一三四五)四月九日の足利直義御教書によって竹矢ちくや郷内の円通寺が出雲の安国寺にあてられ、料所を寄進された。以後、足利氏の崇敬を受け、南北朝期に数通の御教書を得ている(観応三年四月五日足利義詮御教書など)

安国寺
あんこくじ

[現在地名]綾部市安国寺町 寺ノ段

安国寺集落西方の山麓、てらだんにある。臨済宗東福寺派。景徳山と号し、天庵妙受を開山とする。本尊は釈迦牟尼仏。「丹波志」は次のごとく記している。

<資料は省略されています>

建武元年(一三三四)一二月二七日付上杉朝定書状(安国寺文書)に、

<資料は省略されています>

とあって、安国寺は初め光福こうふく寺とよばれ、上杉氏と密接な結付きがあった。上杉朝定の叔母清子は足利貞氏に嫁し尊氏・直義兄弟を生んだ。清子が死の直前の康永元年(一三四二)八月一三日に朝定にあてた消息(同文書)は「むまれそたちたる所にて候程に、うち寺にしたく候」と述べている。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]茅野市宮川 安国寺

樋沢ひざわ城跡の東南、安国寺村のほぼ中央に位置する。臨済宗妙心寺派。山号は泰平山、本尊は釈迦如来。北側は上社参宮線が通じ、西側を南へ迂回して杖突つえつき道が通っている。創設当初は七堂伽藍を有し、広大な面積を占めていた(寺伝の古図)といわれ、現在地はその一画である。

「梅松論」に「三条殿(足利直義)は六十六ケ国に寺を一宇づつ建立し、各安国寺と号し、同塔婆一基を建立して所領を寄られ」とある安国寺が、諏訪郡の中を選んで創設された年代は、同寺が文明一四年(一四八二)の大洪水により伽藍・文書等ことごとく流亡したため不明であるが、他の安国寺が多く一四世紀前半に創設されているから、この頃と推定できよう。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]米子市寺町

てら町の東寄りにあり、東隣は瑞仙ずいせん寺。万寿山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。創建の時期は不明。暦応年中(一三三八―四二)足利尊氏によって会見あいみ大寺おおてら(現岸本町)の地に臨済宗寺院として創建されたと伝え、本堂は一二間四方、数十の属坊をもつ大伽藍があり、所領三千石を有したともいわれる(伯耆志)。室町時代中期には諸山に叙せられ、「蔭涼軒日録」永享九年(一四三七)七月二〇日条に「伯州安国寺全西堂」の名がみえ、以後同書には当寺首座の名が散見される。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]久留米市山川神代一丁目

筑後川左岸の低微高地、西神代にしくましろにある。臨済宗南禅寺派。山号は神代山。本尊は釈迦如来。白雉二年(六五一)奈良東大寺から招かれた藤原氏出身の万法唯一が開山し、堂塔は高良こうら山神裔を称する神代氏が創建したという。もと万法まんぽう寺と号した。当地は古代から交通の要地で、神代氏は鎌倉期に筑後川渡河の神代渡を管轄したという。高良山神裔との所縁から天台系であったと考えられるが、乾元二年(一三〇三)に中興した万法守一が臨済宗聖一派に改宗。本尊木造釈迦如来像(県指定文化財)は建長六年(一二五四)に製作され、乾元二年に修復(胎内墨書銘)

安国寺
あんこくじ

[現在地名]山辺町大寺

白鷹しらたか丘陵の東縁、山形盆地を東に望む高台の上に位置する。太平山と号し曹洞宗。本尊は釈迦如来であるが、同像は様式からいえば結跏趺坐阿弥陀如来。安国寺は、足利尊氏・直義の兄弟が夢窓疎石の勧めにより、戦死者の菩提を弔うために全国六六ヵ国二島に一寺ずつ建立したもので、各国守護の菩提所である五山派の有力禅院が指定された。また、安国寺建立のねらいには、北朝の勢力範囲を拡張し、兵を置き、城郭の機能を備えることで軍略上の拠点にすることがあったといわれる。

延文元年(一三五六)奥州探題斯波家兼の次男兼頼(最上氏の祖)が山形に入部する。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]神埼町大字城原字朝日

土器かわらけ山の東麓で、前面は城原じようばる川。もと大光だいこう寺と称した。現在朝日山と号し黄檗宗。本尊は釈迦如来。

嘉暦二年(一三二七)二月三日の藤原光秀寄進状案(仁比山神社文書)に「奉寄進、肥前国神埼庄朝日山大光寺 在肥前国神崎庄内上条郷的里卅三坪」とあるところから、鎌倉末期にはかなりの名刹だったと推定される。巧安(嶮崕と号す)の開山という。この僧は元弘元年(一三三一)八〇歳で死去しているから、同寺の創建年代は一三世紀末と考えられる。建武新政府は大光寺に対して寺領岩田いわた村を安堵した(竜造寺家文書)

足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられた翌年の延元四年(一三三九)、全国に一国一基の塔婆を立てることを光厳上皇に願い出た。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]鶴岡市新海町

新海しんかい町の南東部にある。泰峰山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。近世にはしん町の北、高安こうあん寺の北隣に位置し、寺の前は安国寺前あんこくじまえとよばれた。東は三の丸の堀を隔て大督だいとく寺。三河国吉田よしだ(現愛知県豊橋市)大樹だいじゆ(現同県岡崎市)透誉慶円(のち大督寺住持)の弟子英誉九清により創建され、初め長源ちようげん寺と称した。天正一九年(一五九一)酒井氏に従って下総臼井うすい(現千葉県佐倉市)へ移り、このとき安国寺と寺名を改め、旧寺号を院号とした。その後も酒井氏転封に同行し、元和八年(一六二二)鶴ヶ岡に入った(元禄一六年「寺差出覚」鶏肋編)。寛文元年(一六六一)没した酒井忠勝の次男忠俊は当寺に葬られている(大泉紀年)

安国寺
あんこくじ

[現在地名]山田市下山田

大法たいほう山の南麓にある天台宗寺院。山号は白馬山、本尊は白衣観音千手観音。もとは禅宗で景福けいふく寺と号し、本尊は千手観音であったが、暦応四年(一三四一)以前に筑前安国寺に指定された。同年五月二九日足利直義は景福寺領設定のため、筑前国内の闕所地から得分三〇〇貫相当の「便宜之地」を注進するよう筑前守護少弐頼尚に命じている(「足利直義書下」相良家文書/大日本古文書五―一)。これを受けて同年一二月二〇日、足利尊氏は「嘉摩郡内下山田四十町尾藤六郎左衛門尉跡・土師庄内翁丸拾五町由木小次郎跡」を寄進した(「足利尊氏寄進状」同上)

安国寺
あんこくじ

[現在地名]中道町心経寺

西方を除く三方を山に囲まれた心経寺しんぎようじ集落の東端、最深部に位置する。山号は悟道山、曹洞宗。本尊釈迦如来。もと竜華りゆうげ寺末。夢窓疎石のすすめにより、暦応二年(一三三九)足利尊氏・直義兄弟が諸国に建立した安国寺・利生塔の一つ。七堂を備え、塔頭も多く軒を並べたというがのち衰退し、元和年中(一六一五―二四)竜華院一〇世の角山宗牛が再興、改宗した(甲斐国志)。慶長八年(一六〇三)三月一日の徳川家奉行連署判物(寺記)により寺領として心経寺村内に一石八斗余、鎮守権現(現白山神社)領として四斗余、境内五六〇坪の寄進を受けた。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]国東町安国寺

安国寺集落の西部にある。山号は太陽山。臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。足利尊氏・直義兄弟が各国ごとに建立を計画した安国寺のうち豊後国の安国寺が当寺である。山門に歴史の古さを感じるが、本堂は昭和一二年(一九三七)の造築。由緒では応永期(一三九四―一四二八)に田原氏能が将軍足利義満の命で絶海中津を迎えて開山としたと伝えるが、諸国安国寺の大半が南北朝中期に完成していることから当寺の建立は少々遅すぎる感があり、尊氏の死後義満が五山・十刹・諸山の制を強化充実する政策をとっている時期に豊後安国寺が創建された経緯は不詳というほかない。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]小倉北区竪町一丁目

曹洞宗。太平山と号する。本尊釈迦如来。足利尊氏が諸国に建てた安国寺の一つとされ、永正一二年(一五一五)玉泉ぎよくせん(現門司区)の二世恕心が再興したという。当初三本松さんぼんまつにあったが、慶長七年(一六〇二)細川忠興が小倉城築城のためたて長円ちようえん寺跡(現在地)に移したとされる(以上「小倉市誌」)。寛永九年(一六三二)小笠原忠真が入国、玉泉寺七世久山が転住し、山号を太平山とした。小倉領寺院聚録では規矩きく郡に四ヵ所の末寺と二ヵ所の寺庵、仲津なかつ郡に一ヵ所の末寺。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]浜田市上府町

伊甘山と号し、臨済宗東福寺派。本尊阿弥陀如来。和銅年間(七〇八―七一五)に創建されて福園ふくおん寺と称し、永久年間(一一一三―一八)に天台宗に改宗、国司藤原(御神本、益田氏祖)国兼の庇護を得て栄えたと伝える(「国苑掌鑑」「安国寺誌」石見安国寺文書)。その後火災などで堂宇は焼失荒廃したが、正和年間(一三一二―一七)に益田兼長後家の阿忍が亡夫の菩提を弔うために臨済宗の寺として再興したという(「安国寺誌」など)。正和二年二月二一日の阿忍譲状(益田家什書)に「ふくおん寺」とみえ、当寺などを保護するよう伝えられている。貞和二年(一三四六)一二月八日の阿忍所領寄進注文(同文書)によると、伊甘いかみ郷内の塩や材木を特権的に徴収できる権利をもっていたことがうかがえる。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]但東町相田

相田あいだ集落の西部にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は太平山。開山は法灯国師(無本覚心)といわれ(扶桑五山記)、法灯派の禅寺として鎌倉後期に開創されていたと思われる。本尊は釈迦如来。南北朝時代、足利尊氏・直義は全国に一寺一塔の建立(既存寺塔の改号)を進め、貞和元年(一三四五)光厳上皇の院宣を受けて寺を安国寺、塔を利生塔と称するようになった。当寺が安国寺と称するのも貞和元年以降であろう。ちなみに利生塔は現豊岡市金剛こんごう寺で、暦応二年(一三三九)に但馬の塔婆料所が寄付されているが(「二方考抄」北村家文書)、当寺が但馬の安国寺に指定されたのも同時期であろうか。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]古川市柏崎 安国寺

江合えあい川と多田ただ川が北と南から大崎おおさき平野に急激に広がろうとする所にある。興聖山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊は阿弥陀如来。「封内風土記」によれば、京都天龍寺の末寺で、暦応二年(一三三九)夢窓国師開山、足利尊氏の造営とある。尊氏は元弘年間(一三三一―三四)以来の戦死者の菩提を弔い、国家安泰を願い、暦応二年安国寺を一国に一寺建立した。陸奥国では大崎氏の居城名生みよう館に近い柏崎かしわざきに建てられた。その後幾度かの戦火で焼失、寺内にあった小庵を曹洞宗常楽寺と称し、わずかに法灯を守ってきた。

寛永三年(一六二六)二代藩主忠宗が領内巡視の折由来を聞き、復興させたという(志田郡沿革史)

安国寺
あんこくじ

[現在地名]国府町西門前

西門前にしもんぜんにあり、太平山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦如来。足利尊氏・直義兄弟は元弘(一三三一―三四)以来の戦死者の慰霊のため、暦応元年(一三三八)頃より貞和年間(一三四五―五〇)にかけて国ごとに一寺一塔を建立させた。飛騨国の安国寺は瑞巌を開山として、貞和三年建立されたという。文安二年(一四四五)諸山となり、宝徳元年(一四四九)には十刹になったと伝える。創建当時の本殿は天文(一五三二―五五)から永禄年間(一五五八―七〇)の兵火で焼失し、現在の本殿は寛永元年(一六二四)金森重頼により再建された。国宝の経蔵は大正一一年(一九二二)解体修理のとき発見された墨書によると、応永一五年(一四〇八)願主超一によって建立された。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]池田町小寺

小寺こでら集落の北西にある臨済宗妙心寺派寺院。楊岐山と号し、本尊十一面観音。足利尊氏・直義兄弟が設置した安国寺利生塔の一とされる。開山の此山妙在は夢窓疎石らと親交があったという。応安三年(一三七〇)一二月二二日の足利将軍家御教書写(金沢市立図書館蔵松雲公採集遺編類纂)に「濃州安国寺」とみえ、青柳あおやなぎ郷などの寺領が足利義満により安堵されている。当寺は足利氏を支えた土岐氏の拠点小島おじま(現春日村)・揖斐城(現揖斐川町)本郷ほんごう城などの南に位置し、軍事上の要地を占めた。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]越谷市大泊

大龍山東光院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開山などの由来については諸説があり、延文六年(一三六一)称阿が開山した(元禄八年「浄土宗寺院由緒書」東京都増上寺文書)とも、寛正二年(一四六一)誠誉専故が開山した(宝暦二年「大龍山東光院安国寺記録」寺蔵)とも伝える。慶安元年(一六四八)八月徳川家光から先規により寺領四石が寄進され、代々安堵された(「徳川家光朱印状」寺蔵文書など)。当寺には岩槻浄安じようあん寺との本末の争いに関する元和三年(一六一七)一〇月一〇日付の増上寺源誉存応書状が残されている。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]内原町大足

大足おおだらの北西端にある。曹洞宗、万年山と号する。本尊は釈迦如来。

天正一八年(一五九〇)円通えんつう寺が水戸城下から当地へ移ったのが最初と伝え、和光院過去帳(和光院文書)の寛永元年(一六二四)に「大足円通寺」とある。寛文三年(一六六三)円通寺がさらに千波せんば(現水戸市)に移ったのを機に残された寺名を安国寺と改めた。

安国寺
あんこくじ

[現在地名]東条町新定しんじよ

新定村の南、東条川左岸の丘陵地にある。安国寺(現臨済宗妙心寺派)の門前村。元禄郷帳に「古ハ新定村」と肩書されて安国寺とみえ、高一一石余。幕府領を経て宝永五年(一七〇八)から正徳二年(一七一二)まで総持院そうじいんと同じ。のち再び幕府領。宝暦一二年(一七六二)から幕末までは土井どい村と同じ。

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改訂新版 世界大百科事典 「安国寺」の意味・わかりやすい解説

安国寺 (あんこくじ)

足利尊氏・直義兄弟は,夢窓疎石の勧めにより,元弘以来の戦死者の霊をとむらい平和を祈願するため,1338年(延元3・暦応1)ころから貞和年間(1345-50)の約10年ほどの間に,全国66ヵ国2島に1寺1塔を設け,各塔婆には朝廷から賜った仏舎利2粒を納めた。ついで,1345年(興国6・貞和1)2月6日の光厳上皇の院宣によって,安国寺・利生(りしよう)塔と名付けられた。このうち利生塔は,真言・天台など旧仏教の大寺に設ける方針であったが,山城,相模,駿河などでは五山派の禅寺に設けられた。現在遺構はないが,京都八坂法観寺の五重塔ほか28ヵ国の利生塔の所在が認められる。全体では五重塔が多かったが,三重塔の場合もあった。一方,安国寺は,各国守護の菩提寺である五山派の禅院が指定された。大和,尾張,伊豆,下野,土佐の5ヵ国については未詳であるが,興福寺の一国支配権が認められていた大和国を除いては,すべて一国一寺の安国寺が設定されたものと推定される。

 安国寺・利生塔の設置については,天平時代の国分寺を模したという説もあるが,実際に寺塔設置を推進した直義が模倣したのは,安国寺の方は,北宋末に民心慰撫のために徽宗が建てた天寧禅寺や南宋の高宗が父徽宗の菩提のために各州に設けた報恩光孝禅寺,利生塔の方は,インドの阿育王が建てた8万4000の舎利塔や隋の文帝が全国110余ヵ所に設立した舎利塔などであろうと思われる。なお利生塔の着想は,夢窓が若いころ学んだ鎌倉円覚寺の舎利殿における道俗の舎利信仰からきているかもしれない。

 このような寺塔の設置は,その地方を領有している標章となりうるものであるから,その存在自体,その地方が室町政権の統治下にあることを示している。したがって,各国守護を通じての幕府勢力地域の維持に役立てられるとともに,幕府および守護体制にとって,軍隊の屯営地,前進拠点,あるいは軍事上の要衝を確保するという一面も持っていた。さらにまた,南朝の残存勢力をも含めた反幕勢力を監視抑制するという目的もあったであろう。このように,安国寺・利生塔の設置は,民心慰撫と平和祈願という宗教本来の目的のほかに,各国守護の連合に依存していた室町初期政権が,各国守護を掌握して,治安維持の強化を図るために,各国守護と関係が深い菩提寺などに寺塔を設けることによって,幕府の威信を宣揚するとともに,守護統制にも役立たせ,幕府権力を組織的に扶植して,幕府の全国支配体制をより円滑化しようという,政治的意図があったことがわかる。しかしながら,第一の推進者である直義の失脚,ついで尊氏の死去,守護層の変動交替に伴って,寺塔設立の目的も忘れ去られ,3代将軍義満のころには,ほとんど名目上だけのものになってしまい,やがて,幕府が全国に積極的に設置を進めていた十刹(じつせつ)や諸山などの五山官寺機構のなかに組みかえられていった。
五山十刹諸山
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百科事典マイペディア 「安国寺」の意味・わかりやすい解説

安国寺【あんこくじ】

京都府綾部市にある臨済宗東福寺派の寺。本尊釈迦如来。もと光福寺と称していたが,足利尊氏足利直義(ただよし)兄弟の〈安国寺・利生塔〉建設のなかで,1342年〜1350年ころ安国寺と改称。尊氏・直義の母清子は上杉荘(現綾部市)を名字の地とする上杉氏の出で,ここで生まれ育ち,光福寺を氏寺とした。この関係から安国寺とされたのであろう。当寺は諸国安国寺の筆頭として室町幕府の保護が厚く,1371年には諸山,1414年には京都十刹に列した。上杉朝定書状・足利尊氏寄進状を含む安国寺文書を蔵する。
→関連項目綾部[市]

安国寺【あんこくじ】

広島県福山(ふくやま)市にある臨済宗妙心寺派の寺。本尊阿弥陀三尊は胎内銘から1274年に金宝(こんぽう)寺の像として造作が始められたもの。南北朝期に法灯国師覚心を開山に招いて,備後(びんご)国安国寺としたと考えられる。戦国期安国寺恵瓊(えけい)が再興。釈迦堂(現本堂)・本尊の木造阿弥陀如来像と胎内納入品及び両脇侍立像・木造法灯国師座像と胎内納入品は重要文化財。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安国寺」の解説

安国寺
あんこくじ

足利尊氏・直義(ただよし)兄弟が,後醍醐天皇をはじめとする元弘以来の戦死者を供養し,国土安穏を祈願して建立した寺院。夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで1338年(暦応元・延元3)頃から造営を開始し,全国66国2島にそれぞれ1寺1塔を設けた。45年(貞和元・興国6)光厳(こうごん)上皇は院宣により寺に安国寺,塔に利生塔(りしょうとう)の通号を定めた。安国寺は守護の菩提所である禅院があてられた。安国寺造営は宗教面だけでなく,守護を通じての幕府の支配力や威信の浸透,治安の維持という意味もになっていたことを示す。尊氏・直義の死,五山制度の確立などにともない,その意義も薄らいだ。現存する安国寺は約40,利生塔は皆無。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安国寺」の意味・わかりやすい解説

安国寺
あんこくじ

岐阜県高山市にある臨済宗の寺。瑞巌和尚が正平2=貞和3(1347)年に建立。諸山(1445),次いで十刹(1449)となる。経蔵は応永15(1408)年の建造で,回転輪蔵をもつものとして最古の遺構。国宝。

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デジタル大辞泉プラス 「安国寺」の解説

安国寺〔京都府〕

京都府綾部市にある臨済宗の寺院。山号は景徳山、本尊は釈迦牟尼仏。足利尊氏出生の地との言い伝えがあり、木像地蔵菩薩半跏像、安国寺文書(いずれも重文)などの文化財を所蔵する。

安国寺〔岐阜県〕

岐阜県高山市、飛騨市との境界に近い国府町西門前にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は太平山、本尊は釈迦如来。1347年建立とされる。国宝の経蔵は1408年の建立。

安国寺〔福岡県〕

福岡県嘉麻市、大法山の南麓に位置する寺院。天台宗。山号は白馬山、本尊は千手観音。足利尊氏・直義兄弟が全国に建てた安国寺のひとつで、もとは景福寺という名の禅寺。

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事典・日本の観光資源 「安国寺」の解説

安国寺

(長野県茅野市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安国寺」の意味・わかりやすい解説

安国寺
あんこくじ

不動院

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世界大百科事典(旧版)内の安国寺の言及

【国府】より

…律令制下における国の官衙(かんが)の所在地。史料的には〈国府〉〈国衙〉はいずれも国の官衙を指すが,現在では国衙は官衙を,国府は国衙の周囲に広がる計画的な都市を示す用語として使うことが多い。7世紀後半における国‐国司制の施行とともに諸国に設けられた。国衙は国の支配の拠点で,国司(守,介,掾,目)が中央政府から派遣されて駐在し,国の行政,司法,軍事,宗教などのあらゆる面を統轄した。また役夫や兵士が上番していた。…

【鎮護国家】より

…そして,仏は正法の興隆を仁王に付嘱したと説く《仁王般若経》に基づき,仁王大斎や仁王講経が,陳代を通じて宮中で行われ,智顗(ちぎ)も講じた。隋・唐時代には,大興国寺とか大安国寺あるいは鎮国寺といった名称の寺院が各地に造建され,鎮国道場が開かれたが,とくに新しく《仁王護国般若経》を漢訳し密教に立脚した不空が国のために灌頂道場をおくにいたって,仏教の鎮護国家化は頂点に達した。 日本においてはこれらの動向をうけて660年(斉明6)5月に仁王会が行われ,677年(天武6)11月には諸国で《金光明経》《仁王経》の講説が行われ,宮中においても《金光明経》が講説されるにいたり,以後律令国家成立に密接な関係をもつようになった。…

※「安国寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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