宇野明霞(読み)うのめいか

精選版 日本国語大辞典 「宇野明霞」の意味・読み・例文・類語

うの‐めいか【宇野明霞】

江戸中期の儒学者。名は鼎。字(あざな)は士新。通称三平京都の人。大潮入江若水に学んで徂徠学を奉じ、古文辞学風を京都に定着させた。のち折衷を唱えて、徂徠の説に異を立てた。著に「春秋左氏伝考」「明霞先生遺稿」など。元祿一一~延享二年(一六九八‐一七四五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「宇野明霞」の意味・読み・例文・類語

うの‐めいか【宇野明霞】

[1698~1745] 江戸中期の儒学者。京都の人。あざなは士新。通称は三平。荻生徂徠学問を学び、京都で初めて徂徠学を講じたが、後に離反著作に「論語考」「明霞先生遺稿」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「宇野明霞」の解説

宇野明霞

没年:延享2.4.14(1745.5.15)
生年元禄11.5.20(1698.6.27)
江戸中期の儒者。名は鼎,字は士新,通称三平,明霞と号した。近江国(滋賀県)野洲の人。商家に生まれたが家業を継がず,学問に志して向井滄洲に教えを請う。徂徠の学に憧れるが,病身のため東遊できず,弟の士朗を従学せしむ。京都で最初に徂徠学を講じたが,のちには徂徠の学説に疑問を抱き,徂徠学を果敢に批判するに至る。生涯妻を娶らず,諸侯にも仕官せず,自己に厳格な生活態度を貫き通して48歳で没した。墓は京都極楽寺にある。代表的な著作に『論語考』『左伝考』『明霞先生遺稿』がある。<参考文献>高橋博巳「京の脱徂徠学派宇野明霞」(『日本思想史学』15号)

(小島康敬)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

百科事典マイペディア 「宇野明霞」の意味・わかりやすい解説

宇野明霞【うのめいか】

江戸中期の儒学(古学)者。京の人。僧大潮(だいちょう)(元皓(げんこう))に学ぶ。弟の士朗は荻生徂徠(おぎゅうそらい)に師事した。京師(けいし)で初めて徂徠学を講じたとされるが,のち《【けん】園(けんえん)名公四序評》《論語考》を通じて異見を立てた。相国(しょうこく)寺の学僧大典(だいてん)(顕常(げんじょう))と親しかった。
→関連項目片山北海

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇野明霞」の解説

宇野明霞 うの-めいか

1698-1745 江戸時代中期の儒者。
元禄(げんろく)11年5月20日生まれ。宇野士朗の兄。柳川滄洲(やながわ-そうしゅう),大潮元皓(だいちょう-げんこう)にまなぶ。弟を江戸の荻生徂徠(おぎゅう-そらい)に入門させ,自身は京都ではじめて徂徠学を講義したが,のちに徂徠批判に転じた。延享2年4月17日死去。48歳。京都出身。名は鼎。字(あざな)は士新。通称は三平。著作に「論語考」「名公四序評」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇野明霞」の意味・わかりやすい解説

宇野明霞
うのめいか

[生]元禄11(1698).5.20.
[没]延享2(1745).4.14.
江戸時代中期の古学派の儒学者。京都の人。町人出身。荻生徂徠の影響を受け,のち一家の説を立てる。著書『論語考』『語字解』。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

367日誕生日大事典 「宇野明霞」の解説

宇野明霞 (うのめいか)

生年月日:1698年5月20日
江戸時代中期の儒者
1745年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宇野明霞の言及

【片山北海】より

…名は猷,字は孝秩,通称忠蔵,北海は号。18歳の時京都に出て,宇野明霞(1698‐1745)について学んだ。明霞は荻生徂徠の儒学説を上方で最初に講じた儒者である。…

※「宇野明霞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

靡き

1 なびくこと。なびくぐあい。2 指物さしものの一。さおの先端を細く作って風にしなうようにしたもの。...

靡きの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android