奥州総奉行(読み)おうしゅうそうぶぎょう

精選版 日本国語大辞典 「奥州総奉行」の意味・読み・例文・類語

おうしゅう‐そうぶぎょう アウシウソウブギャウ【奥州総奉行】

〘名〙 鎌倉幕府の地方職制の一つ。頼朝は奥州征伐ののち、葛西清重陸奥国御家人事を奉行させる等後事を託し、また建久元年(一一九〇)には伊沢家景陸奥国留守職に任じて庶民愁訴を申達させた。これらを初例とする。室町幕府には奥州探題がある。
吾妻鏡‐建久六年(1195)九月二九日「故秀衡入道後家于今存生、殊可憐愍之由、被葛西兵衛尉清重、伊沢左近将監等云々。両人者、依奥州惣奉行也」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「奥州総奉行」の意味・読み・例文・類語

おうしゅう‐そうぶぎょう〔アウシウソウブギヤウ〕【奥州総奉行】

鎌倉幕府職名奥州征伐後、葛西清重かさいきよしげに始まり、陸奥国御家人統率平泉郡の検非違使管轄を行った。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「奥州総奉行」の意味・わかりやすい解説

奥州総奉行 (おうしゅうそうぶぎょう)

鎌倉幕府の奥州管轄機関をいう。源頼朝は,1189年(文治5)奥州征伐の直後葛西清重に陸奥国御家人奉行,平泉郡内検非違所管領,その他戦後処理に絡む強大な権限を与え,翌年大河兼任の乱平定後には,伊沢家景を陸奥国留守職に任命した。戦後処理がおさまった95年(建久6)頼朝は再び葛西・伊沢両氏に対して,故藤原秀衡の後家の庇護を命じたが,《吾妻鏡》はこれを〈両人は奥州惣奉行たるに依て也〉と評した(建久6年9月29日条)。これが同時代史料による奥州総奉行の唯一の表記である。このため,奥州総奉行については,最近では,戦後処理を目的とした臨時の職名とみる説や,《吾妻鏡》編者の作為した語句であって正式な職制上の名称ではないとみる説などがある。一方,鎌倉末期にも葛西・伊沢両氏が国内統治に関知した徴証や解説も新たに出され,依然として鎌倉期を通じて地方職制として存在した,とする説も強い。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「奥州総奉行」の意味・わかりやすい解説

奥州総奉行【おうしゅうそうぶぎょう】

鎌倉幕府の奥州管轄機関。《吾妻鏡(あづまかがみ)》建久6年(1195年)9月29日条に,葛西清重(かさいきよしげ)と伊沢家景(いざわいえかげ)を奥州総奉行としている。源頼朝は1189年の奥州征伐の直後,陸奥(むつ)国御家人奉行・留守職など戦後処理にからむ強大な権限を葛西・伊沢両氏に与えたとされる。しかし前掲史料の1点しかないため,戦後処理のための臨時的な職名であるとか,正式な職制上の名称ではないとの説もある。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奥州総奉行」の意味・わかりやすい解説

奥州総奉行
おうしゅうそうぶぎょう

鎌倉幕府の地方制度の一つ。1189年(文治5)奥州征伐の直後、葛西清重(かさいきよしげ)は陸奥(むつ)国御家人(ごけにん)の統率、および平泉(ひらいずみ)郡内検非違所(けびいしょ)の管領(かんれい)などを命ぜられた。また翌年3月には伊沢家景(いざわいえかげ)が陸奥国留守職(るすしき)となり、多賀国府(たがこくふ)に赴任、勧農(かんのう)、「民庶の愁訴」の取り次ぎ、国務に従わない者の取締りなどを行うことになり、やがてこの両者を奥州総(惣(そう))奉行とよぶようになった。鎌倉時代を通じて、葛西、伊沢(留守)の両氏がこの職についた。平泉、多賀城の両所は鎌倉期においても奥州の政治的中心であり続けた。

[入間田宣夫]

『小林清治・大石直正編『中世奥羽の世界』(1978・東京大学出版会・UP選書)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奥州総奉行」の意味・わかりやすい解説

奥州総奉行
おうしゅうそうぶぎょう

鎌倉幕府の奥州統治機関。文治5 (1189) 年,源頼朝は奥州藤原氏征伐後,葛西清重を陸奥国内御家人の統率と治安維持にあたらせ,翌年,京下りの御家人伊沢家景を陸奥留守職に補任し,庶民の訴訟取次ぎを命じて,その所務をとらせた。のちこの両職務がこの名で呼ばれた。幕府の滅亡により廃止。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「奥州総奉行」の解説

奥州総奉行
おうしゅうそうぶぎょう

鎌倉幕府の地方職名
源頼朝は1189年奥州征討直後,奥州の御家人統率と治安維持のために,葛西清重を陸奥御家人奉行に任じ,翌年伊沢家景(のち留守氏と称す)を陸奥国留守職に任じて訴訟関係をつかさどらせた。のち,この両者が奥州総奉行と呼ばれた。1333年鎌倉幕府滅亡とともに廃止。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の奥州総奉行の言及

【陸奥国】より

…荘園は摂関家領と皇室領が多く,保は国衙(こくが)(多賀城)と平泉の周辺に多い。
[鎌倉時代]
 1189年(文治5)の奥州征伐によって,奥州藤原氏を攻め滅ぼした源頼朝は,戦後この国に2人のいわゆる奥州総奉行(おうしゆうそうぶぎよう)をおいた。その1人は,合戦の直後に平泉におかれた葛西清重で,彼は陸奥国の御家人統率と,平泉郡内検非違所(けびいしよ)すなわち検断(警察)のことを命ぜられた。…

※「奥州総奉行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android