大阪(市)(読み)おおさか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大阪(市)」の意味・わかりやすい解説

大阪(市)
おおさか

大阪府の中央部西寄り、淀川(よどがわ)河口にあって大阪湾に臨む。府庁所在地。古来、交通の要衝にあって港都として発達した。近代商工業の中心都市として西日本の中枢的地位を占める。なお、大阪の地名は、15世紀末に石山別院を建立した蓮如上人(れんにょしょうにん)の『御文(おふみ)』に「大坂」とあるのが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政名として「大阪」の字を用いるようになった。

 市制施行は1889年(明治22)で、近世以来の大坂三郷(さんごう)の区域を東、西、南、北の4区に区画した。当時の市域は15.3平方キロメートル、人口47万2247。その後近代商工業の発達に伴って、1897年に第一次拡張として周縁地域の東成(ひがしなり)、西成(にしなり)両郡の28か町村の全部または一部を編入。1925年(大正14)の第二次拡張には東成、西成両郡の残部44か町村を編入して、東淀川、西淀川、東成、住吉(すみよし)、西成の5区を設け、さらに旧来の4区を細分画して天王寺(てんのうじ)、浪速(なにわ)、港、此花(このはな)区の4区を増設して計13区とし、面積181.7平方キロメートル、人口211万4804となる。1932年(昭和7)旭(あさひ)、大正の2区を増設、1943年行政区画改正で大淀、福島、都島(みやこじま)、城東、生野、阿倍野(あべの)、東住吉の7区増設。1955年(昭和30)茨田(まつた)、巽(たつみ)の2町、加美(かみ)、長吉(ながよし)、瓜破(うりわり)、矢田(やだ)の4村編入。1974年区画一部分割で淀川、鶴見(つるみ)、住之江(すみのえ)、平野(ひらの)の4区新設。1989年(平成1)合区により北と大淀が北区、東と南が中央区となり、全24区。面積225.32平方キロメートル(境界は一部未定)、人口275万2412、人口密度1平方キロメートル当り1万2216(2020)。

 市の人口推移をみると、日本の経済高度成長期を迎えた1960年代に市の人口は急増して1965年には約316万人に達した。しかしそれ以後は減少傾向を示し、1970年298万人、1975年278万人、1985年264万人、1995年260万人となった。2005年には増加に転じ(263万人)、2010年には約267万人となった。2020年を境に減少に転じることが見込まれている(大阪市「大阪市の将来推計人口(令和元年度)」)。

[位野木壽一]

 人口増減の状況を区別でみると、中心部とそこに隣接する区で増加が、反面、周辺区で減少が見込まれている。

[編集部]

自然

地形

市域の地形は、大別して台地と沖積地からなる。台地は市の中央部東寄りに、南北に延びる上町台地(うえまちだいち)とその南東に雁行(がんこう)する我孫子台地(あびこだいち)とがある。上町台地は、大阪城から南へ住吉大社あたりまで延長約12キロメートルの古期洪積台地である。我孫子台地は、北は御勝山古墳(おかちやまこふん)から南へ大和川(やまとがわ)に至る延長約8キロメートルの新期洪積台地である。

 沖積地は、淀川と大和川の土砂の堆積(たいせき)によって形成されたデルタで、市域の大部分を占める。大阪の発展の原動力となった淀川は、市域の北東端で神崎川(かんざきがわ)を分かち、毛馬(けま)から向きを南に変えて天満川(てんまがわ)となり、大阪城下で寝屋川(ねやがわ)を合流して西へ曲流し、中之島(なかのしま)を挟んで堂島川(どうじまがわ)と土佐堀川に分かれ、さらに下流では安治川(あじかわ)、尻無川(しりなしがわ)、木津川に分流して大阪湾に流入する。これらの分流河川と結んで、近世以降、東横堀(ひがしよこぼり)、西横堀、道頓堀(どうとんぼり)、長堀(ながほり)など多くの運河が掘られて水運の便に供され、「水の都」の名を誇った。反面、氾濫(はんらん)も多く、治水対策もたびたび行われ、1910年(明治43)には放水路として新淀川が開削された。市の南境を流れる大和川は、かつては大阪城の北で淀川に合流していたが、氾濫が多く、1704年(宝永1)に現在のように付け替え工事が行われた。淀川、大和川のデルタ地域は、軟弱な砂、粘土層からなり、昭和初期以来、地下水採取による地盤沈下がおこっている。そのため市では、地下水の採取規制を行い、また工業地域では工業用水道を施設するなど対策に腐心している。

[位野木壽一]

気候

大阪湾に接し、夏はやや暑いが相対的には温暖である。雨量は比較的少なく、晴天に恵まれ、いわゆる瀬戸内式気候の特色を示す。風は、西風、ついで北北東風が多い。このため西部の臨海工業地域や北部の淀川工業地域の工場煤煙(ばいえん)が市街地にもたらされ、大気汚染やスモッグ現象による環境悪化の要因となっている。

[位野木壽一]

歴史

先史・古代

大阪市域の開発は縄文時代にさかのぼる。上町台地の北東端の森の宮遺跡(もりのみやいせき)からは下部の海水産マガキ層、上部の淡水産セタシジミ層中に、縄文後期から弥生(やよい)中期にかけての土器、石器とともに人骨が出土した。当時、上町台地は岬状をなし、台地の西部は難波海(なにわのうみ)で、東部は河内湾(かわちわん)を形成していたが、河内湾は河内潟さらに河内湖に変容したことが知られる。人々の活動は上町台地を中心に我孫子台地に及んだ。我孫子台地には桑津(くわづ)、遠里小野(おりおの)、瓜破(うりわり)など弥生時代の遺跡がある。古墳もこれらの台地に茶臼山(ちゃうすやま)、帝塚山(てづかやま)、御勝山(おかちやま)の前方後円墳が立地する。

 難波(なにわ)(大阪の古名)が港都として繁栄をみるのは4世紀なかばからで、大和朝廷の発展とともにその門戸として、三韓(さんかん)(朝鮮)、隋(ずい)、唐の文化を導入した。これらの使節の迎賓館として難波館がつくられ、593年(推古天皇1)には四天王寺が建立された。また記紀によれば応神天皇(おうじんてんのう)の難波大隅宮(なにわおおすみのみや)、仁徳天皇(にんとくてんのう)の難波高津宮(なにわたかつのみや)が造営され、645年(大化1)孝徳天皇(こうとくてんのう)の難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)の遷都をみた。奈良時代には聖武天皇(しょうむてんのう)が難波宮(なにわのみや)を造営し、744年(天平16)には一時的ながら帝都となった。なおこの宮跡は長く不明で「幻の宮」といわれていたが、1954年(昭和29)以来の発掘調査によって大阪城の南に続く法円坂(ほうえんざか)一帯の地域であることが確認され、現在は難波宮跡公園として保存されている。平安時代になると、淀川の土砂の堆積により港都としての地位は薄れたが、四天王寺や住吉大社の門前町として、また紀州熊野三山(くまのさんざん)詣(もう)での宿駅として余栄を続けた。しかし鎌倉末期から南北朝時代の動乱に、寺社は兵火にかかり、町は荒廃に帰した。

[位野木壽一]

中世

大阪がふたたび歴史の脚光を浴びたのは、室町時代中期、1496年(明応5)真宗8世の蓮如上人(れんにょしょうにん)が上町台地の北端に石山別院(後の本願寺)を創建してからである。石山本願寺は周りに堀を巡らした法城、いわゆる寺内町(じないまち)として繁栄した。しかし16世紀末に織田信長と確執をおこし、11か年に及ぶ石山戦争の結果、1580年(天正8)宗徒はここを退去、町は焼失した。その後に羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))が移り、1583年大坂城の築造にかかった。天守閣を中心に、大名屋敷は内外の堀で囲み、城下の沖積地には東横堀、西横堀、長堀、南堀(道頓堀)などを掘削して排水と水運の便を図り、ここに堺商人(さかいしょうにん)らを移して町屋とし、近世大坂の基盤を形成した。

[位野木壽一]

近世

豊臣氏による大坂城下町の繁栄も、大坂の陣の兵火に焼失、そのあと徳川氏が大坂城を再建、松平忠明(まつだいらただあきら)(1583―1644)が入封して市街の復興に努めた。忠明が大和の郡山(こおりやま)に移封後は幕府直轄地となり、城代、東西町奉行(まちぶぎょう)が置かれた。京伏見(ふしみ)の商人を移住させ、江戸堀、京町堀などの運河の開削が行われ、城下の整備は一段と進められた。南組、北組、天満組(てんまぐみ)からなる大坂三郷(さんごう)ができ、三郷惣年寄(そうどしより)による自治的行政が行われた。淀川筋の中之島、堂島や運河沿いには諸藩の蔵屋敷が設けられ、諸国の米や特産物の取引の中心地となるなど商都として繁栄を極めた。大坂三郷の人口は最盛時には42万(1765)を数え、江戸と並ぶ大都市となった。

 商都の繁栄は町人文化の隆盛をももたらした。俳諧(はいかい)の西山宗因(にしやまそういん)、浮世草子の井原西鶴(いはらさいかく)、国学の僧契沖(けいちゅう)、儒学の中井甃庵(なかいしゅうあん)(1693―1758)、浄瑠璃(じょうるり)の近松門左衛門や紀海音(きのかいおん)、義太夫節(ぎだゆうぶし)の竹本義太夫らが輩出、また経済学の山片蟠桃(やまがたばんとう)、天文暦学の麻田剛立(あさだごうりゅう)、間重富(はざましげとみ)、蘭学(らんがく)の橋本宗吉(はしもとそうきち)、医学の緒方洪庵(おがたこうあん)らの人材が出て上方(かみがた)文化の華を咲かせた。

[位野木壽一]

近・現代

江戸末期の幕府の崩壊から明治維新にかけて大阪の経済は混乱に陥り、一時衰退して人口も28万になった。しかしその間にあって、近代商工業都市化への芽生えがみられた。工業では、1870年(明治3)大阪城内に造兵司(後の陸軍造兵工廠(こうしょう))が置かれ、翌1871年には川崎(北区)に造幣寮(現、造幣局)が開業し、ヨーロッパの科学技術の導入、文明開化の先駆となった。一方、商業では、1868年の開港で川口(西区)に居留地が設けられ、貿易の門戸が開かれた。また五代友厚(ごだいともあつ)らにより大阪株式取引所(のちの大阪証券取引所、現在の大阪取引所)や商法会議所(現、商工会議所)が開設され、近代商業の体制がたてられた。明治中期から、近代工業は一段と進み、1882年には大阪紡績会社が設立され、従来の手織りから機械織りに転換して生産の向上をみた。以来次々に紡績工場が設けられ、大阪は全国一の紡績工業都市となり、「東洋のマンチェスター」とよばれるに至った。

 日清(にっしん)、日露戦争、大正初期の第一次世界大戦の軍需の影響を受けて、金属、機械、化学工業も勃興(ぼっこう)した。それらの工場群は淀川流域や臨海地に立地し、その吐き出す黒煙で大阪は「煙の都」とよばれた。一方、アジア方面を市場とする貿易も盛んとなり、商業も活発となった。当時、住友、鴻池(こうのいけ)銀行などの台頭、また三越(みつこし)、大丸などの百貨店の開業をみた。私鉄の発達も著しく、近郊の市街化が進んだ。

 昭和期に入り、世界経済恐慌の影響、満州事変以降の戦時体制下の統制経済によって大阪の商業は抑圧され不振となったが、反面軍需の影響で工業は著しく伸び、人口も1940年(昭和15)には325万を数えた。

 しかし、第二次世界大戦中の1945年3月の大空襲などで市域の27%は焼土となった。焼失倒壊家屋31万戸、死者1万余人、人口は105万に激減し、商工機能は壊滅状態となった。

 戦後は、1950年(昭和25)の朝鮮戦争による特需景気を機に工業が目覚ましく復興し、商業も回復してきた。しかし戦前に比べて大阪の経済力は相対的に低下し、「大阪経済の地盤沈下」と評された。この対策として、南港造成による貿易振興や商工中小企業の近代化・合理化、都市再開発事業、地下鉄・高速道路の整備などを進め、高度経済成長期の1965年には、商工業とも戦前を凌駕(りょうが)するに至った。しかし、1973年の石油危機の影響、1990年代に至ってのバブル経済の崩壊などもあって経済は低迷し、加えて交通渋滞や都市公害問題、人口の減少傾向など、幾多の課題を抱えている。

[位野木壽一]

産業

大阪市の産業構造をみると、2020年(令和2)の就業者数107万余のうち、卸・小売業が17.2%、製造業が13.7%、医療・福祉が12.7%で、サービス業が8.0%となっている。

[位野木壽一]

農業

昭和初期まで、市街地周縁では近郊農業が盛んで、米のほか、ホウレンソウ、ネギ、ダイコン、ニンジンや花卉(かき)の栽培が行われたが、第二次世界大戦後の著しい都市化で農地は激減した。1980年には、市域の東・南縁辺部に430ヘクタールを残すに至った。大部分が兼業農家で、農地は伸張する市街に挟まれて、しだいに消失の運命をたどり、2021年にはわずか85ヘクタールとなっている。

[位野木壽一]

商業

近世以来商都として発展してきた大阪は、明治以降もその伝統を継承して近代商業都市に成長してきた。商店数、年間総販売額ともに東京都に次ぐ。卸売業の販売額が多く、この卸売業の地位の高さは伝統の問屋制の力に負うものである。

 商業地域の中心地は、中央区、北区、西区の3区、旧大坂三郷の地にあたる。総合商社や問屋が集中し、その年間販売額は全市の約71%を占めている。とくに船場(せんば)(中央区)、島之内(しまのうち)(中央区)、西船場(西区)、堀江(ほりえ)(西区)の一帯は同一業種の並ぶ問屋街を形成している。おもな問屋街に、中央区では道修町(どしょうまち)の薬種、本町・唐物(からもの)町・丼池筋(どぶいけすじ)の繊維、南久宝寺町(みなみきゅうほうじまち)の化粧品・小間物(こまもの)、河原(かわはら)町の家具・道具類、御蔵跡(おくらと)町の履き物、日本橋筋(にっぽんばしすじ)の電気器具、松屋町筋(まっちゃまちすじ)の菓子・玩具(がんぐ)・文房具、西区では立花通(たちばなどおり)の家具・仏壇、西横堀筋の瀬戸物街などがある。これらの問屋街地区も都市再開発が進められ、北区梅田の繊維問屋街は淀川区の新大阪繊維卸売団地(現、新大阪センイシティー)に、船場の繊維問屋の一部は箕面(みのお)市に、中央区谷町筋の既製服問屋街は枚方(ひらかた)市に移転するなど、しだいに変容を示している。

 一方、銀行、証券、商社、事務所などの金融、流通管理機関は、北区の梅田、堂島(どうじま)、中之島から中央区の北浜(きたはま)、御堂筋(みどうすじ)、堺筋(さかいすじ)などに集中している。北浜には日本取引所グループ(大阪取引所)があり、一帯は証券街として、東京の兜町(かぶとちょう)と並称される。都心商店街としては心斎橋筋(しんさいばしすじ)、戎橋筋(えびすばしすじ)がある。JR、私鉄に結ばれるターミナル商店街は、梅田、天神橋筋、京橋、上本町(うえほんまち)、難波(なんば)、阿倍野橋筋(あべのばしすじ)など、駅付近に発達し、興行界、飲食店などを擁して盛り場商店街をなしている。とくに梅田を中心とする一帯は「キタ」、難波の一帯は「ミナミ」と称し、それぞれ地下商店街と結んで二大繁華街区をなしている。このほか盛り場には通天閣(つうてんかく)をもつ新世界が知られている。

 大阪経済の基盤を支える大阪港の外国貿易は、2020年時点で、輸出3兆8087億円、輸入4兆5168億円である。おもな輸出品は鋼材、産業機械、再利用資材などで、輸入は衣類および同付属品、電気機械、染料・塗料などの化学工業品などである。

[位野木壽一]

工業

市の工業は阪神工業地帯の中核をなしている。2020年時点の製造業の事業所数は4879、従業員数は11万2970人、製造品出荷額等は3兆5747億円に上る。業種別にみると、事業所数では金属製品、印刷・同関連、生産用機械器具、プラスチック製品が多いが、製造品出荷額等からみると、化学、鉄鋼、金属製品が多く、市の工業は重化学工業と軽工業からなる総合型工業であるといえる。工場を規模からみると、小規模工場が多く、300人以上の大規模工場は0.5%にすぎない。しかし製造品出荷額等からみると、大規模工場で総額の26.2%を占めている。

 工場地域は北部、東部、西部の3地区に大別できる。北部工業地区は、淀川とその支流神崎川流域に発達し、淀川工業地区ともいう。明治初年に旧淀川右岸に設けられた造幣寮の影響で、その上流に金属製練所や紡績、染色、晒(さらし)工場などが立地し、神崎川流域には製薬、肥料、染料などの大規模の化学工場が進出して、現在では化学工業地区の特色を現す。

 東部工業地区は平野川流域に発達し、城東工業地区ともいう。明治初年大阪城内に設置された造兵司の下請業として金属、機械部品、衣料などの小工場が立地し、その後、城北運河、城東運河(現在、新平野川)の開削に伴い、その流域一帯に広がった。金属、ミシンなどの機械器具、電気器具、出版・印刷、メリヤス、せっけん、薬品、食料品、家具、玩具、紙・樹脂加工品、レンズ・眼鏡類など多種多様である。労働力に依存した軽工業地区で、小・零細規模の町工場が多い。近年、騒音、振動などの都市公害を避けるとともに、企業の近代化を図って郊外に移転する傾向があり、印刷団地や菓子工業団地などを八尾(やお)市に設置した。

 西部工業地区は、大阪湾岸に発達した臨海工業地区である。明治中期以降大阪港の築港計画の進むにつれ、水運の便に恵まれ、新田埋立地に造船、車両、鉄鋼、機械、セメント、石油化学などの大規模工場や製材工場が形成された。なかでも此花(このはな)区の住友電工、住友化学、住友金属工業(現、日本製鉄)と川崎重工、日立造船、大阪ガス(川崎重工以下3社の工場は閉鎖)は、俗に「西六社」とよばれた代表的重化学工業地であった。また、木津川下流は造船業地として知られた。大和川河口の平林地区には輸入材の大貯木池(現在、大部分は保管施設として利用されていない)と製材工場群がある。総括的に、この地区は重化学工業地区として阪神工業地帯の一核心地をなすが、反面大気汚染と地盤沈下の悩みをもち、その対策に腐心している地区でもある。2001年3月、日立造船などの跡地にユニバーサル・スタジオ・ジャパンが開園し、工業からの転換を図っている。

[位野木壽一]

交通

国鉄(現、JR)の開通は1874年(明治7)の大阪―神戸間に始まり、現在は大阪駅を中心に東海道本線、大阪環状線、桜島線(ゆめ咲線)が通じ、市の表玄関となっている。関西本線は1889年湊町(みなとまち)を起点にして開通し、天王寺駅からは阪和線が走り、両駅は市の南の玄関をなしている。また片町線(学研都市線)は京橋駅を起点にして奈良と結ぶ。1964年(昭和39)には新幹線が通じ、新大阪駅が設置された。1997年(平成9)には片町線京橋―福知山線尼崎(あまがさき)を結ぶJR東西線が開通、片町線と連絡した。

 私鉄は、南海電気鉄道の前身阪堺(はんかい)鉄道の1885年難波―大和川間開通が最初で、その後、阪神電気鉄道、京阪電気鉄道、阪急電鉄、近畿日本鉄道などの前身である諸鉄道が開通し、しだいに路線を延ばして今日の五大私鉄網をつくった。おもな路線をみると、南海電鉄は難波を起点に関西空港、和歌山および高野山(こうやさん)へ、阪神電鉄は大阪梅田から神戸へ、京阪電鉄は淀屋橋(よどやばし)から京都へ、阪急電鉄は大阪梅田から箕面(みのお)、宝塚、神戸、京都へ、近鉄は難波、上本町から奈良、伊勢(いせ)、名古屋へ、大阪阿部野橋から橿原(かしはら)、吉野へと通じている。

 市内交通には、大阪シティバスと大阪市高速電気軌道(地下鉄)がある(2018年に民営化されるまでは大阪市交通局が大阪市営バス、大阪市営地下鉄として運営)。大阪シティバスは自動車交通の増大で年々乗客は減少している。地下鉄は南北を走る御堂筋線、堺筋線、四つ橋線、谷町線(たにまちせん)、今里筋線(いまざとすじせん)の5線、東西を走る中央線、千日前線(せんにちまえせん)の2線、北東に長堀鶴見緑地線(ながほりつるみりょくちせん)が通じる。また南港ポートタウンの竣工(しゅんこう)に伴い、四つ橋線と結んで新交通システムの南港ポートタウン線(ニュートラム)が登場した。なお、1903年(明治36)に開業した大阪市電は、1969年に廃止された。

 国道は梅田新道の道路元標を起点にして、1号は東京、2号は北九州に結んで一大幹線道路をなし、このほか国道25号、26号などや府道大阪内環状線などが、ともに市内を環状と放射状に延びている。1962年には阪神高速道路公団が設立され、市内の旧運河や河川上を利用した高架道路を設けるなどして、渋滞緩和に努めている。

 水運は大阪港が中心で、市の経済発展の基盤となっている。1868年(明治1)開港以来、幾多の変遷を経て、整備された市営港となった。

[位野木壽一]

文化・生活

史跡・文化財

上町台地の北部には特別史跡の大坂城跡や「幻の宮」といわれた難波宮跡(国史跡)があり、南の寺町地区には僧契沖の「契沖旧庵(きゅうあん)(円珠庵(えんじゅあん))ならびに墓」(国史跡)や勝鬘院(しょうまんいん)(愛染堂(あいぜんどう))、仏法最初の寺四天王寺や茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)(府史跡)などがあり、最近これらを巡る「歴史の散歩道」が設けられている。台地の南部には、帝塚山古墳(てづかやまこふん)(国史跡)や北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕家(あきいえ)を祀(まつ)る阿部野神社(あべのじんじゃ)、摂津一宮(いちのみや)の住吉大社、後村上天皇(ごむらかみてんのう)の住吉行宮跡(すみよしあんぐうあと)(国史跡)などがある。旧大坂三郷の地には、西本願寺派の津村別院(北御堂)、東本願寺派の難波別院(南御堂)や坐摩神社(いかすりじんじゃ)(坐摩神社(ざまじんじゃ))、今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)、また緒方洪庵の適塾(てきじゅく)(国史跡)などがある。北部には天満宮(てんまんぐう)や造幣寮創業当時の明治建築である泉布観(せんぷかん)があり、造幣局のサクラ並木は「桜の通り抜け」として知られる。国宝に住吉大社の本殿、四天王寺の『扇面法華経(せんめんほけきょう)』など、国の重要文化財に大阪城の大手門、四天王寺の石鳥居、泉布観などがある。大阪市の誇る人形浄瑠璃文楽(にんぎょうじょうるりぶんらく)は、太夫(たゆう)、人形遣(つか)いに重要無形文化財(人間国宝)指定の人を擁している。重要無形民俗文化財には「四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)の舞楽」と「住吉大社の御田植神事(おんだうえしんじ)」がある。

[位野木壽一]

文化施設

図書館は、府立中之島図書館、市立中央図書館など、おもな博物館には、大阪城の近くに歴史資料展示の大阪歴史博物館、長居公園に自然科学資料を収集の自然史博物館、中之島には安宅(あたか)コレクションを収蔵する東洋陶磁美術館や市立科学館、難波には日本工芸館、天王寺公園には市立美術館と動物園、植物園などがある。大阪港に臨む天保山(てんぽうざん)ハーバービレッジには水旅館の大阪・海遊館がある。市の代表的公園には、歴史を背景とする大阪城公園や天王寺公園、住吉公園があり、水都のシンボルとして中之島公園がある。千島公園は高潮対策を兼ねた人工の昭和山(35メートル)があり、鶴見緑地(つるみりょくち)には地下鉄の廃土などを利用した鶴見新山(45メートル)と広大な森が設けられている。南港埋立地には魚つり園護岸、野鳥園などがある。浪速区に府立体育会館、港区に中央体育館、中央区に大阪城ホールがある。なお、大学は大阪市立大学(現、大阪公立大学)、国立大学法人大阪教育大学ほか多数の私立大学がある。

[位野木壽一]

芸能・演劇

近世の上方(かみがた)文化の伝統を伝えるものとして人形浄瑠璃と上方歌舞伎(かぶき)がある。人形浄瑠璃は、江戸中期に作者の近松門左衛門、語りの竹本義太夫、三味線の竹沢権右衛門(たけざわごんえもん)、人形遣いの辰松八郎兵衛(たつまつはちろべえ)らによって完成をみ、道頓堀の竹本座や豊竹座で興行、全盛を極めた。その後一時衰退したが植村文楽軒(うえむらぶんらくけん)が再興、文楽座で興行したところから人形浄瑠璃を文楽とよぶようになった。現在は国立文楽劇場で上演され、2003年(平成15)世界無形遺産に選ばれている。上方歌舞伎も近松門左衛門の脚本を坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)らが演じた和事(わごと)で人気を博したが、現在では衰退している。大衆芸能には松竹新喜劇と上方漫才がある。前者は大正期に曽我廼家(そがのや)十郎・五郎の始めた曽我廼家喜劇の流れを継ぎ、後者は横山エンタツ・花菱(はなびし)アチャコの巧妙な大阪弁の話術で今日の隆盛をもたらした。通称「天王寺(てんのじ)村」(西成区山王1丁目)は上方演芸発祥の地として知られる。その後、大阪の漫才はますます盛んになり、上方落語とともに全国的な人気を呼んだ。千日前に上方演芸に関する資料を集めた府立上方演芸資料館(ワッハ上方)がある。

[位野木壽一]

祭り・年中行事

商都大阪には、商売繁盛につながる祭りと行事がいまも受け継がれている。正月行事は福の神今宮戎神社(いまみやえびすじんじゃ)の9日(宵戎(よいえびす))、10日(本戎)、11日(残り福)で明け、14日は四天王寺の牛王宝印(ごおうほういん)を競う「どやどや」行事、2月は節分(せつぶん)の我孫子観音詣(あびこかんのんまい)り、3月は春の彼岸会(ひがんえ)、4月は22日の四天王寺聖霊会(しょうりょうえ)、5月は卯(う)の日住吉大社の卯之葉神事(うのはしんじ)と平野(ひらの)の大念仏寺(だいねんぶつじ)の練供養(ねりくよう)、6月は14日の住吉大社御田植神事がある。7月は夏祭ににぎわう月で、宝恵駕籠(ほえかご)の出る勝鬘院(しょうまんいん)の愛染(あいぜん)まつりを皮切りに、生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)、土佐稲荷社(とさいなりしゃ)、杭全神社(くまたじんじゃ)、御霊神社(ごりょうじんじゃ)、坐摩神社(ざまじんじゃ)などの夏祭や陶器神社(とうきじんじゃ)の陶器祭が続き、その間15日には大阪開港記念の「みなとまつり」があり、25日には天満宮(てんまんぐう)の天神祭の船渡御(ふなとぎょ)で最高潮に達し、8月1日の住吉大社の川渡御で終わる。9月は秋の彼岸会、10月は中旬に誓文払(せいもんばら)い、17日には住吉大社の宝之市神事(たからのいちしんじ)、11月は道修(どしょう)町の薬種の神を祀(まつ)る少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)の神農祭(しんのうさい)、12月は歳末商戦で年を越す。

[位野木壽一]

生活・風習

大阪を代表する船場(せんば)には、第二次世界大戦前までは古い浪花(なにわ)の生活と風習があった。軒を並べた商家は、土蔵造袖壁(そでかべ)のある中二階建てで、表には店の屋号や商標を染め抜いたのれんが商家のシンボルとして掲げられていた。格子戸付きの間口と帳場、片側部屋と土間の奥行は深く、突き当たりには頑丈な土蔵のあるいわゆる鰻(うなぎ)住まいの構造である。ここでの主家と番頭、手代、丁稚(でっち)、小僧たち使用人の生活は、質素と倹約を旨とし、軽妙な大阪弁で商いに励み、蓄財に努めたのである。食生活についても、「朝粥(かゆ)や昼一菜に晩雑炊(ぞうすい)」といわれたほどに簡素で実用的なものであった。「大阪の食い倒れ」は、こうした内での食生活の裏腹(うらはら)として、外では美味を求めて金を惜しまなかった習性に由来するものといわれている。第二次世界大戦後の一般の生活は全国画一化の傾向にあるが、なお大阪弁と大阪の味は生きている。船場の商家では、船場汁や鰻面豆腐(うづらどうふ)(ウナギの頭と焼き豆腐の煮合せ)、身欠(みが)きにしんなど実利的なものが一部に残っている。

[位野木壽一]

『大阪市参事会編・刊『大阪市史』全8冊(1911~1913)』『大阪市編『明治大正大阪市史』全8冊(1933~1935・日本評論社)』『『昭和大阪市史』全8冊(1951~1954・大阪市)』『中沢誠一郎編『大阪』(1962・有斐閣)』『『昭和大阪市史 続編』全8冊(1964~1969・大阪市)』『三品彰英編『大阪――昔と今』(1964・保育社)』『宮本又次編『大阪の研究』全5冊(1968~1970・清文堂出版)』『井上薫編『大阪の歴史』(1979・創元社)』『『角川日本地名大辞典27 大阪府』(1983・角川書店)』『『日本歴史地名大系28 大阪府の地名』(1986・平凡社)』『『新修大阪市史』全10冊(1988~1996・大阪市)』『大阪府の歴史散歩編集委員会編『新版 大阪府の歴史散歩』上・下(1990・山川出版社)』『大阪市史編纂所編『大阪市の歴史』(1999・創元社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android