宇都宮黙霖(読み)うつのみやもくりん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宇都宮黙霖」の意味・わかりやすい解説

宇都宮黙霖
うつのみやもくりん
(1824―1897)

幕末僧侶(そうりょ)で、倒幕論のうえにたった尊王論を唱える。安芸(あき)国(広島県)長浜の人。私生児として生まれ、幼名を采女(うねめ)、1845年(弘化2)に本派本願寺僧籍に入って覚了と唱え、このころから黙霖とも称した。のち還俗(げんぞく)して宇都宮真名介(まなのすけ)。病のため聾吃(ろうきつ)となったが、諸国を遍歴して志士と交わる。とくに勤王僧月性(げっしょう)と親交があり、吉田松陰(しょういん)と論争して、松陰に倒幕論への思想転換の機を与えた。66年(慶応2)広島藩の牢(ろう)につながれ、69年(明治2)出獄。73年教部(きょうぶ)省から湊川(みなとがわ)神社および男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)の神官に任命されたが数か月で罷免、78年ごろから故郷へ隠棲(いんせい)した。

田中 彰]

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改訂新版 世界大百科事典 「宇都宮黙霖」の意味・わかりやすい解説

宇都宮黙霖 (うつのみやもくりん)
生没年:1824-97(文政7-明治30)

幕末期の勤王僧。僧名は覚了,鶴梁。名は雄綱。安芸国長浜の僧家に生まれ,諸国を遊歴して勤王の志士と交わり,安政の大獄で一時捕らえられた。吉田松陰の討幕思想にも影響を与えたといわれる。第1次長州征伐の際に広島に潜入,再度捕らえられた。のち還俗。1869年(明治2)大阪府貫属となり,のち湊川神社,男山八幡宮の神官を務めた。
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朝日日本歴史人物事典 「宇都宮黙霖」の解説

宇都宮黙霖

没年:明治30.9.15(1897)
生年:文政7.9(1824)
幕末の勤王僧。安芸国(広島県)賀茂郡の僧の子に生まれる。3歳の年養子に出され,21歳の年病により耳と発声に障害を受けた。翌年本願寺の僧籍に入り諸国を巡歴,徹底した尊王論者となる。安政3(1856)年8月萩に至り,文通によって吉田松陰の思想形成に刺激を与えた。慶応2(1866)年に還俗。明治4(1871)年勤王の功により士族に列せられ終身3人扶持を与えられ,同6年湊川神社,次いで石清水八幡宮の神官に任命されるが程なく罷免され,のち故郷の呉に隠棲して74歳で没した。<著作>『幽後集』『耳順一賀』<参考文献>知切光歳『宇都宮黙霖』

(井上勲)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宇都宮黙霖」の解説

宇都宮黙霖 うつのみや-もくりん

1824-1897 幕末-明治時代の僧。
文政7年9月生まれ。浄土真宗本願寺派。勤王をとなえ,吉田松陰,頼三樹三郎(らい-みきさぶろう)らとまじわる。安政の大獄,第1次幕長戦争の際に投獄される。慶応2年還俗(げんぞく)して真名介(まなのすけ)雄綱を名のる。維新後は湊川神社,男山八幡宮の神職をつとめ,明治10年隠退して大蔵経の和訳にあたった。明治30年9月15日死去。74歳。安芸(あき)(広島県)出身。字(あざな)は絢夫。僧名は覚了,鶴梁。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宇都宮黙霖」の意味・わかりやすい解説

宇都宮黙霖
うつのみやもくりん

[生]文政7(1824).10. 安芸,長浜
[没]1897.9.15. 呉
江戸時代末期の勤王僧。僧名は覚了,鶴梁。黙霖と号した。本願寺の僧として尊王討幕運動に奔走。慶応2 (1866) 年還俗して宇都宮雄綱と称する。明治になって湊川神社,男山八幡宮の神官を歴任。

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