妻木頼黄(読み)つまきよりなか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「妻木頼黄」の意味・わかりやすい解説

妻木頼黄
つまきよりなか
(1859―1916)

建築家。江戸旗本の家に生まれる。1878年(明治11)工部大学校(東京大学工学部の前身)造家学科に入学するが1882年中退して渡米コーネル大学に学び1884年卒業。翌1885年帰国。1886年議事堂および中央官庁街建設のため臨時建築局が設置されると同局技師となり、ドイツ留学。おもにエンデベックマン事務所に在籍。1888年帰国。1905年(明治38)大蔵省臨時建築部長となり、官庁建築の主導者として国会議事堂などの建設を指導。おもな作品に東京府庁舎(1894)、東京商工会議所(1899)、横浜正金(しょうきん)銀行本店(1904、現、神奈川県立歴史博物館、重文)、日本赤十字本社(1912)がある。

[天田起雄 2018年9月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「妻木頼黄」の解説

妻木頼黄

没年:大正5.10.10(1916)
生年:安政6.1.21(1859.2.23)
明治建築界の巨頭。江戸赤坂に旗本の長男として生まれ,幼くして両親を亡くす。明治9(1876)年,18歳でニューヨークに遊学,富田鉄之助,目賀田種太郎らを知る。翌年帰国,11年工部大学校造家学科に学ぶが中退して15年再渡米,コーネル大学建築学科に編入。卒業後,18年東京府に勤め,臨時建築局技師を兼務して新国家の中央官衙建設計画に従事,その準備のため19年ベルリンに留学。帰国後,仮議院・諸官衙・監獄の建設,建築条例の起草などに活躍,実務能力の高さは定評があった。内務技師を兼務のまま29年大蔵技師となり,煙草と塩の専売施設,税関など,拡大する国家施設の建設を進めながら有能な部下を育成し官僚営繕組織を固め,その頂点に立って辣腕をふるう。かたわら,銀行,麦酒工場などの民間建築も多数設計した。建築界のもう一方の雄,辰野金吾との国会議事堂の建設をめぐる熾烈な闘いの最中に病没。現存する作品は,日本橋,横浜正金銀行本店(現神奈川県立博物館),横浜新港埠頭倉庫など。<参考文献>博物館明治村編『妻木頼黄と臨時建築局』,長谷川尭「議事堂への系譜」(『日本の建築[明治・大正・昭和]』4巻)

(松波秀子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「妻木頼黄」の意味・わかりやすい解説

妻木頼黄
つまきよりなか

[生]1859. 東京
[没]1916. 東京
建築家。 1878年工部大学校造家学科入学。 82年渡米,コーネル大学に学ぶ。 84年に卒業。東京府へ勤める。 86年臨時建築局からドイツへ留学。 88年に帰国。大蔵省営繕局にあって活躍した明治建築界の巨匠。帝国議事堂 (現国会議事堂) の建設をめぐる,日本建築学会の辰野金吾との対立は有名である。作品は,東京府庁舎,広島仮議院 (ともに 1894) ,和風の日本勧業銀行,東京商工会議所 (99) ,さらに横浜正金銀行 (1904) ,日本赤十字社 (12) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「妻木頼黄」の解説

妻木頼黄 つまき-よりなか

1860*-1916 明治-大正時代の建築家。
安政6年12月10日生まれ。内務省臨時建築局技師となり,中央官庁街建設計画にくわわる。河合浩蔵(こうぞう)らとドイツに留学,エンデ-ベックマン事務所につとめる。帰国後内務省技師をへて明治34年大蔵省営繕課長。国会議事堂設計をめぐって辰野金吾と対立した。大正5年10月10日死去。58歳。江戸出身。コーネル大卒。作品に横浜正金銀行本店など。

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