天保の飢饉(読み)てんぽうのききん

精選版 日本国語大辞典 「天保の飢饉」の意味・読み・例文・類語

てんぽう【天保】 の 飢饉(ききん)

天保四年(一八三三)に始まり同七年を頂点とする全国的な大飢饉。米価が高騰して餓死者が続出し、一揆や打ちこわしが各地に発生幕藩体制崩壊をうながした。

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デジタル大辞泉 「天保の飢饉」の意味・読み・例文・類語

てんぽう‐の‐ききん【天保の飢饉】

天保4~7年(1833~36)にかけての全国的な大飢饉。異常低温による大凶作となり、米価が高騰して餓死者が続出。各地に一揆打ち壊しが発生し、江戸幕府の体制的危機を促した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天保の飢饉」の意味・わかりやすい解説

天保の飢饉
てんぽうのききん

1833~1837年(天保4~8)に起こった大飢饉。享保(きょうほう)、天明(てんめい)の飢饉と並ぶ江戸時代三大飢饉の一つ。1833年春から夏にかけ、西国を除く各地が冷害にみまわれた。このため東北・北関東地方で極端な不作となり大飢饉となった。米価は高騰し、村の貧農や、都市貧民の生活を圧迫した。幕府や諸藩は御救い小屋を設けたりして救済に努めたが、それでも膨大な餓死者や病人を出した。また商人らの米価つり上げに対して、値下げを求める一揆(いっき)や打毀(うちこわし)が各地で続発した。そのため、諸藩では米穀の領外搬出を禁止したりして飯米確保に努め、秋田・南部藩などは、加賀・越後(えちご)などから米を買い入れて一揆の再発防止に努めた。

 1834年と1835年の夏は、比較的天候に恵まれたが、餓死者と病人による労働力減少などで、生産が回復しなかったところに、1836年ふたたび冷害にみまわれ大凶作となり、米価が暴騰した。しかも、都市で食糧品以外の購買力が減退したので、特産物生産地などでは、米価暴騰と生産減という二重の不況となり、人々を苦境に陥れた。このため、各地の都市と農村で打毀が続発した。とくに甲斐(かい)(甲州一揆)や三河加茂(かも)一揆)では大騒動に発展し、「世直し」を求めるに至ったので、武士のなかから幕藩の政策を批判する者が出た。とりわけ1837年の大塩平八郎の乱は、同年のモリソン号事件とあわせて幕藩権力を動揺させ、天保(てんぽう)の改革契機となった。

[青木美智男]


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改訂新版 世界大百科事典 「天保の飢饉」の意味・わかりやすい解説

天保の飢饉 (てんぽうのききん)

江戸時代の代表的飢饉の一つ。1833年(天保4)と35-36年の大凶作を頂点として,7ヵ年に及んだ冷害型の不作により生じた。33年には奥州は3分作以下収穫皆無の所もあり,東海道は7分作といわれ,関東,東北が主であったが,36-37年には北陸,九州,四国を除く全国的規模のものとなった。ほぼ50年前の天明の飢饉と同様に餓死,疫病死,流亡などの惨状を呈したが,やや異なるのは天明の飢饉が比較的短期間に集中して死者や被害を出しているのに対し,長期間にわたり慢性的な状況を呈したことである。この原因には救荒対策の一定の進展がある。飢饉がはじまると幕府や藩は救小屋を作り施粥や施金を行い,商人や豪農の出資を求めて褒賞を与え,各種の御救普請をおこし,年貢の減免や夫食貸付けと年賦返済あるいは据置き等の手段を講じた。囲穀(囲米)の放出や蓄穀にも努め,窮民に対する経営助成も行われている。藩では領内の穀物移動や他領からの米穀買入れにいちはやく動き,飢饉を局部的なものに押さえるように努めている。天明の飢饉の経験が生かされており,食糧使用の諸品の製造制限や禁止も速やかであった。しかし農村には貧農,小作人や耕作地を失った奉公人,日雇層の数がいっそう増加しており,都市にも下層窮民が累積されていた。諸藩や幕府の米穀津留や購入,蓄穀対策は自領を中心に行われたから,全国的な米価騰貴を呼びおこし,飢饉状況を慢性化させるとともに,〈買食い〉を必要とする上記のような窮民の生活をいっそう圧迫することになった。こうして一揆や村役人,穀商,質屋等に対する打毀や騒動が激発した。大塩平八郎の乱は,この状況の突出的な事件として領主階級の危機感を強めたものである。荒廃した農村の復興は天保改革の主題の一つとなり,また二宮尊徳,大原幽学らの仕法や佐藤信淵ら農学者の活動,救荒書出版などが本格化した。
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百科事典マイペディア 「天保の飢饉」の意味・わかりやすい解説

天保の飢饉【てんぽうのききん】

1833年―1836年(天保4年―7年),長雨・洪水・冷害によって全国的に起こった大飢饉。1836年の大凶作で農村は荒廃,都市の米価は暴騰,1837年には大塩の乱など各地に一揆(いっき)・打毀(うちこわし)が起こった。囲米(かこいまい)の売却や米価引下げなどによる幕府の対策は不十分で,幕藩体制の衰退を進めた。
→関連項目生田万大塩平八郎享保の飢饉高野長英天保改革

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「天保の飢饉」の意味・わかりやすい解説

天保の飢饉
てんぽうのききん

天保4 (1833) 年から同7年にかけての全国的飢饉。享保,天明と合せて江戸時代の三大飢饉と称されている。同4年,関東,奥羽地方は大風雨,洪水,冷害に見舞われ作柄は全国平均3~7分作となり,同5~6年も全国的に不作,同7年も天候不順で3~4分作となった。このため米価をはじめ諸物価は高騰,都市,農村を問わず餓死,行倒れ,離散が相次ぎ惨状をきわめた。幕府は窮民救済や米価引下げなどを行なったが不十分であったため,大坂では大塩平八郎の乱が,また諸国でも一揆打毀 (うちこわし) が続発し幕藩体制に深刻な影響を与えた。 (→享保の飢饉 , 天明の飢饉 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「天保の飢饉」の解説

天保の飢饉
てんぽうのききん

1833~36年(天保4~7)の全国的大飢饉。33年は天候不順で冷害・洪水・大風雨が続発,全国的に作柄は3~7分にとどまり,米価が騰貴。34,35年も不作にみまわれ,36年も全国的な凶作となり,翌年にかけて大飢饉となった。農村では農民が困窮・離散し,奥羽を中心に多くの餓死者がでた。江戸では物価が騰貴するなか,農村からの流入者や行倒れがやまず,各地で一揆・打ちこわしが続発した。幕府は米銭の賑給(しんきゅう),御救小屋の設置,酒造の制限,小売値の引下げ,囲米(かこいまい)の売却,廻米・隠米の禁止などの施策をとったが,不十分に終わった。大塩平八郎の乱に代表される各地の騒乱とともに,幕藩体制の基礎をゆるがす要因となった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「天保の飢饉」の解説

天保の飢饉
てんぽうのききん

江戸後期の全国的大飢饉
1833〜36(天保4〜7)年を中心とする連続的凶作で,東北地方では農民が多数餓死した。'37年の大塩平八郎の乱をはじめ全国的に百姓一揆・打ちこわしが続発。天保の改革がその後('41〜43)実施された。

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世界大百科事典(旧版)内の天保の飢饉の言及

【七分積金】より

…これらの囲籾は毎年一部ずつ更新され,米価調整の機能をも併せて担うことになった。江戸町会所の社倉としての性格が最もよく示されたのは,1833‐37年(天保4‐8)天保の飢饉時と,幕末の物価騰貴を伴う政治的危機の時期等である。これらの時期には,籾蔵の大量の囲籾が放出され,銭貨とともに下層民衆に与えられるというかたちの救済が繰り返された。…

【矢部定謙】より

…左近将監,駿河守。堺奉行を経て1833年(天保4)大坂町奉行となり,天保の飢饉にさいして元与力大塩平八郎の意見をいれ,米価を調節し窮民の救済に当たり功績を挙げた。その後,庄内藩,長岡藩,川越藩の三方領知替の際には庄内領民の反対運動を取り上げて再審の上書を提出した。…

※「天保の飢饉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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