奥 好義(読み)オク ヨシイサ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「奥 好義」の解説

奥 好義
オク ヨシイサ


職業
雅楽師

生年月日
安政5年 9月20日

出生地
京都府

経歴
雅楽専業の家系、元天王寺楽家秦姓林氏の一族。宮内省雅楽局の設置に伴い、明治3年義父・行業とともに上京し、その伶人となる。専門は笛。雅楽演奏の傍ら、山井景順、芝葛鎮らとともに洋楽の伝習を命ぜられ、フェントンに吹奏楽を学んだ。さらに12年より松野クララにピアノを師事。同年西洋管絃楽協会(洋楽協会)が発足すると西洋の管弦楽の研究に取りかかり、13年上真行らとともに第1回伝習生として音楽取調掛に入り、メーソンについてピアノ、和声、管弦楽、唱歌などを修めた。同掛では音律の研究や唱歌の選曲にも当たった他、メーソンとともに音楽教育のため東京師範学校、東京女子師範学校、学習院などに出向した。14年文部省御用掛を兼務。同年宮中の御陪食で初めて管弦楽が演奏された際にはフルート奏者として参加した。17年音楽取調掛教員。19年共立女子職業学校(共立女子学園)設立発起人の一人として創設に参画した。23年女子高等師範助教諭を経て、25年助教授。27年より高等師範学校附属音楽学校の講師となり、唱歌と作曲を講じた。一方、洋楽の書法を身につけた明治を代表する作曲家としても活躍し、唱歌「浜之真砂」「金剛石」「天長節」「舟あそび」「岩間の清水」「新年」「かざしの桜」「地理唱歌 汽車の旅」「鳥おどしの歌」「世界万国」などを作曲。特に山田源一郎の編集した「大捷軍歌第三編」に収録された「勇敢なる水兵」(詞・佐佐木信綱)は軍歌の名曲として人口に膾炙している。また国歌君が代」については、雅楽局の四等伶人だった12年雅楽稽古所で宿直中に作曲したものであるといわれており、それまで使用されていたフェントン作の「君が代」の曲に取って代わったが、のち公的には一等伶人の林広守の名で発表され、長らくそれが浸透していたという経緯がある(楽隊長も務めたフェントンの曲が、若い楽人の作品に差し替えられたのでは公的な問題が生ずる恐れがあると判断した林の配慮によるともいわれている。現在は奥ひとりの作曲であるという説が有力)。36年より酒田高等女学校に赴任。大正11年東京音楽学校邦楽調査掛嘱託。編著に我が国初のピアノ教則本「洋琴教則本」をはじめ、「明治唱歌」「明治唱歌幼稚の曲」「儀式唱歌」などがある。

没年月日
昭和8年 3月9日 (1933年)

伝記
日本フルート物語日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人〈7〉 驀進から熟成近藤 滋郎 著富田 仁 編(発行元 音楽之友社日本放送出版協会 ’03’92発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「奥 好義」の解説

奥 好義
オク ヨシイサ

明治〜昭和期の雅楽師



生年
安政5年9月20日(1858年)

没年
昭和8(1933)年3月9日

出生地
京都

経歴
雅楽専業の家系、元天王寺楽家秦姓林氏の一族。明治3年上京、宮内省雅楽局伶員となり、雅楽演奏のかたわら洋楽を習得。12年よりピアノを学び、14年以降は音楽取調掛員、女子高等師範教授を兼任。唱歌「金剛石」などを作曲。宮内省課員らが遊戯唱歌作曲の際、「君が代」の作曲を手掛け、のち、林広守作と発表された。当時の英国人フェントン作「君ケ代」は廃止され、好義作に変った。著書に「洋琴教則本」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

367日誕生日大事典 「奥 好義」の解説

奥 好義 (おく よしいさ)

生年月日:1857年9月22日
明治時代-昭和時代の雅楽家;作曲家
1933年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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