奥院(読み)おくのいん

精選版 日本国語大辞典 「奥院」の意味・読み・例文・類語

おく‐の‐いん ‥ヰン【奥院】

〘名〙
① 寺院で、本堂より奥の高い場所などにあって、秘仏や開山、祖師などの像などを安置してある所。
山家集(12C後)下「高野のおくの院の橋の上にて」
② 最も奥まっている所のたとえ。
※読本・南総里見八犬伝(1814‐42)四「まだ行燈を置ざれば、奥の院(イン)は常闇(とこやみ)也」
③ (江戸下谷龍泉寺町の正灯寺を本堂と見てその奥の方にある所の意で) 吉原をいう。
※雑俳・川傍柳(1780‐83)一「奥の院階子でのぼる正燈寺
④ 女陰をいう。
※雑俳・柳多留‐四〇(1807)「洗足でかすかにおがむ奥のゐん」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

日本歴史地名大系 「奥院」の解説

奥院
おくのいん

高野山の東部にあり、承和二年(八三五)三月二一日に没した空海の廟を中心に開けた霊域で、大師信仰の聖地。狭義には空海の廟だけをさすが、広義には一の橋(大渡橋)から廟までの墓と御堂を含む地域をさすようになった。

一〇世紀初め、高野山は弘法大師入定留身の地、諸仏集会の霊場であるとの信仰が起こり、それに伴って「ひと度この地を踏めば三悪の境に帰らず、一度この山に詣ずれば必ず三会の暁に遇わむ」と参詣の功徳が唱道された。藤原道長は入定一八八年後の治安三年(一〇二三)一〇月、奥院に参詣し(栄華物語)、自筆の金泥法華経と般若理趣経三〇巻を廟前で供養し、埋納して兜率浄土への往生を祈った(扶桑略記)。万寿三年(一〇二六)には道長の娘上東門院彰子が落飾の後、廟前に納髪した(高野春秋)。これが高野山への納髪納骨の最古の例といわれる。道長の参詣を嚆矢として皇族・貴族の登山が相次ぎ、それに伴って庶民の参詣や納骨信仰も盛んになった。「保元三年記」に「今暁、先妣御骨を高野にわたし奉る。これ納骨の御沙汰なり、一間四面の堂、かの山に御建立、大日如来を供養してこれを安置し、その中に御骨をこめ奉るなり」とあり、また藤原公房は永万元年(一一六五)に出家して勝仙と称し、二条院の御骨を高野山に納めた(尊卑分脈)。このほか有王丸の俊寛の遺骨の納骨(平家物語)明遍と法然の遺骨の話(法然上人行状画図)、源家三代の納骨(金剛三昧院文書)などが高野納骨信仰を代表するもので、「沙石集」巻二に高野山は「三密修行ノ霊地トシテ、世コゾリテ帰スル故ニ、有縁ノ亡魂ノ遺骨ヲ、彼山ニ納ル事、貴賤ヲイハズ、花夷ヲ論ゼズ、年ニ随テ盛ナリ」とあるように、高野山の納骨信仰は鎌倉時代に全国的に普及した。

奥院
おくのいん

本堂の下方、金剛界の巌の基部にある洞窟で人々が火を点じて詣る。ここに独鈷泉という豊富な湧泉があり空海が独鈷で掘ったと伝え、一山の閼伽飲用から沐浴など用水の源泉となっている。奥の巌中に空海一刀三礼の不動明王の石像を封じ込めたという。空海二尺三寸五分の石像を刻み開眼供養するとたちまち歩いて巌窟中に入ったので、そのあとを二、三町追うと尊像は立ち返り、「この巌窟内へ肉身の者入れば命を失ふべし」といい残して去った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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