宇喜多堤(読み)うきたつつみ

日本歴史地名大系 「宇喜多堤」の解説

宇喜多堤
うきたつつみ

天正一二年(一五八四)・一三年に宇喜多秀家によって築造された堤。同一〇年の備中高松たかまつ(現岡山市)開城後、備中東部を領有した秀家は、家臣岡豊前守利勝・千原九右衛門らに命じて、児島こじま湾に臨む現早島町から現倉敷市東方にかけて潮止堤防を築き干拓を行った。一般に宇喜多開墾といわれる。「備中誌」には「宇喜多秀家、千原民部・同九右衛門に命じて新開せしに依て也。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の宇喜多堤の言及

【児島湾】より

…【由比浜 省吾】
[干拓の歴史]
 中世末期から近世にかけて土砂堆積がすすみ,児島湾は遠浅となって大規模な干拓が続出した。早くは1580年代に岡山城主宇喜多秀家が備中の倉敷から早島にかけていわゆる〈宇喜多堤〉を築いて,児島湾干拓の口火を切った。岡山藩治下での干拓は,北岸から南下する形で初めは民営で行われ,土豪開発の米倉新田(30町)や町人請負の金岡新田(232町)が注目される。…

【早島[町]】より

…古くは児島湾に臨んでいたが,天正年間(1573‐92)に宇喜多氏の領地となって干拓が進められた。町内を通る県道は〈宇喜多堤〉とよばれ,当時の堤防の跡である。近世末からは干拓地でイグサ,綿などの商品作物の栽培が始まり,以後,畳表(早島表)や花むしろの製造が盛んになった。…

※「宇喜多堤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」