天壇(読み)てんだん

精選版 日本国語大辞典 「天壇」の意味・読み・例文・類語

てん‐だん【天壇】

〘名〙
① 天をまつる壇。神仏をまつる壇。
※思出の記(1900‐01)〈徳富蘆花〉六「獲物を提げて天壇に燔祭(ばんさい)を献げたいもの」 〔宋書‐礼志・三〕
② 昔、中国で、皇帝が帝城の南郊で冬至の日に天帝をまつるために設けた祭壇。天の円にかたどった四成(のち三成)の白大理石石造円壇で、石階石欄を備える。特に、明の嘉靖帝が一五三〇年北京の正陽門外に築いた壇をさす。円丘郊祀(こうし)。〔清会典工部

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デジタル大辞泉 「天壇」の意味・読み・例文・類語

てん‐だん【天壇】

中国で、天子冬至の日に天帝を祭るために、国都の南郊に設けた祭壇。北京に現存。白大理石造りの円壇で、石階石欄を備えており、1998年「天壇:北京の皇帝の廟壇」の名称で世界遺産文化遺産)に登録された。→地壇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天壇」の意味・わかりやすい解説

天壇
てんだん

中国で明(みん)代以来、天子が祭天儀礼を行う円形の壇の称、またその付属施設を含む壇域全体の総称。古来儒家の礼説では、天命思想によって天子のみが天を祭ることができ、また陰陽思想に基づいて祭天壇は国都の南郊に置かれる円丘であった。このような南郊壇は前漢末の紀元前32年に置かれたのが最初であるが、南郊に円壇がつくられたのが確認できるのは、後漢(ごかん)初の紀元後26年のことである。以後、南郊あるいは円丘の祭天制度は種々の改変を受けつつ、魏晋(ぎしん)南北朝から隋(ずい)、唐を経て、宋(そう)、金、元、明、清(しん)と継承された。円丘の形は扁平な円柱形の壇(成)を重ねたもので、梁(りょう)・陳(ちん)では二成、隋・唐・宋では四成、元・明・清では三成であった。明では洪武(こうぶ)帝が南京(ナンキン)で南郊に大祀殿(だいしでん)を建てて天地を合祭し、永楽帝の北京(ペキン)遷都後も、大祀殿での祭祀が北京で行われた。嘉靖(かせい)帝は1530年に天地をそれぞれ独立に祭ることとして南郊に円丘を築き、1534年円丘の名称を改めて天壇を公称とし、1545年大祀殿を壊して大享(たいきょう)殿を建てた。清朝は明代の天壇を用い、1749年に拡張して、総高5.18メートル、直径上成23.6メートル、中成39.4メートル、下成55.2メートルの、現存する大理石造の円丘を築いた。1751年大享殿は祈年殿と改称されたが、1889年落雷で焼失し、現在の祈年殿はその直後再建されたものである。北京(ペキン)に残る現在の天壇は壇域2.7平方キロメートル余、外周の牆垣(しょうえん)の総延長6.5キロメートル余に及び、明朝以来の皇穹宇(こうきゅうう)、皇乾(こうけん)殿、斎宮(さいきゅう)などの付属施設を含み、公園として市民に親しまれている。1998年には世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[金子修一]

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改訂新版 世界大百科事典 「天壇」の意味・わかりやすい解説

天壇 (てんだん)
tiān tán

中国の皇帝が天をまつる儀礼を行う壇。漢代以来,都城の南郊に設けられるのを原則とし,圜丘(えんきゆう),南郊とも称した。北京に現存する天壇は,明・清両朝皇帝が祭天の儀を行ったところで,明の1420年(永楽18)に当時の南郊に天地合祀の大祀殿が創建され,1530年(嘉靖9),四郊分祀の制に改めて圜丘を新築,38年大享殿を新築した。さらに清の乾隆年間(1736-95)に拡張・整備が行われ,1751年(乾隆16)に祈年殿と改められ,1889年(光緒15)に焼失はしたが旧状に従って再建されており,現状はほぼ乾隆当時の状況を伝えている。祈年殿,皇穹宇(こうきゆうう),圜丘が南北軸線上に並び,その間を塼(せん)積みの大道で結ぶ。圜丘は皇帝が冬至に天をまつる,白石積み,3成の露壇で,四周を方垣で囲み〈天円地方〉をかたどり,壇の直径,敷石や欄干の数は陰陽説の陽(奇)数で統一されている。祈年殿は新春に五穀豊饒を祈願する建物で,各層の柱本数はそれぞれ四季,12月,12時辰,二十四節気を象徴したものである。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天壇」の意味・わかりやすい解説

天壇
てんだん
tian-tan; t`ien-t`an

中国の皇帝が天をまつる儀式を行なう壇とその付属設備のこと。首都の南郊に設けられたもので,南郊や圜丘 (えんきゅう) ともいわれたが,明の嘉靖帝による改築 (1534) 以来天壇と称する。清朝の天壇は明のものを踏襲し,乾隆 14 (1749) 年改築したもので,ペキン (北京) の正陽門外に周囲 6kmに及ぶ広大な地域を占めていた。 1913年中華民国憲法草案の審議が天壇祈年殿で行なわれたことがあり,天壇憲法草案と呼ばれた。 1998年世界遺産の文化遺産に登録。

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世界遺産情報 「天壇」の解説

天壇

天壇(てんだん)は中国の北京市崇文区にある史跡で、明・清の皇帝が天に対して毎年豊作を祈った宗教的な場所です。1420年、明の永楽帝が建立したとされています。中国観光パンフレットの表紙にも使われることの多い天壇は、南北1.5km、東西1km、総面積約270万平方kmを誇る公園で、メインである園丘壇、皇穹宇、祈年殿の3ヵ所を通り貫けるだけでも1時間はかかります。中国皇帝の権力の偉大さを体感できる観光スポットです。 1998年よりユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

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百科事典マイペディア 「天壇」の意味・わかりやすい解説

天壇【てんだん】

中国で古くから帝王が天帝をまつるために用いた祭壇。圜丘(えんきゅう)とも。北京外城にある白大理石,直径55mの3層の壇上に祈年殿を備えたものが,特に有名。明代の1420年に初めて建設され,現在のものは1890年の再建であるが,1998年世界文化遺産に登録された。
→関連項目北京

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普及版 字通 「天壇」の読み・字形・画数・意味

【天壇】てんだん

祭天の台。

字通「天」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の天壇の言及

【郊祭】より

…歴朝,冬至の日に天を南郊にまつり,夏至に地を北郊にまつるというのが一般的であったが,南郊で天地を合祭することもあった。現在,北京にある天壇と地壇とは,その明・清の遺跡である。前者が円丘,後者が方丘であるのは,天円方地の思想を体現したものである。…

【辛亥革命】より

…政党の乱立,新聞の族生はその社会的現象であり,辮髪の剪截,纏足(てんそく)の解放はその個人的表現だった。武昌蜂起1周年に際し,北京では天壇が一般開放されたが,これほど帝国から民国への移行を実感させることはなかったろう。孫文は袁世凱と協定を行い,政治を袁世凱にまかせて,自分は10万kmの大鉄道網の建設に当たることにしたほどであった。…

【清代美術】より

…紫禁城は政治儀礼を目的とした外朝と皇帝個人の居住地域,内廷との総計22万坪から成る宮殿である。また内城南郊の天壇は三重円形の石壇と三重屋根の祈年殿とを中心とする礼制の遺構で,天を祭り豊作を祈る壮麗な建築である。宗教建築としてはこのほかにラマ教,イスラム教の建築に発展がみられ,チベット,内モンゴルに遺構が伝えられる。…

【壇】より

… 祀天祭地をはじめ,古代中国の祭祀制度には自然信仰の面がつよく,歴代王朝が建設した壇もその内容を反映している。実際の建築としては,祭祀,跪拝を行う本来のかたちの露壇と,空間構成をもつ建築群からなる祠廟という両種の形態をとる場合があるが,一般にこれらを併せて壇廟と総称することが多く,天壇地壇,日壇,月壇および社稷(しやしよく)壇,水・火・山・川の壇,あるいは城隍(じようこう)廟,土地廟,四瀆(しとく)や五岳の廟,先蚕廟,風・雲・雷・雨諸神の廟などが建設された。歴史を通じて重要な儀礼とされた天子祀天の壇は,泰壇,郊壇,郊丘,郊兆,圜丘(えんきゆう),円丘,天壇等とよばれ,都城の南郊に設けられるのが原則で,前漢の成帝が前32年(建始1)に長安に築いたのをはじめ,歴代王朝の多くが建設したが,規模,形式は一定ではない。…

※「天壇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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