奈良(県)(読み)なら

日本大百科全書(ニッポニカ) 「奈良(県)」の意味・わかりやすい解説

奈良(県)
なら

近畿地方のほぼ中央部を占める県。日本のほぼ中央に位置し、とくに県北部の奈良盆地は、飛鳥(あすか)・奈良時代を通して、「国のもなか」「国のまほろば」とうたわれ、政治・文化の中心地として栄えた。北を京都府、東を三重県、北西部を大阪府、南西部を和歌山県に囲まれた日本でも数少ない内陸県であるが、京阪神および中京の二大経済・都市圏に隣接し、経済生活のみならず、精神文化のうえでもそれらの影響を少なからず受けている。面積は3690.94平方キロメートルで、全国総面積の約1%にすぎない。東西64キロメートル、南北102キロメートルで南北に長い。大和(やまと)一国からなり、県庁所在地は奈良市。

 2020年(令和2)の第21回国勢調査による県人口は132万4473で、面積と同様に、総人口の約1%にすぎない。1750年(寛延3)の人口は37万4041、1846年(弘化3)は36万1137で、奈良県が設置された1871年(明治4)には41万8326、1887年47万6709という記録がある。1920年(大正9)第1回国勢調査以降の人口推移をみると、1920年は56万4607であったが、1940年(昭和15)まで停滞、微増が続き、1940年から1947年にかけては戦時中の疎開者の流入による約16万の増加があった。しかし、1947年から1950年の間では1万6000の減少があり、都市への還流がみられた。1960年ごろから県人口は急増し始める。1960年から1970年に約15万、1970年から1980年に約28万、1980年から2000年(平成12)に約23万と増加し、その間の増加率は全国的にみても高い。しかし、2000年以降は減少が続いている。社会的増減では、1963年を境に出超から入超に転じ、2000年頃までは超過率は増大傾向をたどっていた。これは京阪神大都市圏の膨張と、それに対応する県内の住宅開発など社会的要因によるものである。

 2020年10月現在、12市7郡15町12村からなる。

[菊地一郎・加藤光子]

自然

地形

中央部のやや北寄りを西流する吉野川に沿って、中央構造線が走っている。この構造線によって、本県の地形を内帯の北部低地帯と外帯の南部山岳地帯に分けることができる。北部低地帯は近畿地方の中央低地の一部を構成するもので、東半部の大和高原(笠置(かさぎ)山地)、宇陀(うだ)山地(東部は高見山地ともいう)、竜門(りゅうもん)山地、西半部の奈良盆地と、生駒(いこま)、金剛(こんごう)の両山地の東斜面に大別される。大和高原は東の上野盆地と西の奈良盆地に挟まれ、南の初瀬(はせ)川、宇陀川構造谷、北の木津川に限られた隆起準平原で、標高400~500メートル、なだらかな起伏の小丘陵からなる。大和高原の南に続く宇陀山地は南に急傾斜し、北の初瀬川、宇陀川構造谷に向かって緩傾斜する傾動地塊で、小丘陵の間に小盆地が開ける。山地東部の三重県境には高見山(1249メートル)、三峰(みうね)山(1235メートル)などの山々が連なり、また山地北部には室生(むろう)火山群があり、一帯は室生赤目青山国定公園に指定されている。宇陀山地の西方には竜門岳(904メートル)を主峰とする地塁性山地の竜門山地がある。奈良盆地は東を大和高原、西に生駒・金剛山地、南は竜門山地、北を奈良丘陵に囲まれた菱(ひし)形状の地溝性盆地で、面積約300平方キロメートル、県面積の約8%を占めるにすぎないが、標高40~80メートルの盆地底は平坦(へいたん)で肥沃(ひよく)な沖積層からなり、古くから水田農業が発達し、政治・文化の中心地となってきた。金剛山(1125メートル)を最高峰とする生駒・金剛山地は、南北約45キロメートル、奈良盆地と大阪平野を画している。金剛山地北端には二上(にじょう)火山群がある。盆地内の諸河川を集めて西流する大和川は、生駒山地と金剛山地の間を横断して大阪平野に流出する。両山地は金剛生駒紀泉国定公園に指定されている。

 県面積の60%強を占める南部山岳地帯は、紀伊山地の主部をなし、近畿地方でもっとも高峻(こうしゅん)な山岳地帯となっている。嵌入蛇行(かんにゅうだこう)して南流する東の北山川と西の十津(とつ)川に挟まれた地域で、中央の八剣山(はっけんざん)(1915メートル)を最高峰とする大峰山脈(おおみねさんみゃく)、東側の大台ヶ原山(1695メートル)を中心とする台高(だいこう)山脈、西側の伯母子(おばこ)山脈に分けられる。大峰山脈は古来修験道(しゅげんどう)信仰の中心となってきた地で、大台ヶ原、北山川の瀞(どろ)八丁(特別名勝、天然記念物)などは吉野熊野国立公園の主要部をなし、和歌山県境の伯母子山脈一帯は高野竜神(こうやりゅうじん)国定公園域である。このほか、大和高原の山麓(さんろく)をたどる山辺(やまのべ)の道や柳生(やぎゅう)街道一帯は大和青垣国定公園、三重県との県境の山岳地帯は室生赤目青山(むろうあかめあおやま)国定公園に指定され、県立自然公園には矢田、吉野川津風呂(つぶろ)、月ヶ瀬神野山(こうのさん)の三つがある。

[菊地一郎・加藤光子]

気候

概して温暖であるが、寒暑の差が大きい内陸性気候を呈する。北部と南部では地域的差異があり、北部の奈良盆地は温暖寡雨で、奈良市の平均気温は14.9℃、年降水量は1316ミリメートルで(1981~2010年平均)、瀬戸内型気候区に入る。ただし、大和高原、宇陀山地など山地部は平均気温が3℃ほど低くなり、年降水量は100ミリメートルほど多くなる。南部山岳地帯は平均気温は13℃、降水量は全国屈指の多雨地帯の山岳気候である。とくに大台ヶ原山一帯の年降水量は5000ミリメートル近くになる。山岳地帯南部は海洋の影響を強く受け、平均気温14℃前後、年降水量2000ミリメートルを超える温暖多雨の南海型気候区となる。

[菊地一郎・加藤光子]

歴史

先史・古代

奈良県でもっとも古い遺跡は、旧石器時代の高塚遺跡(奈良市藺生(いう)町)と鈴原(すずはら)遺跡(天理市)で、石器を出土している。縄文時代の遺跡は、木津川、大和川、吉野川、北山川水系に沿って点在する。高地住民が河川を交通路として利用し、狩猟漁労生活を営んでいたと思われる。弥生(やよい)時代になると、奈良盆地周縁部に遺跡の多くが分布する。竪穴(たてあな)住居趾(し)も発見され、水稲耕作用具などの遺物も出土する。弥生時代には盆地の中心部は沼沢地だったので、その周縁部に定住を始めたと思われる。銅鐸(どうたく)や多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)も出土している。3世紀末から4世紀初頭に古墳が出現し、5世紀に入ると巨大な前方後円墳が盛んに築造された。県下の古墳は1000を超えるが、大部分は奈良盆地にみられ、長さ200メートル以上の前方後円墳は20基に近い。『古事記』『日本書紀』には、大和朝廷の始祖神武(じんむ)天皇が畝傍山麓(うねびさんろく)の橿原宮(かしはらのみや)で即位したと記される。創始年代は不詳であるが、奈良盆地周縁部に原始小国家である「むら国」を支配する古代豪族(首長)が台頭し、やがて「むら国」を統合し、天皇家を中心とする有力豪族の連合体である大和朝廷が成立した。有力豪族の居住地には巨大前方後円墳の多いことが考証されている。遅くも4世紀前半までに、大和を中心に日本の統一をほぼ終わり、同後半には南朝鮮に進出して進んだ文明と鉄を手に入れ、5世紀ごろ国家組織がいちおう完成したとみられている。

 奈良盆地南東部の飛鳥(あすか)の地は5世紀の後半から開け、蘇我(そが)氏によってさらに開発され、6~7世紀には政治の中心であった。発掘調査されている飛鳥板蓋(いたぶき)宮のほか多くの宮都が営まれた。仏教伝来に伴って、飛鳥にも本格的な寺院法興(ほうこう)寺(飛鳥寺)が建立され、斑鳩(いかるが)の地には、推古(すいこ)天皇と聖徳太子の発願により法隆寺が建てられた。持統(じとう)天皇8年(694)天皇は飛鳥から藤原京(橿原市)に遷都した。奈良盆地南部、畝傍山・天香久山(あめのかぐやま)・耳成(みみなし)山の大和三山に囲まれた地に、中国の長安を模した都城が設定された。京内は12条8坊の条坊制が敷かれ、律令(りつりょう)制の象徴であった。しかし、藤原京は未完成のまま710年(和銅3)元明(げんめい)天皇のとき平城京(奈良市)へ遷都し、一時山背(やましろ)(京都府)の恭仁(くに)京などへ遷(うつ)ったが、7代74年間の帝都となった。平城京は奈良盆地北端を占め、東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートルの長方形をなし、藤原京の約3.5倍の規模をもった。中央の朱雀大路(すざくおおじ)で左京と右京に分かれ、南北9条、東西各4坊の条坊制を敷き、北辺中央に大内裏(だいだいり)、左京・右京に東市・西市が置かれた。また、飛鳥から藤原氏の氏寺興福寺をはじめ、薬師寺、元興(がんごう)寺、大安寺の四大官寺のほか多くの寺院が移建された。その後、東大寺、唐招提(とうしょうだい)寺、西大(さいだい)寺などが創建され、左京の東に外京が設けられた。壮麗な宮殿、寺院、邸宅が軒を連ね、「咲く花の匂(にお)うがごとし」と歌われるにふさわしい景観を呈した。とくに聖武(しょうむ)天皇の時代に全盛期を迎え、752年(天平勝宝4)には東大寺大仏殿で大仏開眼の盛儀が行われ、天平文化(てんぴょうぶんか)の花が開いた。784年(延暦3)桓武(かんむ)天皇が山背の長岡京に遷都し、以後平城京は荒廃し、9世紀後半には大部分が水田と化したという。しかし、諸大寺はそのまま残り、薬師寺、大安寺、元興寺、興福寺、東大寺、西大寺の六大寺に法隆寺を加えた七大寺は南都七大寺とよばれて繁栄した。なかでも東大寺は皇室の氏寺として保護され、また興福寺と春日(かすが)大社は、藤原氏の氏寺・氏社として摂関政治の実現とともにますます発展した。9世紀中ごろから平安貴族の間で氏神・氏寺の祭祀(さいし)が盛んとなり、「ふるさと大和」を懐かしむ風潮も加わって、南都七大寺への巡礼や春日詣(もう)で、長谷(はせ)詣でなど社寺詣でが盛んに行われた。

 1156年(保元1)に始まる保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱で源氏を駆逐し、政権を握った平清盛(きよもり)は、大和を知行(ちぎょう)国とし、大和一円の検注(けんちゅう)を強行して東大寺、興福寺との対立を激化させた。1180年(治承4)清盛の命で平重衡(しげひら)は南都を焼討ちし、東大寺大仏殿をはじめ多くの堂塔伽藍(がらん)が焼失した。

[菊地一郎・加藤光子]

中世

1181年(養和1)には早くも南都の復興が始まり、社寺の建築のほか彫刻、芸能が盛んになった。鎌倉時代も繁栄を続け、寺社の周りには、寺人や神人(じにん)、職人などによる門前郷ができ、南都七郷(興福寺寺門郷)と東大寺七郷が形成された。また、市(いち)と座が発達した。鎌倉幕府は全国に守護(しゅご)、地頭(じとう)を配置したが、大和は興福寺の勢力が強く、守護を置くことができなかった。興福寺は大和守護としてふるまい、僧兵と春日神人からなる武士団、衆徒(しゅと)・国民(こくみん)の制を確立した。

 南北朝時代は、北大和は北朝方、南大和は南朝方に分かれ、興福寺では寺務、大乗院門跡側が北朝方、一条院門跡側が南朝方に分かれた。この間、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇の吉野遷宮があり、また後村上(ごむらかみ)天皇は賀名生(あのう)(五條(ごじょう)市西吉野町)に行宮(あんぐう)を置いた。戦国時代には各地に土一揆(つちいっき)が頻発し、農民は徳政令の発布などを要求した。この時期、農村を握る衆徒・国民は、地縁によって党を結び、やがて北大和の一条院門跡衆徒の筒井(つつい)氏と南大和の散在党国民の越智(おち)氏が台頭し、対立する。応仁(おうにん)の乱(1467~1477)では、筒井氏が東軍、越智氏が西軍に属した。戦国時代、大和は四分五裂の状態になる。三好長慶(みよしながよし)の代官松永久秀(ひさひで)が大和を支配するが、1567年(永禄10)三好三人衆らと交戦し、その際東大寺大仏殿を焼き払った。久秀はのち織田信長に討たれ、信長は筒井順慶(じゅんけい)を大和守護に任じ、郡山(こおりやま)に築城させた。ここに興福寺の大和守護の実権は失われた。順慶の死後、豊臣(とよとみ)秀吉の弟秀長が郡山城に入る。秀吉の文禄(ぶんろく)検地によって、大和国の村切(むらぎり)が明確となり、総石高(そうこくだか)は約45万、江戸末期までほとんど変動がなかった。

[菊地一郎・加藤光子]

近世

江戸時代、大和に配置された大名のうち明治維新まで存続したのは郡山藩6万石(のち15万石)、高取藩3万石(のち2万5000石)のほかは小藩の小泉、芝村(しばむら)、柳本(やなぎもと)、柳生(やぎゅう)の各藩だけである。幕藩体制中、松山藩、置留(おきどめ)藩、新庄(しんじょう)藩(櫛羅(くしら)藩)、御所(ごせ)藩、竜田(たつた)藩、田原本(たわらもと)藩などが立藩、廃藩したが、これらの藩はいずれも小藩で、城をもたず陣屋を構える1万石級の小大名であった。そのほかは奈良奉行(ぶぎょう)や代官が支配する幕府領、旗本領、寺社領、公家(くげ)領などに細かく分かれ、他国藩領もあった。

 当時の産業をみると、室町時代からの酒、墨、刀剣、団扇(うちわ)、火鉢、人形などが奈良の名産として知られていたが、江戸時代になって奈良晒(ざらし)が盛んとなる。また、大坂の発達に伴って上方(かみがた)見物客が奈良にも流れ、寺社参りも増え、観光地の性格をもってくる。南大和も吉野林業の発達で活況を呈した。

 近世を通じて全国に起きた百姓一揆は3500を超えるが、大和でも30以上の一揆が起きている。なかでも1753年(宝暦3)芝村藩領で年貢減免と領主交替を要求して京都奉行所に箱訴(はこそ)した芝村騒動(十市騒動(とおちそうどう))が知られる。芝村騒動は9か村に及んだが、このほか十市、式下(しきげ)、葛下(かつげ)3郡から200人が江戸に召喚され、首謀者は死罪、流罪に処せられた。1863年(文久3)尊攘(そんじょう)派の天誅(てんちゅう)組が大和挙兵を図り、五條(ごじょう)代官所を焼討ちし、さらに十津川郷士を招集し高取藩を攻撃しようとしたが、大和諸藩などの討伐軍によって10日間で敗退した。

[菊地一郎・加藤光子]

近・現代

明治維新後の1868年(明治1)大和鎮台が置かれ、さらに同年奈良奉行所支配地などを所管する奈良県が設けられ、1870年には五條県が置かれた。1871年の廃藩置県で大和国一円を所管する奈良県が設置されるが、1876年には堺県(さかいけん)に合併され、堺県は5年後大阪府に編入された。奈良県の名が復活するのは大阪府からの分離が認められた1887年のことである。一方、維新直後の新政府によって、神道(しんとう)国教化政策が打ち出され、全国に廃仏棄釈の嵐(あらし)が吹き荒れた。県下各地で由緒ある寺院が壊され、仏像、寺宝が散逸した。その荒廃のなかから、明治中期になると、奈良公園、奈良帝室博物館(現、奈良国立博物館)、吉野県立公園の設置など、建国の聖地宣揚に支えられて観光立県の動きが始まる。本県の交通は、古くから京都、熊野を結ぶ南北方向の上(かみ)街道と、堺と直結する大和川水運が中心であったが、明治中期から昭和初期にかけて、京都、大阪、和歌山を結ぶ国鉄網、私鉄網が発達した。第二次世界大戦後は産業・観光道路網の整備が進み、戦災を免れた奈良県の観光化は躍進した。また、北部の奈良盆地は古来先進的農業地帯、南部の吉野山地は近世以降林業地帯であり、第二次世界大戦後まで本県の産業構造は農林業を主体とするものであった。1960年代の日本の高度経済成長に伴って阪神経済圏も急激な膨張を遂げ、奈良県への流入人口が増大するとともに、県内の住宅開発、工業開発などが進み、第二次産業、第三次産業を主体とする産業構造に変貌(へんぼう)していった。他方、吉野山地の林業地帯では人口流出が続き、過疎化が進行している。

[菊地一郎・加藤光子]

産業

県北部の肥沃な奈良盆地を中心に早くから農耕文化が発達し、干魃(かんばつ)に悩まされながら溜池灌漑(ためいけかんがい)の利用などで水田二毛作中心の先進的農業地帯としての地歩を築いてきた。また、吉野山地、宇陀(うだ)山地の豊富な林産資源に基づく林業が発達し、その結果、本県は農林業主体の産業構造を長らく維持・発展させてきた。1920年の農林業就業者は全就業者の過半を超える53%を占め、1940年でも第1位の46%であった。一方、古い歴史と高水準の技術をもった各種伝統産業が発達したが、家内工業的性格が強く、近代的工業化の原動力とはなりえなかった。本県の近代的工業化は、明治後期に立地した綿糸紡績やメリヤス工業などに始まり、その後、ゴム履き物、木材やその製品などの軽工業が発達した。しかし、それらは低賃金の農村余剰労働力に依存するもので、産業構造を変革するまでに至らなかった。第二次世界大戦後の阪神工業地帯の発展と、道路交通の発達が本県の産業構造を急激に変革していった。農業の兼業化、農地の宅地化・工場化、農山村人口の流出などがおこるとともに、阪神工業地帯から県内への工場進出がみられ、工業団地の造成や工場誘致が積極的に行われ、金属・機械工業を中心とする内陸型工業の傾向が強まった。かつての農林業県は、いまや工業や商業、観光を主体とする産業構造に変貌している。

[菊地一郎・加藤光子]

農林業

2000年の農家総数は3万2255戸で、1980年からの20年間で1万7785戸の減少である。減少率は近年鈍化しているものの、全国比よりは大きい。耕地面積も都市化の影響で年々減少し、2000年は1万7046ヘクタール、2010年は1万3081ヘクタールである。したがって、農家1戸当りの経営耕地面積は約46アールで零細である。第二次世界大戦前の専業農家率は50%を超えていたが、1961年以降激減し、2000年には8%まで下がった。農民の多くが安定した職場を求めて就職し、農業所得を生計の補助的なものとし、資産管理的な経営を行う都市近郊型農業経営の特色を示している。2017年には耕地面積のうち水田が全体の約70%を占めるが、生産調整のための作物転換が行われており、水稲生産は減少している。野菜生産は全国的にみて多いほうではないが、京阪神大都市圏近郊の野菜供給地となっている。盆地気候を利用した水田裏作の大和スイカは有名である。カキの栽培は古くから知られているが、ミカン、ブドウ、ナシなどの果樹栽培も盛んになっている。また茶の栽培も古くから盛んで大和茶として知られる。最近は施設園芸が急速に伸び、イチゴ生産は全国のトップクラスに入っている。

 県総面積の約77%は林野で占められる。私有林が大部分で、早くから人工更新が積極的に行われたことや、独特の密植方法により、単位面積当りの蓄積量は全国第8位であり(2007)、スギ、ヒノキを中心とする用材林の品質は高く評価されている。とくに吉野杉、吉野磨丸太(よしのみがきまるた)などの良材の産出で知られる。

[菊地一郎・加藤光子]

水産業

内陸県であるが、溜池や河川を利用する養殖業、漁業が行われている。県全体の産業に占める割合はきわめて小さいものの、大和郡山市を中心とするキンギョ、色ゴイなどの観賞用魚類の養殖は全国的に有名で、質・量の両面で評価が高い。また、大和川、熊野川を中心にアユなどの内水面漁業も行われている。

[菊地一郎・加藤光子]

工業

2001年に奈良県工業の事業所数は6862、従業者数は9万4834人であった。そのうち従業者300人以上の事業所は約0.3%にすぎず、事業所のほとんどは中小零細企業である。部門別にみると、木材木製品、衣料品、食料品、プラスチック製品、金属製品などの製造業が事業所数、従業者数とも多い。2003年の工業出荷額は2兆0506億円で、近畿地方では下位の方である。出荷額の順位は一般機械、電子部品・デバイス、食料品、金属製品、プラスチックの順で、年々重化学工業の占める割合が高くなっており、反面、かつて出荷額第1位であった木材の出荷額は低下している。一般機械、電気機械の進出は、1965年以降の工場誘致、工業団地造成などによるもので、大和郡山市の昭和工業団地などを中心に阪神工業地帯からの進出企業がみられる。地場産業の60%は繊維、木材、衣服の3業種で占められ、大和郡山市、大和高田市のメリヤス工業、北葛城(きたかつらぎ)郡の靴下製造、御所(ごせ)市、大和高田市のサンダル製造などが知られている。伝統工業の技術的発祥の歴史は古く、奈良時代にさかのぼるものもある。奈良市の奈良漆器、一刀彫、赤膚(あかはだ)焼、奈良蚊帳(がや)、毛筆、墨、奈良漬け、生駒市の茶筌(ちゃせん)、吉野郡の割箸(わりばし)、三宝、神具、吉野葛(くず)、桜井市の三輪(みわ)そうめんなどが知られる。また御所市、高取町では古くから大和売薬(製薬)業が盛んである。

 近年、「テクノパーク・なら」をはじめとした新しい工業団地の開発が促進されている。

[菊地一郎・加藤光子]

開発

本県の地域開発は、第二次世界大戦後、農業用水の確保を主目的とした十津川・紀ノ川(吉野川)総合開発に始まり、その実施途上で、国土総合開発法に基づく特定地域として新宮(しんぐう)川水系(熊野川)の電源、森林資源開発などを主とした吉野熊野特定地域総合開発(1956)が実施された。その後、奈良盆地の工業開発を主軸にした奈良県新総合開発(1963)、第二次奈良県新総合開発(1968)、県長期基本計画(1973)、県長期構想計画(1984)などがあり、1995年には奈良県新総合計画が策定され、2006年度からは「やまと21世紀ビジョン」へと継承された。1968年以降の開発計画では、資源・産業開発よりも人間生活優先、環境重視の方向で公害防止、自然環境・居住環境の保全、埋蔵文化財・遺跡の保存と県民生活向上のための各種の開発事業に重点が置かれるようになった。

[菊地一郎・加藤光子]

交通

奈良盆地は古くから道路網が発達し、現在に継承されているものも少なくない。古代、中世には、京都と結ぶ南北の交通路が発達し、近世以降は大和川水運を中心に大坂、堺と結ぶ東西の交通路が重要となった。明治中期から末期にかけて鉄道が敷設され、現在のJR西日本の関西本線、奈良線、桜井線、和歌山線が開通した。鉄道の敷設で、近世以降栄えた大和川水運は消滅した。大正期から昭和初期にかけては私鉄の発達が目覚ましかった。現在、近畿日本鉄道の奈良線、京都線、橿原線、大阪線など12路線に及んでいる。JRはおもに旅客・貨物の長距離輸送、近鉄は通勤・通学などの短距離輸送と、奈良盆地や吉野山地への観光の足として利用されている。旧街道は、拡幅・舗装されて国道・県道となった。国道は24号、25号、163号、166号などがあり、ほかに自動車専用の名阪国道(大阪―名古屋)、西名阪自動車道(松原―天理)、南阪奈道路(美原―葛城)、京奈和自動車道(京都―和歌山)、第二阪奈道路(西石切―宝来)などが走っている。

[菊地一郎・加藤光子]

社会・文化

教育文化

学制が敷かれてまもない1874年の統計によれば、奈良県の就学率は52.7%(全国平均32.3%)で、大阪府に次ぐ高率を示し、教育熱の高さは現在に及んでいる。1909年奈良奉行所跡に設立された奈良女子高等師範学校は、東京女子高等師範学校とともに日本における最高の女子教育機関であった。2018年(平成30)現在、奈良女高師を前身とする奈良女子大学と、奈良師範学校・奈良青年師範学校を前身とする奈良教育大学と、先端科学技術分野における大学として、1991年に設立された奈良先端科学技術大学院大学の三つの国立大学がある。天理教の海外布教に従事する者の養成機関であった天理外語学校を前身とする天理大学は、仏教・キリスト教以外の宗教団体が設立した数少ない私立大学で、同大学の図書館、参考館は国の内外の希書、考古学的遺物、民俗品を収蔵し、世界的にも高く評価されている。このほか奈良県立医科大学、奈良県立大学、私立の帝塚山(てづかやま)大学、奈良大学、奈良学園大学、近畿大学(農学部)、畿央大学など、短期大学に私立の3校、国立奈良工業高等専門学校がある。

 文化施設には、明治中期に設立された奈良帝室博物館(現、奈良国立博物館)のほか、飛鳥(あすか)資料館などの特徴のある施設があり、奈良文化財研究所、県立橿原考古学研究所は、史跡発掘に活躍し、多くの成果をあげている。

 文化財には、世界文化遺産に登録された法隆寺地域の仏教建造物群があり、1998年には東大寺など「古都奈良の文化財」が、また2004年には大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)・熊野参詣道小辺路(こへち)が「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界文化遺産に登録されている。

 マスコミ関係では、『奈良新聞』は1946年発刊の『大和タイムス』が1975年に現在名に改めたもの。また1972年には奈良テレビ放送(UTN)が開局した。

[菊地一郎・加藤光子]

生活文化

奈良県では、北部の奈良盆地は「国中(くんなか)」、南部の吉野山地は「山中(さんちゅう)」と呼び習わされてきたが、北部と南部では自然環境や歴史が大きく異なり、生活様式にも相違がある。奈良盆地東部の大和高原も「東山中(ひがしさんちゅう)」とよばれ、盆地とは生活様式を異にする。奈良盆地一帯は、東西南北に直交して走る道路と、その間に点在する溜池や大小の古墳によって彩られている。それらの道路は古代条里制の遺構で、条里制集落は平均60戸前後から構成されており、垣内(かいと)ともよばれる。溜池も条里の中にはまり込むように方形または長方形で、浅く掘られていて「大和の皿池(さらいけ)」とよばれている。盆地の各所にみられる古墳の大きなものや陵墓の周囲には堀が巡らされている。いまでは大和郡山市稗田(ひえだ)地区など十数か所を残すのみであるが、かつては集落の周囲に堀を巡らした環濠(かんごう)集落が奈良盆地内に百数十か所分布していた。溜池も環濠も干魃に苦しむ水田農業の灌漑用に利用され、そこに生まれた水利慣行も含めて生活文化にほかならない。

 奈良盆地には独特の屋根型をもつ民家が分布する。大和棟(むね)の名で知られ、急勾配(こうばい)の屋根の両端を白壁で塗り固め、瓦(かわら)を2、3列並べて葺(ふ)いた高塀(たかへい)造の大棟が特徴的である。さらに、屋根の片側または両側に一段低い瓦葺きの落ち屋根がついている。奈良旧市街地北部の法蓮(ほうれん)町には法蓮造の民家がある。いまは周囲が都市化して孤立的存在になっているが、間口に比して奥行が4、5倍も長く、表から裏まで一列に多くの部屋が続く。都市周辺の農家は間口が広くとれないためである。吉野山地の山村では比高が数百メートルある傾斜面に石垣を築いて細長い形の平地をつくり家を建てる。また、吉野建てとよばれる民家がみられる。傾斜地に建てられたもので、正面から見れば1階であるが、裏から見れば2階、3階になっている。今日では食生活が平均化され、奈良県独特の食物をみいだすことは困難であるが、最近まで「大和の茶粥(ちゃがゆ)」を食する習慣が県内農村に広く残っていた。僧坊の台所から生まれたという奈良漬けも奈良が本場とされている。奈良にうまいものなしといわれるなかで、あゆずしは例外とされる。吉野川でとれるアユを米飯の上に姿が崩れぬようにのせた姿ずしはいまでも名物となっている。

 大和朝廷発祥の地である奈良県には、格式の高い寺社に伝えられてきた祭礼、行事と、民俗的な信仰に基づく神事、芸能があって、それらが四季を通じて展開されている。前者の祭礼、行事には、春日大社の申祭(さるまつり)(春日祭)、東大寺修二会(しゅにえ)(御水取)、聖武(しょうむ)祭、薬師寺の花会式(はなえしき)、興福寺の修二会(薪能(たきぎのう))、春日若宮おん祭などがある。各地の村々に伝承されている土俗的で素朴な農耕予祝儀礼には、高市(たかいち)郡明日香(あすか)村飛鳥坐(あすかにいます)神社のおんだ祭、桜井市素戔嗚(すさのお)神社のお綱祭、御所(ごせ)市茅原(ちはら)のとんど(選択無形民俗文化財)などがある。このほか奈良市上深川(かみふかわ)町(旧都祁(つげ)村)に伝わる語物芸の題目立(だいもくたて)、十津川の大踊(吉野郡十津川村)は重要無形民俗文化財に指定。奈良豆比古(ならずひこ)神社の翁舞(おきなまい)(奈良市)、篠原(しのはら)踊、阪本踊(五條(ごじょう)市大塔(おおとう)町)などは選択無形民俗文化財。

 なお、県下の行事を季節的に追ってみると、盆地特有の厳しい真冬の初詣(はつもう)でを済ませたあと、若草山の山焼き、春日大社の万灯籠(まんとうろう)、各地の寺社の節分会(せつぶんえ)、長谷(はせ)寺のだだ押し、飛鳥坐神社のおんだ祭、北葛城(きたかつらぎ)郡河合(かわい)町広瀬神社の砂かけ祭、桜井市素戔嗚神社のお綱祭と続く。春日大社の申祭、東大寺二月堂の御水取が終わると春の訪れとなり、春爛漫(らんまん)の桜の季節に薬師寺の花会式が開かれる。東大寺の聖武祭、修験道(しゅげんどう)大本山大峰山上(さんじょう)ヶ岳戸開(とあけ)式が新緑の5月上旬に行われ、やがて興福寺南大門跡の野外舞台で能の金春(こんぱる)、金剛、観世(かんぜ)、宝生(ほうしょう)四流家元が参加して競演する。古都の夜に揺らめく薪のあかりの中で幽玄の美がつくりだされる。ついで葛城(かつらぎ)市當麻(たいま)寺のお練り供養がある。「當麻のレンゾ」ともいい、農家では農作業を休む。西大寺の大茶盛(おおちゃもり)、唐招提寺(とうしょうだいじ)の団扇撒(うちわま)きと開山忌が初夏を告げ、続いて古式ゆかしい優雅な奈良市率川(いさがわ)神社の三枝祭(さいくさのまつり)(百合(ゆり)祭)、吉野山蔵王堂の蛙(かわず)飛びが行われる。盆の行事も終わり、10月に入って春日大社の神鹿(しんろく)の角(つの)切りで秋が深まり、師走(しわす)を飾る伝統の春日若宮おん祭で奈良の祭りを締めくくる。

[菊地一郎・加藤光子]

文化財

古代日本の政治、文化の中心地であり、戦災を免れたこともあって、奈良県の文化財は枚挙にいとまがない。国指定文化財の数は京都府、東京都に次ぎ、古代の文化遺産に限れば全国一といえる。藤原宮跡、平城宮跡、山田寺跡、本薬師寺跡、文殊院西古墳、巣山(すやま)古墳、石舞台古墳、高松塚古墳、平城京左京三条二坊宮跡庭園の特別史跡を含め国指定史跡は115に及ぶ。日本最古の木造建造物の法隆寺をはじめ、東大寺、興福寺など国宝建造物は64件、重要文化財は200件を超える。法隆寺百済観音(くだらかんのん)、中宮(ちゅうぐう)寺菩薩半跏(ぼさつはんか)像、薬師寺薬師三尊など飛鳥・白鳳(はくほう)・天平(てんぴょう)美術を代表する彫刻や工芸品、資料などで国の重要文化財(国宝を含む)に指定されているものは1300余に達する(2019)。また正倉院には数多くの宝物が所蔵されている。

[菊地一郎・加藤光子]

伝説

興福寺の放生(ほうじょう)池である猿沢池(さるさわのいけ)の池畔に「衣掛柳(きぬかけやなぎ)」がある。時の帝(みかど)に仕えた采女(うねめ)が寵愛(ちょうあい)の衰えたのを嘆いて池に投身したという。衣掛柳の傍らに采女の霊を祀(まつ)る采女神社がある。春日神社の鹿(しか)を殺した者は石子詰(いしこづめ)の重刑になった。興福寺境内の菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)(「十三鐘」)の前庭に、イチョウとケヤキの宿り木の大樹があるが、その根元に石子詰に処せられた稚子(ちご)三作の墓がある。東大寺二月堂の傍らには、いまは切り株となった「良弁杉(ろうべんすぎ)」がある。良弁僧正(そうじょう)は聖武天皇の尊信を受けた名僧であるが、幼時、ワシにさらわれ、ワシが二月堂の大杉の梢(こずえ)に翼を休めたとき高僧義淵(ぎえん)に助けられた。良弁は奇縁の大杉の下で母子の対面を遂げたと伝えられる。この説話は『今昔(こんじゃく)物語』『扶桑略記(ふそうりゃっき)』などにみえる。奈良には在原業平(ありわらのなりひら)にまつわる伝説が多い。天理市櫟本(いちのもと)町の在原神社は在原寺の跡で、業平の井戸と称するものがある。在原社から河内(かわち)高安(大阪府八尾市)の河内姫のもとへ通ったいわゆる業平道は、いまもたどることができる。橘(たちばな)街道と交差する大和郡山市新庄(しんじょう)町鉾立(ほこたて)にも業平姿見の井戸があり、俳人蕪村(ぶそん)の「虫啼(な)くや河内通ひの小提灯(こちゃうちん)」の句碑が建つ。天理市布留(ふる)の石上(いそのかみ)神宮の宝剣「小狐丸(こぎつねまる)」は大蛇を退治したといい、抜くと小狐の走る姿が現れるという。桜井市の大神(おおみわ)神社は「三輪山(みわやま)」をご神体とする。『古事記』によれば活玉依(いくたまより)姫のもとへ神が蛇になって妻問(つまど)いをしたとある。三輪山近くの「箸墓(はしばか)」の伝説でも、倭迹迹日百襲(やまとととひももそ)姫のもとへ通ってきた男が蛇に変じたという。これらの伝承は、蛇が農耕神として尊崇されていたことを物語る。その信仰が反映した昔話に「蛇聟入(へびむこい)り」がある。「久米仙人(くめせんにん)」の久米寺は橿原市久米町にある。寺の近くの芋洗(いもあらい)川で洗濯する女を見て仙人が神通力を失ったといい、小川のほとりに芋洗い地蔵が祀られる。久米仙人のことは『今昔物語』『発心(ほっしん)集』『久米寺流記(るき)』などにみえている。吉野郡十津川村と野迫川(のせがわ)村の境にある伯母子(おばこ)峠に「一本足の鬼」がいて旅人を殺したので、丹誠上人(たんせいしょうにん)が経堂塚をつくって鬼を封じた。それから毎年12月20日は「果ての二十日」といって厄日になったという。吉野郡吉野町には静御前(しずかごぜん)や源義経(よしつね)にゆかりの伝説が残っている。西生寺境内の「静ヶ井戸」は静が投身した所といわれている。『平家物語』には平維盛(これもり)は屋島(やしま)から高野山(こうやさん)に逃れたあと那智(なち)の沖で入水(じゅすい)したとあるが、吉野郡下市(しもいち)町に「維盛塚」があり、この地に余生を送ったと伝えられる。

[武田静澄]

『『大和の民俗』(1960・大和タイムス社)』『『奈良県政七十年史』(1962・奈良県)』『永島福太郎著『奈良県の歴史』(1966・山川出版社)』『『奈良県百年』(1968・毎日新聞社)』『岩井宏実・花岡大学著『奈良の伝説』(1976・角川書店)』『『郷土史事典 奈良県』(1981・昌平社)』『『日本歴史地名大系30 奈良県の地名』(1981・平凡社)』『『日本地名大辞典 奈良県』(1990・角川書店)』『『奈良統計年鑑』(1997・奈良県統計協会)』『『奈良県勢要覧』(1997・奈良県統計協会)』『平山輝男他編『日本のことばシリーズ29 奈良県のことば』(2003・明治書院)』『直木孝次郎著『奈良』(岩波新書)』


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