守田座(読み)もりたざ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「守田座」の意味・わかりやすい解説

守田座
もりたざ

歌舞伎劇場。初め「森田座」。明暦3 (1657) 年の大火から3年後の万治3 (60) 年,森田太郎兵衛によって江戸木挽町5丁目に創建された。以後江戸の四大劇場,山村座廃絶後は江戸三座の一つ。寛文1 (61) 年太郎兵衛は養子をとり,森田勘弥と名のらせ座元とした。同3年河原崎座不振のため森田座に合併享保 19 (1734) 年財政困難のため休座を出願。このため河原崎座が,これに代る「控櫓 (ひかえやぐら) 」の興行制度を生んだ。この休座は延享1 (44) 年まで続いたが,以後数回休座した。天保 13 (1842) 年の改革で,浅草聖天町に移転を命じられ,河原崎座は猿若町3丁目に代地を定められた。おりしも控櫓興行中のことで,森田座としての興行再開は安政3 (56) 年5月。同年7月「守田座」と改称。明治5 (72) 年 12世座元勘弥は,劇場街の制限改廃を機に新富町に新劇場を設立。 1875年「新富座」と改称した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「守田座」の解説

守田座
もりたざ

江戸の歌舞伎劇場。1725年(享保10)の書上(かきあげ)によると,1660年(万治3)森田太郎兵衛が木挽(こびき)町に創設,のち経営に参画していた坂東又九郎次男を養子として森田勘弥と改めたと伝える。「松平大和守日記」では1669年(寛文9)に勘弥座の記録が初出。元禄期以後森田勘弥名義で興行権を継承。1735年(享保20)以降たびたび休座し,河原崎座がかわった。1856年(安政3)4世坂東三津五郎(11世森田勘弥)が森田座を再興。58年7月に座名の「森」を改め守田座と称した。72年(明治5)12世守田勘弥が新富町へ移転,75年に新富座と改称,95年守田家と縁が切れた。

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