天海
てんかい
(1536―1643)
江戸前期の天台宗の僧。慈眼(じげん)大師と号する。陸奥(むつ)国(福島県)会津高田(会津美里(あいづみさと)町)に生まれる。姓は蘆名(あしな)氏。生年には各説があるが、辻善之助(つじぜんのすけ)は『日本仏教史』で、日光東照宮薬師堂法華(ほっけ)万部供養の記録(『孝亮宿禰日次記』)の、1632年(寛永9)97歳説をよりどころとしており、1536年(天文5)説が有力。天海は会津高田稲荷堂(いなりどう)別当(べっとう)の舜海(しゅんかい)に師事し、のち関東から比叡山(ひえいざん)へ遊学して天台宗の教義を修めた。のち故郷の稲荷堂別当となり、1577年(天正5)上野(こうずけ)国(群馬県)世良田(せらだ)長楽寺において春豪(しゅんごう)から天台密教葉上(ようじょう)流を受け、1582年武蔵(むさし)(埼玉県)川越(かわごえ)喜多院(きたいん)に入寺。1604年(慶長9)下野(しもつけ)国(栃木県)宗光寺に移る。1607年比叡山東塔南光坊住持となり、天台密教法曼(ほうまん)流を伝え、宮中講師、広学竪義探題(りゅうぎたんだい)などを歴任。1612年ごろ徳川家康(とくがわいえやす)と交わりをもち、駿府(すんぷ)(静岡市)に随従して、論議・法要などを営んだ。大坂夏の陣で勝った家康に天台の法門を伝え、山王一実神道(さんのういちじつしんとう)を伝え、それによって家康没後、東照大権現(だいごんげん)の神号を呈し、日光山に奉安したといわれる。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)を庇護(ひご)し、1622年(元和8)江戸府内上野の地を寄せられ、ここに寛永寺を創した。3代家光(いえみつ)もまた天海に帰依(きえ)したという。天海は弟子公海(1607―1695)と天海版一切経(いっさいきょう)を開板したり、兵火で散逸していた天台宗の典籍を収集整理し天海蔵を組織した。そのほか、もっぱら徳川家のために講経祈祷(きとう)を重ね、また、黒衣宰相と称せられるような政務への影響力もあった。寛永(かんえい)20年10月2日寂。108歳であった。
[木内曉央 2017年9月19日]
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天海
てんかい
[生]天文5(1536).会津
[没]寛永20(1643)
江戸時代前期の天台宗の僧。諡号は慈眼 (じげん) 大師。 11歳のとき出家し,比叡山の実全について天台学を,園城寺の尊実には倶舎論を,南都では法相・三論を,大寧禅徳からは禅学をそれぞれ学んだ。のちに川越の喜多院に住んだ。徳川家康の信任厚く,比叡山の南光坊の主となったが,再び喜多院住職となった。慶長 14 (1609) 年比叡山法華大会の修法に際しては選ばれて探題となった。後陽成上皇から僧正を賜わった。元和1 (15) 年の正親町上皇の御忌には導師となり大僧正に任じられた。寛永1 (24) 年に上野の寛永寺の開基となる。秀忠,家光の政治顧問格であった。 11年を費やし本活字によって『一切経』を開版し,天海版と称されている。
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天海 てんかい
1536-1643 戦国-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)5年1月1日生まれ。比叡(ひえい)山でまなんで同山復興につくし,天台宗中興の祖とされる。徳川家康,秀忠,家光の幕政に参画。武蔵(むさし)川越(埼玉県)喜多院,日光輪王寺を再興。寛永2年寛永寺をひらく。日本初の版本による大蔵経を計画,死後刊行された。寛永20年10月2日死去。108歳。陸奥(むつ)会津(あいづ)(福島県)出身。号は南光坊。諡号(しごう)は慈眼(じげん)大師。法名は別に随風。
【格言など】天下を治めるには性急さを避け,愛情をもって人にのぞまれよ(「甲子夜話」)
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てんかい【天海】
安土桃山~江戸初期の天台宗の僧。徳川三代の政治顧問。号は南光坊。勅諡は
慈眼大師。会津の人。諸宗の学問を修め、川越の喜多院に住したが、徳川家康の帰依を受けて政務に携わり、のち比叡山の南光坊に移って宮中にも法を説いた。慶長一八年(
一六一三)日光山を与えられ、家康没後その
遺骸をここに
改葬し、輪王寺を中興した。寛永二年(
一六二五)、上野の東叡山寛永寺を開き、同一四年木活字の「大蔵経(天海版)」を刊行した。天文五頃~寛永二〇年(
一五三六頃‐一六四三)
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天海
てんかい
1536?〜1643
安土桃山〜江戸時代前期の天台宗の僧
陸奥(福島県)会津の人。延暦寺・園城寺その他で修行。のち徳川家康・秀忠・家光3代の信任を得て政治にも関与。日光山を与えられ,家康を久能山から改葬して東照宮を造営した。また江戸の上野忍ケ岡に東叡山寛永寺を開いた。
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デジタル大辞泉
「天海」の意味・読み・例文・類語
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天海 (てんかい)
生年月日:1536年1月1日
安土桃山時代;江戸時代前期の天台宗の僧
1643年没
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てんかい【天海】
1536‐1643(天文5‐寛永20)
戦国期~江戸初期の天台宗の僧。会津(福島県)の人。通称南光坊天海。江戸幕府創始期に以心崇伝と並んで,幕府の宗教行政の中心人物であった。徳川家康・秀忠・家光の3人の将軍につかえ,とくに家康の懐刀といわれた。11歳で出家し,はじめ随風と称した。14歳で比叡山に登り,その後三井寺,さらに南都の諸寺を遊学。1571年(元亀2)延暦寺が織田信長の焼打ちにあうと,山門の衆徒をひきつれ,甲斐の武田信玄のもとに身を寄せた。
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普及版 字通
「天海」の読み・字形・画数・意味
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世界大百科事典内の天海の言及
【寛永寺】より
…院号は円頓院。1625年(寛永2)天海が幕府の命により創建。比叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対して,寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して,江戸城鎮護と国家安穏長久を祈願した。…
【権現】より
…室町期に興った吉田神道は神本仏迹説をとき,神道を仏教よりすぐれたものとしたたてまえ上,権現より明神号を尊び,地方の神社に対し大明神授与を行い,豊臣秀吉が死後まつられるにあたっては吉田神道に従って豊国大明神の号が贈られた。しかるに徳川家康の場合,明神号をもって吉田の唯一宗源神道による祭祀を主張した崇伝に対し,江戸上野の寛永寺天海は家康が生存中天台の山王一実神道を授けられ死後この神道の流儀でまつられるよう遺言したと称し,また明神号は豊国社没落の不吉の例ありとして権現号をもって山王一実神道の祭りを強引に推進し,ついに1617年(元和3)家康は東照大権現の神号に決定された。1868年(明治1)神仏分離が政府から通達されて全国各地の社の権現号は廃止された。…
【山王神道】より
…以上が延暦寺を中心に発達した山王神道の概略であるが,この山王神道は智証大師円珍とその門流の僧徒の手によって発展充実し《山家要略記》《三宝住持集》などの伝書が作成された。 山王一実神道とは天台宗の〈三諦即一〉または〈円頓一実戒〉にもとづいて形成された神道思想で,〈山王〉と〈一実〉の語を結合させ江戸時代の初期南光坊天海(慈眼大師)によって提唱された。比叡山延暦寺が平安京鎮護の国家寺院として建立されたのに対し,天海は徳川幕府鎮護の寛永寺を江戸に建立し,幕府の開祖徳川家康の廟所日光廟をも天台神道によって建立,関東天台宗の基礎を固めた。…
【日光東照宮】より
…1616年(元和2)4月17日家康が駿府城で没すると,遺言に基づき,幕府はその夜神式をもって駿河久能山に葬り,墓前に社殿を建てた。遺命により天海の主導で,一周忌を期し下野国都賀郡日光山に改葬することとなり,翌17年仏岩山南に本社,拝殿,本地堂以下が完成,神霊をうつして4月正遷宮の祭礼が行われ,朝廷から東照大権現の神号の宣命と正一位の神階を受けた。なお廟所奥院の木造宝塔は22年竣工した。…
【日吉大社】より
…1571年(元亀2)織田信長の兵火によって山上,山下の諸院とともに日吉社も灰燼となったが,豊臣秀吉の援助で復興が開始され,83年(天正11)から1601年(慶長6)の間に上七社の造営がほぼ完成した。江戸幕府に信望の厚かった天海は社殿や堂舎の造営を継続し,日吉社の南に東照宮を建てるなど,幕府の保護の基礎をかためた。儀式や教義も天海によって整備された。…
【輪王寺宮門跡】より
…日光山を総括,東叡山寛永寺を管領,比叡山の天台座主を歴任し,比叡山諸門跡の首班に列した法親王。1613年(慶長18)天海が日光山貫主に補せられ,17年(元和3)徳川家康の遺骸を日光山に改葬した。江戸幕府は24年(寛永1)上野忍ヶ岡に寛永寺を建立し天海を住職とした。…
※「天海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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