日本大百科全書(ニッポニカ) 「天保の改革」の意味・わかりやすい解説
天保の改革
てんぽうのかいかく
江戸時代後期の天保年間(1830~44)に、幕府・諸藩によって行われた諸方面にわたる改革の総称。幕政の改革としては、享保(きょうほう)の改革、寛政(かんせい)の改革とともに三大改革の一つとされる。
[津田秀夫]
幕政の改革
19世紀初頭以来、全国各地の農村における商品生産の急速度の発展は、従来からの農民層の分解にいっそう拍車をかけ、関東農村の荒廃ももたらしていた。天保の大飢饉(だいききん)は、この構造のなかで空前の規模となった政災であり、続く大塩平八郎の乱、生田万(いくたよろず)の乱など都市下層民や農民の生存をかけた闘争とも相まって、封建社会の基礎を大きく揺るがし、幕府財政の窮迫をいよいよ深刻なものとした。一方、ヨーロッパ資本主義列強も「鎖国日本」の扉をますます激しくたたくに至り、「内憂」「外患」はここに極まった。
1841年(天保12)閏(うるう)正月、大御所徳川家斉(いえなり)が没してようやく幕政を親裁することができた12代将軍家慶(いえよし)は、かねて信任していた老中首座水野忠邦(ただくに)に改革政治を推し進めさせた。改革が断行された直接的な期間は通常、同年5月から43年閏9月の水野退陣に至る2年半とされるが、いくつかの改革政治はその後も継承されている。この改革は家慶によって「享保・寛政の御政事向(ごせいじむき)に復する」ことが標榜(ひょうぼう)されてはいるものの、歴史上の意義のうえで、単なる封建反動とみなすことはできず、絶対主義的傾斜を含んだ改革というべきであろう。とくに、この改革を契機として、明治維新政権樹立運動に登場する諸勢力が社会的にも経済的にも出そろうことを見逃してはならない。また農民層分解、農村荒廃、百姓一揆(ひゃくしょういっき)の高揚などの内的矛盾を、列強進出による外的矛盾に対置しつつ、経済改革と軍事改革を一体化させた「富国強兵」のコースが打ち出された点も特徴的である。
改革令のおもな内容を例示すると、(1)風俗矯正と倹約令、(2)低物価政策、(3)江戸における「人返し」令、(4)対外政策、(5)江戸、新潟湊(みなと)、大坂の最寄地(もよりち)を対象とした上知(あげち)令、などである。このうち、天保の改革を特徴づけているのは(2)(4)(5)である。まず(2)の低物価政策として、問屋・組合・株仲間の解散を命じた、いわゆる株仲間解散令(1841年12月令と翌年3月令)は、幕府の指定する市場において、広範な地域からの商品流通が円滑に行われることを目的として、従来からの特権的流通機構を解体したものである。また、これに伴って価格調査が行われ、価格表示、引下げなどの一連の処置が強制的に執行された。これらの施策は、農民的商品経済の進展と諸藩権力の雄藩化に対する幕府としての独自の改革的対応であった。また、水野退陣による改革の頓挫(とんざ)ののち、1851年(嘉永4)になって幕府が出した問屋・組合再興令も、むしろこの解散令の延長線上のものと解すべきであろう。すなわち、問屋再興令は、冥加金(みょうがきん)を賦課せず、再興にあたって株札を渡さず、人数も原則として定めないなど、天保の改革以前にあった株仲間――特権的流通機構――を復活させるようなものではなかったのであり、そのことによって、都市のみならず、農村地域でも商工業の組織化を図るという、改革以来の絶対主義的産業規制であると考えられる。したがって、こうした点からみれば、天保の改革全体を、単純に失敗に終わったとみることは正確でない。
次に(4)の対外政策とは、1825年(文政8)に発した異国船打払令の撤回(1842.7)、緩和と、他方での江戸湾防備を中心とする海防政策――軍事的改革である。これはヨーロッパ資本主義列強のアジア侵略の一環としてのアヘン戦争が清(しん)国の敗北に終わったという情報や、イギリスが日本に対しても進攻計画をもっているとの情報が伝わったことなどによるものであるが、幕府としては、これらの外圧が国内の体制的矛盾と結び付くことをなによりも恐れて対処したものである。
最後に、(5)の上知令(1843.6)は、豊饒(ほうじょう)な土地の幕領編入による貢租確保(とくに大坂周辺)、幕領・私領の複雑な入り組みの解消による人民統制、支配の強化(とくに江戸周辺)、港湾部の直轄支配による国土防衛策と運上徴収(とくに新潟湊)、などを直接的な目的としたものであり、全体として、政治的・経済的・軍事的課題の統一的追求により、幕府権力の富国強兵的強化を図ったものである。しかし、この改革は、年貢先納や調達銀借り上げなど負担が直接かかってきた農民や町人の激しい抵抗を受け(とくに大坂)、それを背景として有力諸藩が反対に回るに及んで、上知令は撤回された(1843・閏9)。この撤回は、三方(さんぽう)領地替の撤回(1841.7)に続くものであり、江戸・大坂の直轄都市周辺でさえ、封土の転換令が出せなかったことは、天保期の幕府権力が著しく凋落(ちょうらく)したことを表している。なお、この撤回令は水野が病気中に将軍家慶の名で出されたもので、その直後に水野は退陣を余儀なくされた。しかし、新潟の上知は実施され、発令によって新設された新潟奉行所(ぶぎょうしょ)を拠点に、直轄支配が幕末まで貫徹する。したがって、上知令全体が破綻(はたん)したととらえることも、水野の退陣をただちに上知令の撤回(江戸、大坂)のみと結び付けるのも正確ではない。水野の退陣の背後には、風俗矯正令や倹約令の徹底が民情を無視して厳しく行われたことに対する、町人・民衆の反感が大きく働いていることを重視すべきであろう。そのため、退陣により改革の一部は頓挫するものの、改革政治の基本路線は後継幕閣によって継承されていくし、国際事情通であった水野自身が、外交問題を処理するため、1844年6月、再登場するのである。
[津田秀夫]
諸藩の改革
幕府の天保の改革と前後して、諸藩でも藩政改革が行われた。なかでも長州・薩摩(さつま)・土佐・肥前の各藩は天保の改革においていちおうの成功を収め、「西南雄藩」として幕末維新期の政局に主導的役割を果たすようになる。長州藩では、村田清風(せいふう)が銀8万貫を超える藩債を緊縮財政や積極的な塩田開発の事業収益などによって整理する一方、文政(ぶんせい)年間(1818~30)に徹底して行った専売制が領民の激しい抵抗を招いたためにそれを緩和する方向に政策を転換させ、越荷(こしに)方の改正などを行って藩政改革を成功させた。薩摩藩でも、500万両以上の藩債を抱えていたが、調所広郷(ずしょひろさと)は三都の債権者に対し250年賦償還という実質的踏み倒しで切り抜け、領内では三島産砂糖の惣(そう)買入れを押し付けて収奪を図り多くの利益をあげた。水戸藩でも、藩主徳川斉昭(なりあき)が土地問題(限田制)を提起して藩政改革を推進し、その成功を背景に幕末の政局に尊攘(そんじょう)藩として活躍した。なお、斉昭は、水野忠邦の幕政改革を支持し、水戸藩での経験を基に十数か条の改革意見書を忠邦に送っている。
[津田秀夫]
『津田秀夫著『封建社会解体過程研究序説』(1970・塙書房)』▽『津田秀夫著『天保の改革』(『日本の歴史22』1975・小学館)』▽『北島正元著『水野忠邦』(1969・吉川弘文館)』