日本大百科全書(ニッポニカ) 「学級」の意味・わかりやすい解説
学級
がっきゅう
学校教育を行うにあたっての教育の単位組織。もともと学級という集団を組織して教育することは、同時に多数の児童・生徒を教えるという経済的理由に基づくものであるが、現代では学級の社会生活そのものに、より重要な教育的意義があると認められている。こうした教育事実上の意味とともに、学級編制という場合の「学級」のように、教職員の定数や施設・設備など、教育行政上の単位とされることもある。
[吉本二郎・岡東壽隆]
成立の歴史
1890年(明治23)以前には、日本には現代的な意味の学級はなく、翌91年の文部省令によって、「学級編制等に関する規則」が定められ、「一人の本科正教員の一教室において同時に教授すべき一団の児童を学級と称する」とされた。このころになって、ようやく学校規模が拡大し、近代的組織をとらざるをえなかったのであろう。
西欧における学級組織による教育の発想はそれよりも古く、17世紀のコメニウスの学級教育の提案や、19世紀のイギリスのベルAndrew Bell(1753―1838)とランカスターJoseph Lancaster(1778―1838)による助教法(モニトリアル・システムmonitorial system)などは広く知られている。
今日でも、学級を基盤とする教育は基本ではあるが、1980年代中葉以降は、学校という物理的空間の多様化と教育情報機器の発達によって、学習形態が多様化し、規模的には個別化、大集団化している。物理的スペースが4間(約7メートル)×5間(約9メートル)の伝統的な教室だけでなく、多様なスペース(とくにオープンスペース)や、ときとしてアジール(保護施設)的空間を具備した学校建築が推奨されたことによる。1980年代前半の教育論議の中で「教育」から「学習」への転換が説かれ、その内容を反映した学習指導要領の改訂(1989)と連動して、学校建築も学習や学習者の行為に適合したスペースを備えたものに転換してきた。それと同時に、学級は教育の効率的な集団から、学習者の共同体としての集団という意味を深くしていく。
他方で、コンピュータをはじめとする情報技術の革新(IT化)は目覚ましく、インターネットや学内LANを通じて、学習情報を得る受動的な存在としての子供ではなく、それらマルチメディアを活用して学習する能動的な存在としての変化も見逃せない。学校教育において、双方向の遠隔学習を展開したり、1人1台のパソコンやLL(ランゲージ・ラボラトリー)を備えた教室で個別学習を行ったり、大きなスクリーンに映し出された映像をもとに、学級を超えたディベートを伴う授業を展開する例もある。また、このようなメディアを通じて、ほかの学校の教師による授業を受ける機会も散見されるようになってきた。このように教授・学習行為が多様化してきた今日、教授・学習組織としての学級の意義が問われているが、学校教育の大勢は、依然として学級組識に基礎を置いて展開されている。
[吉本二郎・岡東壽隆]
学級編制・定員
学級編制は、児童・生徒の集団と教師との関係を定める教育行政上の意味をもち、同一学年内の学級を習熟度別や能力別にするか、生まれ月別にするかなどの具体的な学級編成とは異なる。特別の事情がある場合のほかは、学級は年齢を同じくする同学年の児童・生徒で編制される(単式学級)。小規模学校では数学年の児童や生徒で1学級を編制することもある(複式学級)。
学級編制の基準は、1学級に在籍する児童・生徒の定員数を意味する。わが国で最初の学級編制基準を定めた法令は1886年(明治19)の小学校令に基づく「小学校の学科及其程度」であり、尋常小学校は教師1人につき児童数80人以下、高等小学校は60人以下とされた。続いて、前述の1891年(明治24)「学級編制等に関する規則」では尋常小学校は70人以下、高等小学校は60人以下が基準とされた。それと同時に、尋常小学校の1、2学年を除いて男女別学級編制とする原則が示された。その後、1941年(昭和16)の国民学校令において初等科は60人以下、高等科は50人以下とされた。なお、高等学校については1899年(明治32)の「中学校編制及設備規則」で35人以下と定められたものの、わずか2年後の1901年には50人以下に改められた。
第二次世界大戦後は、1947年(昭和22)の「学校教育法施行規則(20条・55条)」により、小・中学校とも50人以下を標準とし、原則として同学年の児童・生徒で編制することが定められた。しかし、1950年代には児童・生徒数の増加や地方財政の悪化などにより、午前と午後の2部授業や、50人以上の「すし詰め学級」が社会問題となった。この問題を解消するため、1958年(昭和33年)には「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律」が成立し、段階的に40人学級が目ざされることとなった。各都道府県の1学級の基準は、本法律の規定を標準として都道府県教育委員会が定める(3条)。さらに、学級編制は都道府県の教育委員会が定めた基準に従って当該学校を設置する地方公共団体の教育委員会が行い(4条)、市町村の教育委員会は、毎学年、義務教育諸学校の学級編制とその変更について、都道府県の教育委員会と協議し、その同意を得なければならない。現在の学級編制基準は次のとおりである(3条)。
(1)小学校 同学年の児童で編制する学級は40人、二つの学年の児童で編制する学級は16人(第1学年の児童を含む学級にあっては8人)、特殊学級は8人。
(2)中学校 同学年の生徒で編制する学級は40人、二つの学年の生徒で編制する学級は8人、特殊学級は8人。
この第3条の解釈がしだいに変化し、各都道府県教育委員会が独自に、標準以下の35人学級などを規定するところも出てきた。
また、公立高等学校については、1948年(昭和23)に発令され2000年(平成12)に六度目の改正がなされた「高等学校設置基準」において、「同時に授業を受ける一学級の生徒数」は40人以下と定められている(7条)。
学級定員の大小は、教育の効果と効率に重要な影響をもつことは明らかで、先進的な諸外国ではおよそ30人程度が一般的水準である。1999年7月の「地方分権一括法」(略称)によって、国、都道府県、市町村の対等な関係を構築すべき方向性が示され、教育行政においても市町村の自主性・自律性が担保された。義務教育段階の学級定員は教職員の定数と関係し、国や都道府県の財政にも影響を及ぼすが、ボランティアのゲストティーチャーや非常勤講師の採用など市町村の自主的・自律的な努力によって学校管理の態様は相当に変化する。学級定員の適正化に向けた学校設置者の努力が期待される。
[吉本二郎・岡東壽隆]
学級の崩壊
1990年代以降日本では、学級の崩壊が深刻な問題となっている。「学級崩壊」とは「子どもが授業中に秩序無く気ままな行動をし、その結果、教師の指導が通用しない、授業そのものが成立しない、教室内が無秩序化した状態」といえる。文部省(現文部科学省)は従来から、学級崩壊を「特殊なケース」として、慎重な姿勢をとってきた。しかし、学校現場からの深刻な訴えが増え、1999年(平成11)、学級崩壊の実態や学級経営の事例研究を実施することとし、国立教育研究所(現国立教育政策研究所)の研究者を中心にプロジェクトチーム「学級経営研究会」が設置された。同研究会の報告によると、「学級崩壊」ということばの使用を避け、「学級がうまく機能しない状況」にある102学級の要因を明らかにした。それらの要因のうち、教師の指導力不足(「学級経営に柔軟性を欠く」と表現)が7割を占め、このほかの複合的な要因として「授業の内容・方法に不満をもつ子供がいる」が6割、「いじめなどの問題行動への適切な対応が遅れた」が約4割、「校長のリーダーシップや校内の連携・協力が確立していない」が約3割であった。また、「家庭のしつけや学校の対応に問題」「就学前教育との連携・協力が不足」という要因も約1割を占めていた。ここから教師の指導力不足が学級崩壊の主因とみられるが、力量のあるベテラン教師が担任する学級でも学級崩壊が起きている例も多く、要因をかならずしも同定しているとはいえない。学級崩壊の現象は深刻な問題となっている。
[吉本二郎・岡東壽隆]
『下村哲夫著『教育学大全集14 学年・学級の経営』(1982・第一法規出版)』▽『河上亮一著『学校崩壊』(1999・草思社)』▽『向山洋一編著『学級崩壊からの生還』(1999・扶桑社)』▽『朝日新聞社会部著『学級崩壊』(2001・朝日新聞社)』