学生運動(読み)ガクセイウンドウ

デジタル大辞泉 「学生運動」の意味・読み・例文・類語

がくせい‐うんどう【学生運動】

学生が主体となって組織的に行う政治的、社会的な運動。

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精選版 日本国語大辞典 「学生運動」の意味・読み・例文・類語

がくせい‐うんどう【学生運動】

〘名〙 学生が主体となって組織的に進める社会的・政治的活動。〔最新百科社会語辞典(1932)〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「学生運動」の意味・わかりやすい解説

学生運動
がくせいうんどう

学生が主体となって学生生活や政治に対して組織的に行う運動。この運動は、学生の自治や大学における学問の自由・研究の自由を基盤として、社会体制の矛盾や社会問題、政治問題に対する問題提起から、体制や権力に対する政治運動や社会運動を総称してよばれる。

[似田貝香門]

学生運動の歴史的成立

学生によるこのような運動が成立してきたのは、大学教育が普及し、それに伴って学生数が増加し、一つの社会的階層として学生が社会的に存在するようになってからである。近代社会では、社会の形成上、知識人や知的職業人や知的技術者を必要とするがゆえに大学教育を普及させざるをえない。ここに学生が社会のなかで特殊な社会層として形成されていく。一方、学生は大学教育における知識・情報の学習や研究によってインテリゲンチャとしての地位を形成していく。この特殊な地位によって現実社会への批判精神を形成する。つまり、インテリゲンチャとしての理論的かつ理想的先行性ゆえに現実に対する厳しい批判を行う。しかし一方で、学生は日常における現実生活が自立的生活でないので、現実に対する批判が日常生活的な要求に基づくものではない傾向が多いとされている。

 学生運動は、それぞれの国の置かれている政治・経済・社会・文化のそれぞれの構造の特殊なあり方によって、運動の内容・方向・組織形態が異なっている。また、それぞれの時代による潮流によっても影響が与えられている。従来は開発途上国や植民地などで理論的課題を担う学生が、同時に他の諸運動の火付け役的な役割を担った学生運動を展開してきた。つまり、社会の先端・先進・前衛的部分として学生運動が位置づけられてきたのである。しかし現代ではそればかりでなく、先進国においても学生運動は重要な役割を果たしてきた。それは一般にスチューデント・パワーとよばれている。工業化による生産の方法、とりわけ工業社会に対応していく人間教育という形での人間の再生産の方法に対する異議申立てや、工業化の社会にのみ有用で、かつ中央集権的な管理や支配に役だっていく知識のありよう、知識の生産・再生産に対する異議申立てが運動として先進国で展開された。それは、先進工業諸国の新しい支配に対する異議申立て、文明に対する異議申立てを内容とするものであり、現代社会の多様性・多元性を社会運動のなかでも明らかにするとともに、新しい社会闘争の型を生み出していった。しかし、1980年代になるとこうした「層としての学生」にかかわるイシュー(問題点)がなくなったため、学生運動は衰退した。かわって身近な生活をめぐる公害や環境の市民運動や住民運動、市民活動が広範な広がりをみせた。1995年(平成7)の阪神・淡路大震災の際、若者を中心とした150万人のボランティアが活動したが、これをきっかけに、社会の多くの矛盾や課題たる公害・環境や、社会的差別撤廃や福祉支援活動等の市民運動(NGO=非政府組織、NPO=民間非営利組織)等が展開されつつある。

[似田貝香門]

外国の学生運動

資本主義が発展した19世紀の西ヨーロッパでは、社会の担い手となるべき人材の必要から、各国に近代的大学が創設され、学生は社会の一つの階層として存在するに至った。当時の学生は、近代社会の社会思想による自由主義の潮流に関心が深く、このことによって、絶対主義に対する闘争、民主主義を求める闘争、そして19世紀後半から20世紀にかけては社会主義を求める闘争、外国の侵略に対する闘争などの先駆けや有力な担い手となって現れた。ドイツでは1817年に学生組合(ブルシェンシャフト)が設立された。この運動は、研究の自由、大学の自由、学生生活の自由を求めるもので、この運動によって当時反動的政権であったドイツ連邦政府に対する闘争を展開した。フランスの七月革命(1830)、二月革命(1848)において学生運動の果たした役割は大きかった。帝政ロシアでは、学生運動が1870年代以降の革命運動の先駆けとなったナロードニキ運動の中心的役割を担うとともに、後のロシア革命(1917)における社会主義革命の有力な担い手の一つともなっていった。このロシア革命は世界の学生運動に大きな影響を与えた。20世紀以降の学生運動は二つの思想の影響のもとで展開した。資本主義諸国においては、社会主義思想、とくにマルクス主義思想の強い影響のもとで展開した。

 一方、帝国主義諸国によって植民地支配ないし半植民地化された諸国の学生運動は、ナショナリズムによる独立運動のなかで有力な担い手として登場してきた。中国では、日本の帝国主義的侵略に抗して五・四(ごし)運動(1919)が展開された。この運動は、北京(ペキン)大学学生のデモを発端として当時の中国のすべての学生を巻き込んで広がったものであり、後の中国革命への道を開いたものであった。第二次世界大戦時のナチス・ドイツ占領下や日本占領下での抵抗運動、アジアや中南米諸国の民族独立・民族解放、1960年代以降はベトナムなどのインドシナ独立、アフリカ諸国の独立などの民族自立・民族解放の運動などでも大きな役割を果たした。先進資本主義諸国においては、1968年のフランスのパリを中心として起こったいわゆる五月革命のようなスチューデント・パワーがみられた。

 1960年代の先進諸国での学生運動の特色は、アメリカのベトナム侵略戦争に反対することをきっかけにしながら、現代社会の工業化による管理体制化へ繰り込まれる学生の商品化や知識・情報の使用に対しての異議申立てを運動の主軸としたことである。前者についていえば、アメリカの場合、それ以前に公民権運動が存在したが、これは「内なる第三世界」の問題として考えられ、ベトナム侵略の激化とともに連続的に反戦運動に発展していった。旧西ドイツやフランスなどの西欧諸国の場合も、ベトナム反戦の運動が第三世界一般の問題と絡んで学生運動を刺激した。日韓条約反対闘争以後の日本の学生運動も同様であった。後者の運動は、管理社会に対して徹底して拒絶するばかりでなく、あらゆるイデオロギーに露骨に反感を示してきた。運動は大衆教育の進展と大学管理強化に対しての異議申立てから、それを誘導していったキャンパス外の政治的体制への異議申立てへの運動へと波及していった。

 1970年後半以降、日本など先進国の学生運動は沈静化したが、多くの社会矛盾を抱えたアジアや中東では、時の政権に対する異議申立てや抵抗が多くみられた。韓国では、90年代まで活発であった。1980年の光州事件は、朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)韓国大統領暗殺事件の混乱期の軍による戒厳令に対する学生の抵抗のなか、光州市の市民・学生に対し軍隊が投入され、多くの死傷者を出し、85年には、反全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)政権の運動、93年には韓国大学総学生会連合が組織化され、運動はいっそう先鋭化した。中国では、1989年の第二次天安門事件が有名。胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)の死をきっかけに、胡の名誉回復と民主化を求める学生運動が天安門広場で展開された。これに対し北京(ペキン)に厳戒令が布告され、多くの死傷者を出した。その他、インドネシアでは、反スハルト大統領運動による国会占拠(1998)が、さらにタイの反政府運動(1992)、ミャンマーではヤンゴンの反政府運動(1996)、中東では、イランの言論自由化運動(1999)が有名。

[似田貝香門]

学生運動の国際組織

学生運動の国際組織としては、チェコのプラハに本部を置く国際学生連盟International Union of Students(1946発足)があり、機関紙『World Students News』を刊行。この組織は、世界学生の友好、平等な教育を受ける権利の確保、平和に努める政府や団体への協力、植民地や従属国の学生援助などを目的としていた。その後、財政・組織問題等の困難に直面し、活動はほとんどなされていない。日本からは1949年(昭和24)に全日本学生自治会総連合(全学連)が加盟した。

[似田貝香門]

日本の学生運動

第二次世界大戦前

第二次世界大戦前において学生運動が本格的に展開したのは、労働運動と同じように第一次大戦後である。大正デモクラシーのなかで、労学会(1917)、東京帝国大学学生らによる新人会(1918)、建設者同盟(1919)、早稲田(わせだ)大学の教授・学生による民人同盟会(1919)などが生まれた。これらの運動団体は、デモクラシー普及を目ざす思想団体としての性格が強かったが、しだいに普選運動の一翼を担い、不況や恐慌のなかで社会の矛盾が激化するとともに、運動体という性格をもつに至った。森戸事件(1920)、滝川事件(1933)などに対し、学問の自由、軍国主義教育反対の闘争が展開された。

 これらの運動団体は学生連合会を結成し(1922)、のちに学生社会科学連合会(学連)と改称(1924)、全国的な指導部を形成するに至った。学連は戦前最大の学生運動体であるとともに、社会科学としてマルクス・レーニン主義の研究と普及を図り、社会主義革命の達成を目標としていた。この団体を中心として、朝鮮人を敵に想定した小樽(おたる)高等商業学校の軍事教練に対し全国的運動を展開(1925)したが、政府によって弾圧され、1928年(昭和3)の三・一五事件によって非合法化された。にもかかわらず、三・一五事件以後満州事変(1931)に至るまで、かえって学生運動は活発に展開された。31年の学校争議は戦前最大のピークであった。395校で争議が起こり、984名が処分を受けている。満州事変以後は当局のたびたびの弾圧によって全国組織化は挫折(ざせつ)し、学生運動は分散化してしまった。滝川事件は全国的に運動が波及したが、組織的活動以前に弾圧された。このように、戦前の学生運動は、軍国主義化のなかで、40年に左翼的と目される学生が一斉に検挙され、運動は壊滅してしまった。

[似田貝香門]

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後の学生運動は学園民主化闘争(1945~46)で復活した。敗戦とともに学園に戻ってきた学生は、激しいインフレ、食糧危機、荒廃した学園という状況のなかで学園民主化闘争に立ち上がった。闘争の目的や性格もばらばらであったが、戦後学生運動の源流をなすものであった。1948年(昭和23)に145大学30万人を組織化した全学連が結成された。戦後の学生運動の特色は、戦後日本の社会や政治の重要な局面で政治行動の一翼を担ってきた。先の学園民主化闘争やイールズ反対闘争、レッドパージ反対闘争、反戦平和擁護闘争、砂川基地反対闘争、勤評闘争、安保闘争、大学管理反対闘争、羽田(はねだ)闘争、佐世保(させぼ)闘争など戦後日本の大きな政治的事件において、つねに学生たちが主役をつとめてきた。

 第二次世界大戦後の学生運動の理論的背景にあったのは、「層としての学生運動」論であった。これは、戦後、学生は層として固有の革命的エネルギーをもつようになり、その全体が平和と民主主義のため闘う力を示すようになっている。だから学生の先進的な部分は、この固有なエネルギーを引き出し発展させなければならない、という考え方であった。学生の政治的な敏感性、そしてその急進的傾向をより積極的に評価したものである。この考え方は、学生の存在をプチ・ブルジョアと規定し、学生のもつ統一的なエネルギーを積極的に位置づけようとしなかった日本共産党中央とは対立的になっていった。しかしこの理論は全学連を中心として大きな影響力をもち、多くの学生を政治的闘争に参加させていくことを可能にした。そしてこの考え方は、1960年代後半の学生運動、とりわけ新左翼の学生運動の理論的源流ともなっていった。

 1960年の安保闘争後、全学連は事実上解体し、学生運動の上部組織は、日本共産党系と反日共系(新左翼)に分裂し、学生運動のイニシアティブをめぐって対立し、混迷状況を示した。しかし60年代後半、高度成長によるインフレと、中・高校卒の労働力・人材不足のもとで、教育体制の改革が行われた。大学の再編もこのなかで行われ、学生運動は新しい闘争を展開するに至った。大学再編は大学の管理強化となって現れ、大学の自治、学生の自治権への侵害となり、戦後十分に民主化の改革が深化していなかった大学の矛盾を呈するに至った。65年の学館(学生会館)・学費闘争は、全国の56大学で自然発生的に始まり、60年代後半に爆発した全国の大学闘争を予兆するものとなった。この闘争は、65年の文部省による国立大学寮の光熱費・水道代の全額受益者負担通達や、学費値上げや、新学寮則の改正、学生援護会支部細則の押し付けなどをきっかけとして全国的に広がった。これらの運動は、67年の第一次羽田闘争における街頭闘争と結び付くことによって、やがては個別の学園闘争の枠を越え、全共闘運動=大学革命の闘争につながっていく。

 1968年、医学部処分問題に端を発した東大闘争、授業料不正使用に対して闘い始めた日大闘争が展開された。これらは全学的闘争へと進展していくとともに、単なる要求闘争から大学民主化、大学解体闘争へと飛躍し、69年には全国70大学以上がストライキを行い、15大学でバリケード封鎖がみられた。この運動は、教育の管理体制強化に対しての異議申立てと、高度に発展した技術とその支配のもとに繰り込まれていく学生の商品化への異議申立ての運動であった。その意味でこの運動は、他の先進諸国の同様の構造のもとで展開したフランス五月革命、旧西ドイツ、アメリカなどの世界的なスチューデント・パワーと共通の性格をもっていた。この運動は全学共闘会議(全共闘)という組織形態をもち、代行主義的な多数決原理に基づく間接民主主義の自治会方式に対し直接民主主義を主張し、また、いっさいの党派からの自由を前提とし、自主講座を通して学問・思想の再形成を目ざした思想運動でもあった。この運動によって、大学の自治への学生参加などの大学改革案も多くの大学で試みられたが、政府は逆に大学管理を強化した。この闘争に引き続いてベトナム反戦、70年安保闘争、沖縄返還闘争へとなだれ込んだ学生運動は、大学での運動の拠点を失い、また、内部対立から過激闘争化し、一般学生、市民と遊離し、運動の沈滞化を招いて今日に至っている。

[似田貝香門]

『コーン・バンディ他著、海老坂武訳『学生革命』(1968・人文書院)』『K・ケニストン著、庄司興吉・庄司洋子訳『ヤング・ラディカルズ』(1973・みすず書房)』『中村新太郎著『日本学生運動の歴史』(1976・白石書店)』『ヘンリー・デウィット・スミス著、松尾尊兌訳『新人会の研究――日本学生運動の源流』(1978・東京大学出版会)』『山中明著『戦後学生運動史』(1981・群出版)』『『東京帝国大学学生運動史』(1984・昭和堂)』『二六会著『滝川事件以後の京大の学生運動』(1988・西田書店)』『高沢皓司編集『ブント(共産主義者同盟)の思想』全8巻(1990~99・批評社)』『黒田寛一編著『平和の創造とは何か――反戦の闘い、その歴史と理論』(1993・こぶし書房)』『土井敏邦著『炎となりて――新・韓国を拓いた若者たち』(1994・三一書房)』『女たちの現在を問う会編集『全共闘からリブへ――銃後史ノート戦後篇8 1968~75』(1996・インパクト出版会)』『『シリーズ20世紀の記憶第12巻 バリケードの中の青春――あの頃のキミは革命的だった』(2000・毎日新聞社)』『国際学生連盟編、川上洸訳『世界の学生運動』(大月書店・国民文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「学生運動」の意味・わかりやすい解説

学生運動 (がくせいうんどう)

学生によって組織された社会的・政治的運動。学生生活の条件の改善を目ざす運動なども含む。学生運動は,学生の社会的地位・性格と,学生が社会的に特殊な層として存在する特定社会の構造とによって規定されている。学生運動の歴史は高等教育の普及によって学生数が増加し,学生がひとつの社会的層として存在しうるようになってからはじまったといえるが,先駆的な運動はそれ以前にもみられる。学生の社会的地位は,学生自体が現実生活において自立・自活することが少なく,日常的要求が概して稀薄であることと,社会における広義のインテリゲンチャとしての知的・批判的な性格とによって特徴づけられる。したがって,学生は世代としては青年層に属しているが,学生運動はいわゆる青年運動とは区別される。学生運動はまた,それぞれの国,社会のおかれている状況に応じて,その内容が規定される。たとえば,植民地の学生運動は独立運動の一環としてなされ,先進工業国では進行する管理社会化に対する〈異議申立て〉として既存の価値体系そのものを否定する運動も起こってくる。このような現象は,学生が社会において特殊な層を形成し,インテリゲンチャの中の最も敏感な部分として,その時代の対立や葛藤を精神的・観念的に代表する可能性をもつことによるといえよう。学生運動による現実批判の表明が社会の支持を獲得したとき,学生運動は大きな政治的役割を果たし,いわば〈時代の風見鶏〉として機能するが,大衆的な運動が成熟するにしたがって,学生運動そのものはその先駆的役割から運動全体の一翼を担うものとなり,政治的役割の比重は相対的に低下していく。たとえば,イェーナ大学を中心として起こったブルシェンシャフト(1815-19)の運動はメッテルニヒ体制下のドイツにおける自由・統一運動の先駆をなし,また,ロシアのナロードニキ,中国の五・四運動,朝鮮の三・一独立運動などでも学生の運動が大きな役割を果たしている。なお,政治運動としての学生運動には反体制的運動だけではなく,これに対抗してつくられる親体制的運動もある。

日本における学生運動の発端は1918年12月,東大新人会の誕生とされる。その背景には第1次大戦による国内資本主義の成長と半封建的生産関係の危機,世界的なデモクラシーの潮流とロシア革命の成功などの多様な要素から影響を受けて勢力を伸張した社会主義・共産主義思想の浸透があった。1917年には野坂参三(鉄)の主唱で,社会問題に関心をもつ東京の大学・高専学生と友愛会員とからなる研究会,労学会が結成された(京都では1918年結成)。東京帝国大学の社会科学の研究あるいは社会運動に志をもつ有志の集りである新人会は,当初佐野学らの卒業生,渡辺政之輔らの労働者を含んではいたものの,学生を中心としたはじめての団体であった。新人会は〈人類解放の新気運に協調し之れが促進に努む〉〈現代日本の合理的改造運動に従ふ〉を綱領として掲げ,研究会・講演会を催し,また実際運動として各地に支部を設け,亀戸新人セルロイド工組合を組織したりした。19年には早稲田大学の学生浅沼稲次郎,稲村隆一らが建設者同盟を結成し,新人会と呼応してデモクラシーの普及を目的に学内宣伝を行った。また,建設者同盟は地方青年(とくに農村)への宣伝活動も行った。

 1922年11月7日,ロシア革命記念日に全国の大学・高専の社会思想団体による日本最初の全国的地下組織〈学生連合会〉(学連)が結成された。学連は新人会を盟主として社会科学の普及に努め,24年9月には第1回全国大会を開き,その名称を〈学生社会科学連合会〉(学連)と改めた(11月には53校,会員1600名)。この間,関東大震災後には帝大セツルメント(1923年暮れ本所柳島に設置),東京商大のS・P・S(震災後芝公園,のち東京府下大崎に設置)など学生セツルメントの運動が一時期を画した。また,軍国主義化はしだいに大学にも及ぶにいたり,早稲田軍教事件(1923.5),小樽高商事件(1925.10)などが起こり,全国の大学・高校で反軍運動が高まっていた。一方,日本共産党の創立(1922.7)もあって,学連はその左翼的傾向を強めていった。25年7月の第2回大会では,学生運動を無産階級解放運動の一翼として位置づけ,マルクス=レーニン主義を指導方針とすることを決定し,〈全日本学生社会科学連合会〉と改称した。以後,日本共産党の外郭団体としての性格をもつようになる(1929年11月7日には日本共産青年同盟へと〈戦闘的解消〉をする)。この時期から警察当局の監視はいっそう厳しくなり,25年11月同志社大学内にはられた軍事教練反対ビラが契機となって,治安維持法が初めて適用されるにいたった(学連事件)。また,このころから文部省は学生の思想運動・左傾化を防ぐため,〈思想善導〉にのりだした。

 このように学連の活動が活発化するに及んで,これに対抗すべく国家主義的運動も生じてきた。その代表的団体に1925年3月結成された七生社がある。上杉慎吉の指導のもと,松岡平市らによって組織され,新人会に対抗するため,東京帝大内につくられた。おもな活動は例会,講演会,神社参拝で,運動部と組んで新人会に対する破壊活動を行った。この種の団体組織は他の大学にもあり,その活動も大同小異であった。したがって,学連,新人会の解体によってその目標を失い,その活動も不振となった。

 昭和期に入ると,左翼的活動は文部省,警察当局の監視の厳しさと,いわゆる福本イズムの席巻によって,実践活動よりも理論闘争が前面に出るようになる。そして,この闘争に積極的に関与したのが,インテリゲンチャとしての学生であった。学生はマルクス主義的知識を労働者に啓蒙すべく活動した。この結果,三・一五事件(1928),四・一六事件(1929)で日本共産党員が大量に検挙された中に,多数の学生が含まれ,学生運動も大打撃を受けることになった。この間,1928年には文部省は学生課を置き,大学・高等学校・専門学校に学生主事,生徒主事を設けて思想取締りを強め,内務省は特別高等警察課(特高)を設置している。その後,33年の滝川事件の時に学生運動が展開されたりはしたが,散発的・個別的なものにとどまり,37年の日中戦争開始以後は,戦時体制強化のもとで勤労動員や学徒出陣などへの狩出しが進み,運動は屛息せざるをえなくなる。

学生運動は戦時中の軍国主義教育への批判,戦後一転して民主主義を説く教授たちの無節操さへの批判を契機に復活した。1945年11月には京都学生連盟(京都帝大,同志社大,立命館大など参加)が,12月には都下学生連絡会議(東京帝大,早大,慶大,東京女子大など参加)が結成され,学生連合組織の再興がはじまった。また,学生運動の大衆的な発展を目ざす学生自治会の組織化も各大学でなされ,46年11月早大,京都帝大,東京帝大などの学生自治会の連合体として全国学生自治会連合が発足した。47年官公労,産別会議,総同盟などが予定した二・一ストが占領軍司令官マッカーサーの禁止命令によって挫折したことから,労働者組織の動きに呼応していた学生運動に混乱をもたらし,学生がみずからの運動を確立しなければならないとする〈主体性〉論議が高まった。占領軍の示唆のもとに文部省が発表しようとした大学管理法案(各国立大学に学外者9名,教授代表3名および学長からなる管理委員会を組織し,これに学長,学部長,教職員の任免権をはじめ,財政運用等にかかわる一切の権限を与えようとするもの。アメリカの州立大学の管理方式に似ていることから〈大学理事会法案〉とも呼ばれた),国立大学授業料値上げ案などへの反対闘争を展開した学生は,48年6月全国113校・約20万人が参加するという大規模な全国学園ストを行った。このストが契機となって,9月に全国145校・30万人が参加する全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。このような状況に動揺した政府,文部省は,同年10月,学内での政治活動を禁止する次官通達を出し,大学管理のための理事会法案に代わる大学法案の国会提出をはかったが,全学連側のストなどによる全国的な反対運動によって,政府側はついにその上程をあきらめた。

 冷戦の激化にともなって占領政策も変化し,共産主義者に対する弾圧がはじまった。49年7月のイールズ声明による〈赤色教授〉に対する辞職勧告が各大学で行われると,50年5月全学連は臨時大会を開き,〈反イールズ・帝国主義打倒〉を決議し,イールズ声明反対闘争を全国の大学で展開した。6月3日には全国学生ストを,朝鮮戦争下の9月末から10月にはレッドパージ反対闘争として試験ボイコット・ストを行った。この闘争によって大学のレッドパージを避けることに成功した。しかし,この反対闘争の指導方針をめぐって,全学連中央と共産党中央の対立が表面化してきた。その根底には,学生を青年あるいは労働者の一部ととらえ,学生運動は階級闘争でなくその条件づくりと位置づける共産党中央と,学生運動は革命を推進する労働者階級の先駆であり同盟軍であるとする全学連中央との見解の対立があった。さらに,米軍占領下においても人民政権の樹立が可能であるとする,いわゆるコミンフォルム批判によって共産党内に分裂が起こり,この批判をなしくずし的に受け入れた共産党主流派に反発する国際派の全学連中央執行部の大部分が除名・追放され,全学連は壊滅的な機能麻痺状態に陥る。そして新発足した共産党指導部に追随する全学連執行部は,共産党の武装闘争方針に従い,52年5月1日の皇居前広場での血のメーデー事件や交番襲撃,火炎びん闘争などを展開する一方で,山村工作隊などで農村の地下活動に入り,軍事訓練のかたわら地主や警察権力との武力闘争を行った。

 ところが55年7月,共産党は第6回全国協議会(六全協)で一挙に武装闘争方針を撤回した。それは分裂状態の党組織の統一と,スターリン死後の国際共産主義運動の動向への追随をねらう〈政変〉だったが,共産党の方針を忠実に守ってきた学生党員などに多大の混乱と打撃を与えた。学生党員は何の反省もなくすぐに平和路線に方針転換する党指導部への不信から虚脱状態になり,運動は急速に沈滞,各大学自治会の解体などがつづいた。

 六全協による方向転換後,全学連などの学生運動を日常要求路線,身の回り主義へと指導しようとした共産党に対する反発は,全学連の共産党からの決別と,ブント(共産主義者同盟)の誕生(1958.12)をもたらすこととなった。ブントは59年6月の第14回大会で,日本トロツキスト連盟の改組によって生まれた革共同(革命的共産主義者同盟)から全学連の主導権を奪い,60年安保闘争(〈日米安全保障条約〉の項目を参照)で主導権を発揮した。全国で580万人が統一行動に参加し,11万人の請願デモが国会を取り巻いて最大の盛上りをみせた6月15日の国会闘争で,東大生樺美智子が警官隊との衝突の中で死亡した。この事件がデモをさらに盛り上げ,政府は予定されていたアイゼンハワー・アメリカ大統領の訪日中止を発表した。しかし,日米安保条約は自然承認され,ブントはその敗北の総括をめぐって,10月に〈戦旗〉〈プロレタリア通信〉〈革命の通達〉の3派に分裂し,その後15,16派に分かれたブント各派への大分裂のはじまりとなった。

 ブント解体の1961年以降,全学連中央執行部は革共同の学生組織マル学同(日本マルクス主義学生同盟)が握るが,63年4月,革命党の建設優先を主張する革マル派(革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)と,大衆闘争重視の中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)に革共同が分裂,64年末まで革マル派が全学連を握った。同年,共産党・民青(日本民主青年同盟)系全学連が再建され,66年には中核派とブントの学生組織社学同(社会主義学生同盟),さらに社会党の青年組織から生まれた社青同(日本社会主義青年同盟)解放派によって三派全学連が結成され,三つの全学連時代に入る。この三派全学連は,66-67年の砂川闘争,佐藤栄作首相訪南ベトナム阻止の羽田闘争,佐世保での米原子力空母エンタープライズ入港阻止闘争,東京・王子の米軍野戦病院開設阻止闘争,国際反戦デー新宿騒乱事件などや,70年安保改定阻止闘争の主役となった。この三派全学連の闘争は,反戦青年委員会(1965結成)やベ平連など新左翼の潮流が既成左翼をのりこえて表面に出たこと,石や角材などの闘争の武器がはじめて使用されたことで,武闘左翼の登場としてそれ以前と一線を画した。だが,この三派全学連のうち社青同解放派が69年7月独自の全学連を結成し,四つの全学連時代に入った。

 羽田,佐世保など,一連のベトナム反戦闘争後,学生運動は,1968年から69年に全共闘による大学闘争で再び高揚期を迎えた(全共闘運動)。ベトナム反戦や学費の慢性的値上げ,マス・プロ教育の進行による大学の教育的状況の破綻,学生管理の強化など,内外の状況に対する学生の憤まんが連鎖反応的に爆発し,巨大な燎原(りようげん)の火となったということができる。68年のピーク時,全国大学の8割に当たる165校が紛争状態に入り,その半数の70校でバリケード封鎖が行われた。登録医,インターン制など医学部教育体制の改革要求に端を発した東大闘争,20億円の使途不明金問題をきっかけとした日大闘争がその頂点だったが,この未曾有の全国大学闘争は,69年1月18日学生の立てこもる安田講堂が2日間の機動隊との攻防で〈落城〉した東大をはじめとして,警察力によってしだいに沈静化させられた。

 1969年後半,各大学の全共闘は影をひそめていき,再び中核,革マル派などの党派が学内でその姿を鮮明にしだし,それとともに学生の党派離れ,政治,運動離れの現象が芽生え出した。そして新左翼は,赤軍派あるいは爆弾グループといった過激化,武装化への急激な飛躍をみせながら,細分化し,学生運動としての大衆性を喪失していくが,全共闘の自己の決意と責任に基づくという理念と,急進的な直接行動主義の運動スタイルは,各地の住民運動などの中へ,全共闘活動家の分散とともに,広がりをみせていった。

外国の学生運動も1900年代初期から,軍国主義化の中での反植民地主義,民族解放運動,あるいは軍国主義への抵抗運動として存在した。1919年,日本の侵略に対して中学,大学生が同盟休校などを繰り返した朝鮮の三・一独立運動や,大学生らが対日追随政治家宅への放火やデモなどをつづけ,軍隊とも衝突した中国の五・四運動などだが,このいずれも祖国の反日・独立を要求する在日留学生の運動に端を発し,祖国での学生や民衆蜂起のきっかけとなったことを特色とした。中国では,日本の中国侵略戦争のさなかの1935年12月9日,北京で学生が警官隊と衝突した抗日デモ(一二・九運動)も有名である。ヨーロッパでは1919年,学生の福祉的な組織として国際学生連合(本部ブリュッセル)が結成され,第2次世界大戦中フランスやイタリアなどではドイツ占領軍に対する抵抗運動を行った。42年,反ファシズムを目ざして国際学生評議会(本部ロンドン)が結成され,第2次大戦後の45年11月,51ヵ国255人の代表が参加してプラハで戦後はじめての国際学生大会が開かれ,それをきっかけに39ヵ国43学生組織によって国際学生連盟International Union of Students(IUS)が創立された。この国際学連はヨーロッパから,民族独立闘争と結びついたアジア,アフリカ,ラテン・アメリカ地域へと組織をひろげ,67年には82ヵ国87学生組織の加盟へと拡大,今日にいたっている。一方,1950年,国際学連の政治的性格を批判する形で,ストックホルムで国際学生会議International Congress of Students(ICS)も結成されたが,69年に解散した。

 日本の全学連は,結成翌年の1949年9月,国際学連に加盟した。しかし,60年安保闘争後の学生組織の分裂によって国際学連への代表権争いが起こったため,68年国際学連調査団が来日して調査,ベルリンでの執行委員会の結果,共産党・民青系全学連の加盟が承認され(1968),今日までつづいている。

 こうしたなかで,各国それぞれの学生組織の活躍が高まっていた。フランスのUNEF(フランス学生全国連合),西ドイツのSDS(ドイツ社会主義学生同盟),イタリアのUNURI(イタリア全国学生連合),アメリカのSNCC(学生非暴力調整委員会),SDS(民主社会学生同盟)などである。これらの学生組織は,多くが日本にブントが誕生したのと同じころ,反ファシズムや民族解放,人種差別撤廃問題などを理念として結成され,それが中国文化大革命の影響や旧態依然とした大学制度への不満,さらにベトナム戦争への反戦,平和の運動として拡大していった。1967年11月〈教育制度の改革〉を掲げたパリ大学ナンテール分校学生のストライキがベトナム反戦,ド・ゴール体制打倒のたたかいと呼応して,68年5月10日カルティエ・ラタンでの警官隊との大衝突でピークを迎えたフランスの五月革命,カリフォルニア大学バークリー分校での学生反乱を筆頭にアメリカ中の大学を席巻したベトナム反戦,大学制度改革を主張したアメリカの〈スチューデント・パワー〉を中心に,世界各国で大学紛争が巻き起こった。

 だが,この〈ニュー・レフト〉〈スチューデント・パワー〉のヨーロッパ,アメリカ,日本を覆った嵐も,73年のベトナム戦争の終息とともに,一つの目的を達したかっこうで急速に沈静化し,各国とも全国的な学生組織が分裂,あるいはその実態を失った。一時,全米約400の大学に7万人のメンバーをもつといわれたアメリカのSDSをはじめすべて同様であり,一方で日本と同様,ウェザーマン・アンダーグラウンド(アメリカ)やバーダー=マインホフ・グループ(西ドイツ),ブリガート・ロッセ(赤い旅団,イタリア)など過激グループの出現をみた。これらの過激グループが細分化,アナーキー化,非学生組織化し,学生運動はしだいに衰退していった。

 この間,アジアでは,1976-77年,タイで軍事独裁政権に抵抗して国立タマサート大学やタイ全国学生センター(NSCT)の学生による大がかりな抗議行動があり,韓国でも77年10~11月,ソウルの延世大学などで朴政権批判の反政府デモなどがあり,警官隊と衝突した。78年11月,インドネシアでも学生共同戦線(KAMI)がスハルト体制批判の集会を行うなど,各国でくすぶりつづける学生の抵抗の火をのぞかせた。
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大学事典 「学生運動」の解説

学生運動
がくせいうんどう
students' movement

学生運動は,大きく二つの流れに分類できる。一つは学内外の教育問題をめぐる運動であり,もう一つは政治的・社会的な運動である。後者は,しばしば前者と重なりつつ展開する。近代日本の学生運動は,明治以後の旧制高校などでの学校当局との管理運営をめぐる運動の一方で,大正期以後は,社会主義思想とのかかわりの中で政治的運動もまた活発化した。東京帝国大学の学生を中心に組織された運動団体である新人会がその代表的事例といえる。当初,人道主義的かつ理想主義的な学生運動として生まれたこの新人会は,やがて日本共産党と強く結びついていった。大正末期,京都帝国大学や同志社大学のマルクス主義的傾向をもった学生たちへの一斉弾圧であった京都学連事件もまた,社会主義と学生運動の結びつきを示すものである。

 第2次世界大戦後の学生運動も,マルクス主義との強いかかわりの中で発展した。1948年(昭和23)に結成された全学連(全日本学生自治会総連合)も,日本共産党の強い指導の下で運動を展開していった。しかし,1950年代後半,党中央を批判する学生たちを中心に共産主義者同盟(ブント)が結成され,その指導の下に社会主義学生同盟(社学同)の活動が活発化していく。また,ほぼ同時期,トロツキズムの影響を受けて結成された革命的共産主義者同盟(革共同)の指導下に,日本マルクス主義学生同盟(マル学同)が誕生した。既成左翼に対する新左翼の誕生である。ブントの指導下にあった全学連は,1960年の安保改定闘争を主役として担った後,さまざまな流れへと分岐していく。同じ60年4月には韓国でも,いわゆる学生革命が展開され,当時の李承晩政権打倒を達成した(しかし,翌年の朴正煕によるクーデタにより,その後の長期にわたる軍事独裁政権が続くことになる)

 1960年代に入ると,社会党の青年組織である社会主義青年同盟の内部に解放派(社青同)が誕生し,再編された第2次ブント指導下の社学同,革共同の分裂に伴い生まれたマル学同(中核派)とともに,いわゆる三派全学連として,街頭闘争などで活発な活動を展開していった。ほかにも中核派と分岐した革命的マルクス主義派(革マル派)や,共産党から分岐した構造改革派,さらに日本共産党の影響下にある日本民主青年同盟(民青)など,さまざまな政治潮流が学生運動を担っていった。この時期の運動は,学費値上げ反対闘争や学生処分の取り消し,古い講座制による教育制度への反対の運動,学生寮や学生会館の自主管理などの学内課題と,他方でのヴェトナム戦争反対運動や日米安保粉砕闘争,さらに沖縄返還協定をめぐる運動などの政治社会的問題が,渾然一体となって展開された。60年代後半には,学内課題を軸に政治セクトに所属することを選択しないノンセクトラジカルと称する学生運動も誕生し,政治的党派も巻き込んだ全学共闘会議(全共闘)型の運動体が全国の学園に広がっていった。

 日本だけでなく,1960年代後半には経済の発展した諸国を中心に,スチューデント・パワーと称された学生の運動が国際的にも広がりをみせた。アメリカ合衆国のコロンビア大学やカリフォルニア大学バークレー校などを代表例とするヴェトナム反戦運動,1967年以後イタリアのトリノ,ローマやミラノなどで展開されていった大学占拠闘争や,1968年のフランスの五月革命,ドイツの社会主義学生同盟などの運動である。これらの運動は,政治的課題や大学内の課題に取り組むとともに,しばしば,ヒッピー運動やコミューン運動,芸術や文化をめぐるカウンターカルチャー運動といった多様な文化運動やライフスタイルの転換を求める動きと深いかかわりをもって展開された。

 1970年代に入ると,こうした学生運動の一部は警察権力との闘争のなかで過激化し,日本の連合赤軍やドイツ赤軍,さらにはイタリアの赤い旅団などが生まれた。しかし,こうした政治的テロリズムの路線は,警察の厳しい弾圧のなかで,多くの人々の信頼を失い左翼勢力そのものの力をそぐ結果になってしまった。他方で,学生を中心とするいわゆる新左翼の運動が,伝統的なライフスタイル転換の大きな契機となり,エコロジー運動やフェミニズム運動,さらにエスニック・マイノリティの運動などの新しい運動の原動力にもなった。1970年前後には,ラテンアメリカやアジア地域における学生運動も大きな盛り上がりをみせ,68年のメキシコにおけるオリンピック反対の学生運動,70年代中期のタイにおける学生運動など,時には流血の惨事につながるケースもしばしばみられた。

 1980年代には,韓国や台湾などで軍事独裁に反対する学生運動が発展し,結果的に独裁政治を解体し,民主化を達成するのにあたって大きな力を発揮した。現在もさまざまな国で,政治的かつ社会的問題や,大学改革や管理強化などをめぐって,学生の運動は多様な形態をとって続けられている。
著者: 伊藤公雄

参考文献: 高木正幸『全学連と全共闘』講談社現代新書,1985.

参考文献: 武藤一羊編『現代革命の思想 第8巻 学生運動』筑摩書房,1969.

参考文献: 東大闘争全学共闘会議編『砦の上にわれらの世界を』亜紀書房,1969.

参考文献: 日大全共闘編『バリケードに賭けた青春―ドキュメント日大闘争』北明書房,1969.

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百科事典マイペディア 「学生運動」の意味・わかりやすい解説

学生運動【がくせいうんどう】

学生が主体となって組織的に行われる社会的・政治的活動。学生は,その社会的な位置から,時代の矛盾,葛藤(かっとう)を精神的・観念的に代表する者とされ,そうした者の運動として,反体制・反権力の運動体であることが多いが,親体制的な学生運動組織も存在する。また,学生が社会層として存在するようになるのは,近代以降,高等教育の普及にともなうものであり,学生運動もこれを前提にするとされるが,それぞれの歴史的・社会的状況に応じて,その内容はさまざま。メッテルニヒ体制下のドイツのブルシェンシャフト運動は自由・統一運動の先駆となり,中国,朝鮮では,学生は五・四運動三・一運動などの反植民地主義運動において決定的な役割を果たした。また第2次世界大戦中のフランス,イタリアでは,ドイツ占領軍にたいするレジスタンスに活躍し,1960年代後半の先進諸国ではベトナム反戦運動,大学問題等を背景に広汎な学生による旧来の秩序に対する〈異議申し立て〉が行われた(五月革命)。 日本では第1次大戦後新人会,労学会,全日本学生社会科学連合会(学連)などが生まれたが滝川事件以後は弾圧がきびしく,次第に消滅。第2次大戦後学園民主化,授業料値上げ反対運動を機に全日本学生自治会総連合(全学連)が組織された。安保反対運動以後は組織内部の対立が表面化し,分裂が繰り返されたが,ベトナム反戦運動などを契機に高揚に向かい,大学問題をめぐる運動は全国に波及して,学問・教育のあり方にかかわる深刻な問題をも投げかけた(全共闘運動)。その後は学生のいわゆる政治離れを反映して運動は低迷している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「学生運動」の意味・わかりやすい解説

学生運動
がくせいうんどう

学生の行う社会運動。広義には学生団体や組織の文化活動も含むが,主として社会的,政治的主張や理想の実現を目指すものをいう。第2次世界大戦後,学生の数が増加して一つの社会層を形成するようになるとともに,婦人・農民・労働運動と並ぶ地位を得た。学生の特性およびその環境は,観察,批判,懐疑の精神を育てやすく,これが運動に踏切らせる要因となる。特に 1960年以後,アメリカ,フランス,西ドイツ (当時) ,それに日本などでも学問,研究の自由,大学,学生の自治のための運動から,反戦,人種問題など政治や思想的主張のための運動が相次ぎ,さらには社会の体制や価値体系の否定も主張されるに及び,いわゆるスチューデント・パワーとして,社会的に大きな力をもった。しかしその後,イデオロギー的な対立などからの分裂,学生たちの意識の変化などにより,目立った動きは現在は中国,韓国,タイなど一部の国でしかみられなくなった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「学生運動」の解説

学生運動
がくせいうんどう

大正・昭和期の学生の組織的な社会・政治・思想運動
明治時代に萌芽がみられるが,1918年ごろから民本主義・社会主義の興隆のもとに東大新人会などが生まれ,以後体系的に発展。'22年日本共産党の創立で急速に左傾化。同年学生連合会(学連)を結成し,反軍運動などを展開したが,'33年滝川事件以後弾圧が強化され衰退。第二次世界大戦後,共産党との関連のもとに,'48年全日本学生自治会総連合(全学連)を結成し,学園民主化・破壊活動防止法闘争・砂川事件闘争などを行った。安保闘争を境に急速に共産党との対立を深め,新左翼的傾向の強化の中で内部分裂が激化した。

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世界大百科事典(旧版)内の学生運動の言及

【フリースピーチ運動】より

…1960年代後半におけるアメリカの学生反乱の口火を切った学生運動。1964年9月カリフォルニア大学バークリー校で,大学当局が学生の政治活動を規制する方針を告示したのに対し,学内の学生諸団体はこれに反対してゆるやかな連合を組みフリースピーチ・ムーブメント(FSM)を結成した。…

※「学生運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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