太宰春台(読み)だざいしゅんだい

精選版 日本国語大辞典 「太宰春台」の意味・読み・例文・類語

だざい‐しゅんだい【太宰春台】

江戸中期の儒者。名は純。字(あざな)は徳夫。通称彌右衛門。春台は号。信濃国(長野県)飯田の人。初め中野撝謙に就き朱子学を学び、のち荻生徂徠について古文辞学を学ぶ。特に経世済民論を継承し、藩政改革の現実的対応策を提供した。また、唐音の知識に基づき、漢字音と字形を正すことに意を用いた。古籍の校刊にも見識を有し、校刊した「古文孝経」は清の知不足斎叢書に翻刻された。著「聖学問答」「経済録」「倭読要領」「紫芝園稿」など。延宝八~延享四年(一六八〇‐一七四七

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デジタル大辞泉 「太宰春台」の意味・読み・例文・類語

だざい‐しゅんだい【太宰春台】

[1680~1747]江戸中期の儒学者。信濃の人。名は純。あざなは徳夫。別号、紫芝園。荻生徂徠おぎゅうそらいに学び、経世学の分野で徂徠学を発展させた。著「聖学問答」「経済録」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「太宰春台」の意味・わかりやすい解説

太宰春台
だざいしゅんだい
(1680―1747)

江戸中期の儒者で荻生徂徠(おぎゅうそらい)の弟子。名は純(じゅん)、字(あざな)は徳夫、通称を弥右衛門といい、春台と号した。またその邸宅を紫芝園(ししえん)と号した。信州飯田(いいだ)(長野県飯田市)に生まれたが、9歳のとき江戸に移住。15歳のとき但馬(たじま)(兵庫県)の出石(いずし)藩に仕えたが、数年にして致仕し、京都、大坂、丹波(たんば)を転々とすること10年ののち、1711年(正徳1)ふたたび江戸に戻り、荻生徂徠と対面する機会を得た。これを機に、それまで疑いを抱いた朱子学を捨て、徂徠の門下となる。同年下総(しもうさ)国生実(おいみ)藩(千葉市)に出仕したが、今度も病を理由に5年後に致仕し、以後は官途につかなかった。延享(えんきょう)4年5月晦日(みそか)に没し、門人たちによって江戸・谷中(やなか)天眼寺(てんげんじ)に葬られた。

 服部南郭(はっとりなんかく)が徂徠学の私的側面を継承し詩文派の中心となったのに対して、春台は徂徠学の公的側面を継承し経世論に秀でた。彼は、徂徠の自然経済機構に立脚した経世論を原則論としては認めつつも、現実が商品経済原理によって動いている以上、これに即応した藩専売制を有効な現実策として、富国強兵を積極的に図るべきだと説き、その理論的裏づけとして法家思想にも同調を示した。これらの春台の経世思想は、海保青陵(かいほせいりょう)に発展的に継承されている。倫理思想の面においては、宋学(そうがく)の心法論を否定し、心の自己統御能力をいっさい認めず、外的規範としての「礼」を重視し、これによって心を醇化(じゅんか)していくべきことを主張した。著書に『経済録』『弁道書』(1735)『聖学問答』(1736)『論語古訓』(1739)『論語古訓外伝』(1745)『老子特解』(1747)『紫芝園稿』(1752)など多数がある。

[小島康敬 2016年6月20日]

『頼惟勤校注『日本思想大系37 徂徠学派』(1972・岩波書店)』


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朝日日本歴史人物事典 「太宰春台」の解説

太宰春台

没年:延享4.5.30(1747.7.7)
生年:延宝8.9.14(1680.11.5)
江戸中期の儒学者。名は純,字は徳夫,通称は弥右衛門,春台は号。その邸宅を紫芝園と呼んだ。信州飯田(長野県飯田市)に藩士太宰言辰の次男として生まれる。9歳のときに父が失職し,一家が江戸に移住。15歳で但馬出石藩(兵庫県)に仕えたが,数年にして許可を得ないまま致仕した結果10年間の他藩仕官禁止令が下る。この時期に京坂を転々として遊学生活を送る。正徳1(1711)年32歳,江戸に戻り旧友安藤東野の仲介で荻生徂徠と対面する機会を得て,朱子学を捨て徂徠に師事する。同年下総生実藩(千葉県)に仕えたが,5年後に病を理由に致仕,以後は官途につかず,私塾紫芝園を経営し松崎観海らの弟子を育てた。 服部南郭が徂徠学の私的側面を継承し詩文派の中心となったのに対して,春台は徂徠学の公的側面を継承し経世論に秀でた。また唐話(中国語会話)にも長じた。その著『経済録』は江戸の政治,経済思想を知る上で欠かせない。彼は,徂徠の農業を中心とした自給自足的な自然経済機構に立脚した経世論を原則論としては認めながらも,商品経済原理によって動いている現実を直視して,これに即応した藩専売制を採用し富国強兵を積極的に図るべきだと説き,その理論的裏づけとして法家思想に同調した。この考えは海保青陵に発展的に継承される。倫理思想の面においては,朱子学の心の修養をめざす心法論を否定し,外的規範としての「礼」を極度に重視した。彼の異常なまでの「礼」へのこだわりは,儒学を単に学問の次元に留まらず習俗の次元において受容しようとすることの表れである。死後,門人たちは遺言に従って谷中天眼寺に儒礼によって手厚く葬った。<著作>『経済録』(日本経済大典9巻),「聖学問答」(日本思想史大系37巻)<参考文献>小島康敬『「春台先生紫芝園」管見』(近世儒家文集集成6巻),同『徂徠学と反徂徠』

(小島康敬)

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百科事典マイペディア 「太宰春台」の意味・わかりやすい解説

太宰春台【だざいしゅんだい】

江戸中期の儒学者。名は純,字は徳夫(とくふ)。信濃の人。初め但馬(たじま)出石(いずし)藩主松平忠徳に仕え,のち下総(しもうさ)生実(おゆみ)藩に仕えたが,いずれも数年で致仕した。この間朱子学を学び,32歳で荻生徂徠に入門,経学(けいがく)にすぐれ詩文の服部南郭と併び称された。兼ねて天文暦算・音韻・医学に通じ,国典・和歌を学び,経済に意を留めた。師説を継承しながらもしばしば徂徠を批判した。著書《聖学問答》《産語》《弁道書》《紫芝園稿》など。
→関連項目【けん】園社本居宣長山脇東洋湯浅常山

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改訂新版 世界大百科事典 「太宰春台」の意味・わかりやすい解説

太宰春台 (だざいしゅんだい)
生没年:1680-1747(延宝8-延享4)

江戸中期の儒学者。名は純,字は徳夫,通称は弥右衛門,春台は号,別号を紫芝園。信濃国伊那郡飯田に生まれる。父言辰(のぶとき)は飯田藩士だったが,のち浪人。春台は15歳のとき但馬国出石藩に,32歳のとき下総国生実藩に出仕したが,いずれも数年で致仕した。17歳で中野撝謙(ぎけん)を師として朱子学を学び,32歳で同じ撝謙門下だった安藤東野のすすめで荻生徂徠に入門,古文辞学に転向した。経学にすぐれて,詩文の服部南郭と併称された。師説を継承しながらも,しばしば徂徠を批判した。易を重んじて,天下国家,人身,道徳の原理を陰陽によって説明しようとした点などに,徂徠に対する独自性が認められる。また春台は,将軍を日本国王とし,鎌倉,室町,江戸の3時代はそれぞれ国家が異なると主張した。主著として《詩書古伝》《周易反正》《論語古訓》《経済録》《聖学問答》《春台文集》などがある。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「太宰春台」の意味・わかりやすい解説

太宰春台
だざいしゅんだい

[生]延宝8(1680).9.14. 信濃,飯田
[没]延享4(1747).5.30. 江戸
江戸時代中期の儒学者。名は純,字は徳夫,幼名は千之助,小字は弥右衛門,号は春台,紫芝園。 15歳で出石侯松平忠徳に仕官。母の病を理由に強いて致仕,藩侯の怒りに触れ 10年の禁錮に処せられた。その間五畿内を放浪,正徳1 (1711) 年荻生徂徠に入門,やがて詩文の服部南郭と並び経義の春台として 蘐園 (→蘐園学派 ) の両雄と称された。その業績は経世論だけでなく『論語古訓』などで徂徠学の訓詁的側面を発展させるとともに,『弁道書』などでは徂徠が具体的に立入らなかった宗教論に徂徠学を適用し神道批判を展開,国学界に波紋を投げた。著書は『聖学問答』 (36) ,『経済録』『詩論』『独語』『紫芝園漫筆』など 51種に及んだ。なかでも『重刻古文孝経』は全国に普及し版を重ね,中国の清朝でも翻刻された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「太宰春台」の解説

太宰春台
だざいしゅんだい

1680.9.14~1747.5.30

江戸中期の儒学者。通称弥右衛門,名は純,字は徳夫,春台は号。信濃国飯田生れ。江戸で中野撝謙(きけん)に入門。2度出仕したが致仕し,牢人生活を送る。一時京坂間を転々とし,伊藤仁斎にも面会した。1711年(正徳元)荻生徂徠に入門。蘐園(けんえん)諸子のなかで最も経学・経世論にすぐれ,道の外面化の徹底,人間性の否定面の強調など師説を擁護しながら独自の説を出した。「論語古訓」「論語古訓外伝」は徂徠説の批判を含み,朝鮮の丁茶山にも影響。「経済録」は藩政改革に示唆を与えた。海保青陵・西周(あまね)など後世思想家に与えた影響も大きい。プライドが高く,はっきりした性格で煙たがられたが,人情に厚い一面もあった。著書はほかに「聖学問答」「六経略説」「紫芝園稿」「独語」。弟子に松崎観海・湯浅常山ら。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「太宰春台」の解説

太宰春台 だざい-しゅんだい

1680-1747 江戸時代前期-中期の儒者。
延宝8年9月14日生まれ。15歳で武蔵(むさし)岩槻(いわつき)藩(埼玉県)藩主松平忠周(ただちか)につかえたが,21歳のときしりぞく。京坂に遊学,江戸で荻生徂徠(おぎゅう-そらい)にまなぶ。詩文の服部南郭(なんかく)に対して経世論の春台と称され徂徠門下の双璧とうたわれた。延享4年5月30日死去。68歳。信濃(しなの)(長野県)出身。名は純。字(あざな)は徳夫。通称は弥右衛門。別号に紫芝園(ししえん)。著作に「経済録」「論語古訓」「聖学問答」など。
【格言など】位高き人に,ものの上手はなきものにて,上手はいつも賤しき者に出来(いでく)るなり(「独語」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「太宰春台」の解説

太宰春台
だざいしゅんだい

1680〜1747
江戸中期の儒学者
信濃(長野県)飯田の人。荻生徂徠 (おぎゆうそらい) の門人安藤東野と交わり,蘐園 (けんえん) 学派となった。重農主義的な武士本位の経済政策を説き,詩文より経済学の面で徂徠の説を継承・発展させた。主著に『経済録』『産語』など。

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367日誕生日大事典 「太宰春台」の解説

太宰春台 (だざいしゅんだい)

生年月日:1680年9月14日
江戸時代中期の儒学者
1747年没

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世界大百科事典(旧版)内の太宰春台の言及

【赤穂浪士】より

… このように二つの立場がある以上,赤穂浪士に対する見方が分かれるのは自然である。この一方の立場から徹底的な批判を加えたのが佐藤直方であり,赤穂浪士は幕府を相手とすべきであるのに,誤って吉良を討ったとの観点から批判したのが太宰春台であった。そしてこの両者の批判をめぐって賛否の議論が,宝永から天保まで130年にもわたって続けられた。…

【経済録】より

…江戸中期の儒者太宰春台が経済すなわち経世済民という広義の政治・経済・社会・制度・法令などについて論じた書で,広く読まれた。1729年(享保14)成る。…

【経世済民論】より

…封建社会の爛熟(らんじゆく)期・末期の現実を客観的・実証的に観察し,具体的・制度的な改革案をいろいろな思想的立場からうちだそうとした。太宰春台が《経済録》に〈凡(およそ)天下国家ヲ治ルヲ経済ト云。世ヲ経シテ民ヲ済(すく)フト云義也〉と定義しているが,もっとも的確な表現である。…

※「太宰春台」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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