天神山城跡(読み)てんじんやまじようあと

日本歴史地名大系 「天神山城跡」の解説

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]鳥取市湖山町南三丁目・布勢

湖山こやま池東岸の独立丘陵天神山(標高二五メートル、南北約一〇〇メートル・東西約五〇メートル)とその周辺の平坦地を含む城跡。布施ふせ城ともよばれた。室町時代に因幡守護山名氏が守護所を置いた地で、南方の(宇山)周辺には町屋・侍屋敷・寺院群などがあったという(「因幡民談記」など)。東に開いた馬蹄形を呈する卯山の中央に山王社(現日吉神社)があり、正暦二年(九九一)に一条天皇御願寺として創建されたと伝える仙林せんりん寺もあったから(永正七年六月日「三重塔再興願文写」華頂要略付録)門前町として町屋が形成された可能性もある。また当地は湖山池と湖山川を通じて千代川河口左岸の賀露かろ湊と連絡しており、水上交通を媒介とする地方経済都市として発達したと考えられる。

寛文大図(倉田八幡宮蔵)により近世初期の様子をみると、当城は西を湖山池、北を東流する湖山川で画され、東と南にそれぞれ南北・東西に直線状をなす水濠が設けられ、池・川の水が導入されていた。東側の濠から二本の水路が天神山方向に延びている。東の濠が湖山川と合する地点のやや東からも南進する水濠があり、卯山北東で南東に方向を転じ緩やかな曲線を描いて再び南進、同山南東でほぼ直角に西に向きを変え、同山南西で北西に曲折して湖山池に通じている。外濠から卯山に向かっても水路が延びており、「舟入」と注記されている。卯山北東に外濠に架かる「九相の橋」が描かれ、真東に直進して徳吉とくよし村に至る天馬てんば畷の起点となっている。現在の小字天馬付近にあたり、天馬口とよばれた。山王社からは東に参道が延び、濠に架けられた橋をそのまま直進して甲山かぶとやま村に至る道がある。卯山南東端の正木ヵ鼻まさきヵはなの南にも橋が描かれてここは正木口とよばれた。南の大間おおま谷を通って野坂のさか川流域に通ずる道があり、同谷付近に「六地蔵かわら」の注記がある。この付近では中世墓地が検出されている。地籍図などで外濠を復元すると総延長約二・八キロとなる。守護所は卯山周辺の町屋と一体のもので、外濠は境界線であると同時に防衛の前線でもあった。

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]佐伯町田土・岩戸

吉井川中流東岸の標高四〇九・二メートルの天神山にある。戦国期に浦上宗景居城。宗景の父村宗は備前東部と播磨西部を領有、宗景は兄政宗とともに播磨室津むろつ(現兵庫県揖保郡御津町)に居城した。のち兄弟不和のため、宗景は「天神山記」によれば天文二年(一五三三)四月に室津城を出、家臣の日笠・大田原に命じ普請中であった当城へ入城したという。そのとき家臣らは近郷の民家を崩し取り天神山へ持ち運び、よいものはそのまま屋敷にしたという。

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]魚津市小川寺

北を布施ふせ川、南を片貝かたかい川によって挟まれた台地上にそびえる天神山(標高一六三・一メートル、比高八〇メートル)の山上に築かれた山城。山上からは魚津城のあった魚津市街や日本海を見渡すことができる。「三州旧蹟志」によると上杉謙信陣取の跡と伝えるが、それ以前に椎名氏居城の松倉まつくら城の支城であった可能性もある。元亀三年(一五七二)加賀の一向一揆が礪波となみ郡より東進した際、越後上杉方の前線拠点であった火宮ひのみや(現小杉町)からの報告が新庄しんじよう(現富山市)、続いて天神山城を経由して越後春日山かすがやま(現新潟県上越市)へ送られており(五月二三日「火宮城将連署状」、五月二四日「鰺坂長実書状」ともに上杉家文書)、天神山城は上杉方の「つなぎの城」となっていた。

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]吉田町竹原

可愛えの川と竹原たけはらの沖積地を北西に見下ろす突出した尾根上にあり、北・西・南の三方は急傾斜で、東は長尾ながお神社の境内地となる。空堀底形の広大な郭で画しているため城域は独立した丘陵状になっている。頂上に径約三〇メートルの本丸を置き、外に輪状連郭式の郭を配置する。井上河内守元兼の居城で、井上党の本拠でもある。「高田郡社寺古城山由来記」に「高さ一町半、横三十六間、平壇八をのこす」とある。

井上氏は信濃井上いのうえ(現長野県須坂市)に住し井上氏を称した。安芸国に下向したのは摂津守光純のときで、明徳の乱の時、軍功によって「備後国神石郡入江庄・安芸国山県郡山県庄千五百貫」の地を給され、壬生高峰みぶたかみね(跡地は現山県郡千代田町)にいたと伝える。

天神山城跡
てんじんさんじようあと

[現在地名]岩室村石瀬 城平、岩室 十三車

標高二五〇メートルの天神山にある山城。南東から北西に続く尾根上に主郭や小曲輪が並び、空壕により区切られる。北側斜面には二段の腰曲輪、さらにその下方に溜池をもつ広い郭があり、南東辺には土塁・空壕跡、その外には自然石の石垣が残る。北東のまつヶ岳(一七三メートル)にも小曲輪・空壕跡が認められ、支城の一つとも考えられている。中世には北陸道と石瀬いしぜ峠越の間道を押える要地であった。築城の時期は不明で、南北朝期以降刈羽郡小国おぐに(現小国町)出身の小国氏の本城となったと伝えられる。

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]東条町天神

美嚢みのう吉川よかわ町からの街道正面にある比高五〇メートルの独立丘陵にある中世の山城跡。城主は三木合戦にみえる久米五郎と伝える(加東郡誌)。久米氏は久米くめ(現社町)の土豪で、久米新兵衛尉は別所重棟の奉行人である(慶長一〇年一一月二二日「鴨川村百姓中書上」清水寺文書)。吉田本庄には地名を名乗る東条氏がいた。文明一四年(一四八二)赤松政則からその作刀を拝領しており(「赤松政則作刀銘」姫路市史)、天文二二年(一五五三)と思われる二月二三日の長若教盛等連署書状(清水寺文書)にも東条氏がみえるが、それ以降の動静はわからない。

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]長瀞町岩田

岩田いわたの南部、井戸いど境の荒川右岸に迫る標高二二六メートルの天神山山頂にある。猪俣党の武士、藤田政行から一五代目、藤田重利(のち康邦)の築城と伝える。重利は北条氏邦を娘婿として当城に入れたが、氏邦はのちに鉢形はちがた(現寄居町)を修築し、永禄三年(一五六〇)同城に移ったという(「風土記稿」など)

天神山城跡
てんじんやまじようあと

[現在地名]加古川市志方町東中・志方町西飯坂

志方しかた城の北、約一キロに所在する中世の山城跡。赤羽あかばね城ともよぶ。天神山(一二七メートル)山頂に位置し山麓からの比高は九〇メートル。赤松氏範が築城し、その後櫛橋氏が入ったとされる(赤松家播備作城記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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