大門村(読み)だいもんむら

日本歴史地名大系 「大門村」の解説

大門村
だいもんむら

[現在地名]岡崎市大門町・上大門かみだいもん

東は上里かみさと村・藪田やぶた村・大樹寺だいじゆうじ村、南は日名ひな村、西は大きく湾曲する矢作川を高い堤防をもって区切り、川を隔てて北野きたの森越もりこし舳越へごしの村々と接する。慶長九年(一六〇四)上下に分れ、元禄以後また中大門・大門新田が分立。村名について一説に、奈良朝の頃矢作北野やはぎきたのに七堂伽藍の薬師寺があり、その山門をこの地に築いたことによるというもの。また一説に村内八剣やつるぎ神社が昌泰三年(九〇〇)に紀伊国熊野の大門神社の宝剣を護持してこの地に降臨したことによるともいう。

近世を通じて岡崎藩領、額田手永に属す。享和二年書上に上大門村は高一四一石余、人別一三六人、うち男六四・女七二。

大門村
おおかどむら

[現在地名]常陸太田市上大門かみおおかど町・下大門しもおおかど

源氏げんじ川の渓谷部に位置し、北は西河内上にしごうとかみ村。四方は山地帯の村。文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「大門」、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「大門村」とある。「新編常陸国誌」によると文化二年(一八〇五)の戸数一六三。天保一三年(一八四二)の検地のときに上下二村に分村した。上大門村は田畠四四町余、分米三二六石余、下大門村は田畠七〇町余、分米七一五石余。

大門村
だいもんむら

[現在地名]福山市大門町大門・大門町一―五丁目・伊勢丘いせがおか一―八丁目

大門湾の北を限る地域で、古代には備後国に入る門戸として、港津が深く入込んでいた。北部の幕山まくやま春日かすが坪生つぼうに至る西にし谷・ひがし谷が入込み、その間に丘陵が突出し付近に集落が形成されている。中世には坪生庄に属し、当村を含む五ヵ村の産土神八幡社が烏帽子えぼし山にある。発掘調査によって、祭祀遺物と考察された土師器や中国宋代の竜泉窯青磁・白磁の類が出土し、平安時代末から鎌倉時代にかけて烏帽子山頂で祭祀が行われたことを物語る。

大門村
だいもんむら

[現在地名]福知山市字大門

姫髪ひめがみ山の西南麓にあり、集落は標高八〇―一〇〇メートルの高地にある。東は和久寺わくでら村・今安いまやす村、南は拝師はいし村、西は和久山の東峰で石場いしば村、北は姫髪山・和久山で上小田かみおだ村に接する。古代には、山陰道丹後別路が当地を通っていたと考えられている。村の北端姫髪山と和久山との間にヒラゲ峠(約一一〇メートル)があり、北裏のまき川流域から福知山城下へ向かう近道として、明治中期までは大門街道とよばれてよく利用された。

村域内に古墳が十数基ある。横穴式古墳が多いが、小字妙見みようけんには方墳もある。

大門村
だいもんむら

[現在地名]院内町大門

恵良えら川の支流院内川の上流部に沿って続く谷間の山間部に位置し、東は宮原みやばる村、南と西は月股つきまた村。村名は竜岩りゆうがん寺の大門から名付けられたといわれる。年未詳五月二一日の田原紹忍書状(恵良文書)に「大門・小河内証文細砕令披見候」とみえる。当村の集落に小河内おごうちがあり、永正八年(一五一一)五月三日の斎藤益実書状(同文書)に「宇佐郡長寿寺江某先祖寄進地小河内上下両屋敷分事」とみえる。長寿ちようじゆ寺に斎藤氏の先祖が寄進した土地は、同年五月二三日の大内氏奉行人連署奉書(同文書)によると、恵良盛綱に宛行われた。

大門村
だいもんむら

[現在地名]長門町大字大門

依田窪よだくぼ南部の大門川に沿う村。北より四泊よとまり岩井いわいみやうえ窪城くぼき入大門いりだいもん小茂谷こもがやの集落が点在する。東は芦田あした(現立科町)、西は和田わだ(現和田村)、南は北山きたやま(現茅野市)、北は長窪新町ながくぼしんまち

永正三年(一五〇六)下諏訪春秋両宮御造宮帳に下諏訪春宮二之御柱造宮料として「依田庄大門之分 合籾廿俵六升此代四貫六拾文」を割り当てられている。各集落を結ぶ大門だいもん峠越えの道は、諏訪地方と小県地方とを結ぶ古代・中世の重要路で、永禄四年(一五六一)一二月、武田信玄は長窪と大門とに「右如此の印判にあらすハ、一切伝馬をいたす遍可ら須」(清水家文書)と朱印状を与えているから、武田氏の宿駅だった。

大門村
だいもんむら

[現在地名]社町大門

加古川左岸の平野部に位置し、北は福吉ふくよし村。中世は山城石清水いわしみず八幡宮領福田ふくだ保に含まれていた。文明一二年(一四八〇)九月五日の沙弥行恵下地譲状案(光明寺文書)に、「福田保大門村大将軍西給名内」とみえる。大門の字居垣内いがきうちにある阿弥陀堂の左手には、ほぼ同じ高さの凝灰岩製の五輪塔二基がある。二つとも無銘だが、その様式からみて一つは南北朝時代、もう一つは室町時代初期に造立されたと考えられる(新修加東郡誌)。慶長国絵図に村名がみえる。

大門村
だいもんむら

[現在地名]稲川町大門

皆瀬みなせ川と成瀬なるせ川の複合扇状地に位置し、村の中を湯沢町(現湯沢市)から小安おやす(現皆瀬村)を経て仙台藩領へ通ずる脇街道が南北に通る。北と東は三又みつまた村、南は八面やつおもて村、西は皆瀬川を隔てて峰境に湯沢町・杉沢すぎさわ(現湯沢市)と接する。

「六郡郡邑記」に「古に駒形根の神の大門有しよし」と村名の起源を伝える。古代から駒形神として、栗駒くりこま(須川岳)は山岳宗教の対象になっており、その登山道入口の一になっていたものと考えられる。

大門村
だいもんむら

[現在地名]郡家町大門・はな

殿との村の東、八東はつとう川北岸に位置し、若桜わかさ往来が通る。西部に枝郷の花村がある。大門の地名は当地がかつて新興しんごう(現八東町)の境内で山門があったことにより、花村は同寺の花園の跡地という(因幡志)。古代―中世には曰理わたり郷に含まれていたとみられ、永禄六年(一五六三)四月一一日の山名豊数宛行状(中村文書)に「大門分三町」などとみえ、亡父中村伊豆守の遺領である当地などの相続を中村鍋法師丸に申付けている。

大門村
だいもんむら

[現在地名]浅井町大門

当目とうめ村の西、草野くさの川右岸に位置。北部山地に大門古墳群がある。かつて当地には下草野五山に数えられ、役小角を草創とする大聖寺があったといい、弘長三年(一二六三)三月一〇日の小谷寺磬銘に「大聖寺」とみえ、乎弥おみ神社(現伊香郡余呉町)の長享三年(一四八九)九月吉日の奥書をもつ版本大般若経巻六〇〇には「草野荘大聖寺常住」とある(東浅井郡志)。享禄元年(一五二八)一二月の仏田引付帳(同書)によれば四八坊からなる大寺であったが、織田信長の兵火によって廃絶し、不動明王を安置する小堂(現在の真言宗西林院)のみが残ったという。

大門村
だいもんむら

[現在地名]上山市大門

萱平かやたいら川と菖蒲しようぶ川の合流点にあり、西は大久保おおくぼ村。往時村の入口に正部山極楽寺の山門があったので、地名になったと伝える。氏神は阿弥陀堂で、文明一二年(一四八〇)の板碑がある。古くから蔵王山登拝の入口で大門口とよばれ、置賜おきたま地方からの登拝者は柏木かしわぎ峠を越え、楢下ならげ・大門を経て坊平ぼうだいら中川なかがわ口登拝路と合流した。地内には山の神が祀られ、里の宮・二の宮・山の宮がある。正保郷帳では田方一五四石余・畑方一六二石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(三浦文庫)では高三二一石余、うち新田四石余、反別は田九町八反余・畑二二町二反余で、銭五四〇文・薪四七駄・炭四五俵が課された。

大門村
だいもんむら

[現在地名]福崎町東田原ひがしたわら

田尻たじり村の東に位置し、保木ほき(三二二メートル)南方の洪積台地上に立地する。神東じんとう郡に属する。中世には田原庄に含まれた。永正九年(一五一二)一〇月日の田原庄本所分段銭田数注文(九条家文書)に名主である大門の新右衛門と大郎左衛門の名がみえる。なお保木山は保延七年(一一四一)六月二三日の鳥羽院庁下文案(九条家文書)川述かわのべ南条の北限としてみえる。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方四三七石余・畑方六六石余、「旱損所・芝山有」と注記される。ほかに妙徳みようとく(神積寺)領三〇石があった。

大門村
だいもんむら

[現在地名]揖保川町大門

はら村の北西に位置し、周囲を山に囲まれる。北部山麓には天平七年(七三五)行基開基と伝える長福ちようふく(現宝積寺)がある。文禄四年(一五九五)八月六日の揖西郡之内竹島之庄長福寺村検地帳(山下家文書)が残り、近世初期には長福寺ちようふくじ村と称していた。同検地帳によると高一四三石余・反別一一町九反半、名請人数六四、うち他村からの入作百姓一四、村内百姓五〇(うち屋敷所持人数五)

大門村
おおかどむら

[現在地名]多古町大門・大高おおたか

高津原たかつはら村の北東、栗山くりやま川右岸に位置する。江戸時代末期に描かれた村絵図(大門区有)によると、高津原村との村境から北に向かって水田が広がり、西側が入会地となっている。慶長四年(一五九九)の検地で高二二七石余が打出された(「部冊帳」伊能家文書)。寛文四年(一六六四)の松平忠勝領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、佐貫藩領であった。元禄一一年(一六九八)の検地帳写(山田家文書)では反別は田八町六反余・畑三町五反余・屋敷一反余。

大門村
おおかどむら

[現在地名]砺波市大門

坪内つぼのうち村・矢木やぎ村の南、千保せんぼ川跡の左岸にある。村名は昔王様がお越しの所であったことにちなむと伝える(貞享元年「村名由緒書上」加越能文庫)。元和五年(一六一九)の家高新帳には「大かと」とあり、太田組に属し役家数五。正保郷帳では高三二九石余、田方二一町四反余・畑方五反、新田高五二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二五四石、ほかに同六年の新田高四七石があり、免はともに四ツ、小物成は野役九匁・鮎川役四匁・鱒役二匁(三箇国高物成帳)。役家数は延宝四年(一六七六)には一三軒(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。文政八年(一八二五)には若林組、天保一〇年(一八三九)以後は庄下組に属した。

大門村
だいもんむら

[現在地名]大門町大門

大門川(庄川)右岸に位置し、承応二年(一六五三)村の南部に大門新町が町立てされた。大門川の渡河は渡船によっていたが、正保三年(一六四六)架橋されたと伝える。地名の由来は二上山養老ようろう寺の由来書(越中志徴)に「境内構四門(中略)南門者大門村に有之」とあり、同寺の南門があったことに由来するという説、水戸田みとだ山中に鎮座する熊野社への参拝路が熊野往来とよばれ、草島くさじま(現富山市)への道との分岐点が熊野社の大門先と称されたことからという説がある。

大門村
だいもんむら

[現在地名]前原市大門

高来寺こうらいじ村の南、川原かわばる川右岸に位置し、西は井田いた村。小早川時代の指出前之帳では井田村の内。慶長七年(一六〇二)の検地高六一八石余、うち大豆五六石余(慶長石高帳)。福岡藩領。元禄五年(一六九二)の高六三四石余、うち畠五四石余、反別三八町五反余、家数三九・人数二四二、社二・寺二(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数四〇(うち麹家一)・人数一八一(うち僧五・山伏二)、牛一・馬二九(別本「続風土記附録」)。文政八年(一八二五)当時の集落は本村(二七軒)染井山そめいさん(一七軒)の二ヵ所(「怡土郡中村々村居書上合帳」三苫家文書)

大門村
だいもんむら

[現在地名]塩尻市大字大門

中山道に沿い、東は川を境に大小屋おおごや村、南には山地を負い、西は平出ひらいで村と接し、北は広大な桔梗ききようはら台地が展開する。

田川の流域は水田耕作が早くから開けた。柴宮しばみや神社境内から銅鐸の完形品が発見されており、長野県が銅鐸分布圏に入ることが立証された。また国道二〇号沿いの大門北東部からは奈良時代の瓦塔が出土し、その北の墓地付近には経塚や柱狩はしらがり・八日田(八日堂か)などの地名があることからこの付近に大寺があり、大門はその寺の大門であった所だとの伝承もある。

中世には塩尻郷東条ひがしじように属していた。桔梗ヶ原一角の寒村で、宝暦一〇年(一七六〇)の大門村明細帳(川上家文書)では村高三三九石余で田方は六割の二〇二石である。

大門村
だいもんむら

[現在地名]青梅市大門

塩船しおぶね村の南東に位置し、かすみ川が流れる。河岸かし街道・川越道などが通る。北西の塩船観音寺の大門が置かれたためとも、東の今寺報恩いまでらほうおん寺の大門前であったことに由来する地名ともいう(杣保志)。田園簿に村名がみえ、田三五石余・畑一六二石余で、幕府領。元禄四年(一六九一)の年貢割付状(青梅市教育委員会蔵)では高三一二石余で田二町三反・取米五石六斗余、畑四六町七反余・取永四六貫三七一文、ほかに綿売出永五五〇文・紬売出永一一八文、この納方は金納四五貫九八六文ほか荏納永六二文余・綿納永七〇〇文余・紬納永二九六文余となっている。

大門村
おおもんむら

[現在地名]武儀町下之保しものほ 大門おおもん

湾曲する津保つぼ川右岸に位置し、村の北部で支流祖父そぶ川を合流する。対岸は簗瀬やなせ村、南はまち村。合流点の西に平成へなり谷が延び、高曝たかじやれ山の北を迂回して平成山の東麓に至る。「新撰美濃志」は「だいもん」と訓ずる。文禄三年(一五九四)九月五日の下之保村山年貢折紙(森田文書)に「大もん村」とみえる。元禄郷帳に下ノ保大門村と記され、高六七石余。ほかに日龍峯にちりゆうぶ寺領六石があった(旧高旧領取調帳)

大門村
だいもんむら

[現在地名]梁川町大関おおぜき

北に接する梁川村と大石おおいし(現霊山町)方面を結ぶ道が通り、南は関波せきなみ村。村名は霊山りようぜん寺の大門があったことに由来すると伝え(信達二郡村誌)、熊野神社の鎮座地が大門跡といわれ、数個の礎石が現存する。万治二年(一六五九)関波村から分村して成立したといわれる(同書)。古高新高帳に村名がみえ、米沢藩領時代の古高一千一五四石余、幕府検地による新高八九〇石余。

大門村
だいもんむら

[現在地名]出雲崎町大門

川西かわにし村の北、出雲崎町からの道とはま街道とが当地で交差する。集落は島崎しまざき川左岸にある。正保国絵図に村名がみえ幕府領。以降の支配の変遷は米田こめだ村と同じ。享保一八年(一七三三)七日市なのかいち鳥越とりごえ(現三島町)市野坪いちのつぼ三ヵ村の定請山境改の際に、脇野町わきのまち(現三島町)と当村庄屋が立会いとなっている(「定請山取替証文」山田敏郎氏蔵)

大門村
だいもんむら

[現在地名]今庄町大門

北流する日野川に沿い、北は合波あいば村、南は荒井あらい村。永正七年(一五一〇)四月五日付今庄地頭方大工職事(「南条郡誌」所収島崎家文書)に「上今庄大門住人三郎次郎」とみえる。慶長三年(一五九八)の越前国南仲条郡上今庄内大門村御検地帳(大門区有文書)によれば上田四町九反余・中田二町二反余・下田一町三反余、上畠三町一反余・中畠一町八反余・下畠三町九反余・河原畠一反七畝余・山畠八反六畝余、中田当荒四反二畝余・下田永荒一町六反余、屋敷六反八畝余であった。

大門村
だいもんむら

[現在地名]愛知川町長野ながの

長野中ながのなか村の南東に位置する。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名があり高一千七九石余。天保八年郷帳では一千八七石余。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば、男二二七・女二二四、寺社方男一・女二。明治七年(一八七四)長野中村と合併して長野村となる。

大門村
だいもんむら

[現在地名]黒田庄町大門

津万井つまい村の北、加古川中流域西岸に位置する。当地に津万井堰が設けられていた。慶長国絵図に村名が記載される。正保郷帳では田方一五四石余・畑方七一石余、幕府領。明和六年(一七六九)尼崎藩領となり幕末に至る(「御用向留帳」岡本家文書、嘉永七年「尼崎藩領郷村高辻帳」尼崎市立図書館蔵)。天保郷帳では高二二〇石余。文化一三年(一八一六)尼崎藩は藩札播州飛地札を発行し、引替取次は当村の本間七右衛門・油屋弥兵衛・糸屋弥右衛門が行っていた(「尼崎藩播州飛地銀札」脇坂家蔵)

大門村
だいもんむら

[現在地名]守山市大門町

金森かねがもり村の南西に位置。志那しな街道が通る。元和七年成箇帳(芦浦観音寺文書)に村名がみえ、幕府領の高四九石余(うち引方はいもち・日損四石余など)、有高四四石余、年貢高九石余(うち一石余が大豆納)。寛永石高帳によれば高三五七石余で、うち一八七石余が膳所藩領、一七〇石余が幕府領。以後変わらず幕末に至る。反別は田三三七石余・畑一六石余、永荒三石余(慶安高辻帳)

大門村
だいもんむら

[現在地名]滑川市大門

上市かみいち川東岸に位置し、北は下梅沢しもうめざわ村、南は有金ありかね村。中世に土肥美作守の家臣宮崎権進が拠った有金館の大門があったのが村名の由来と伝える。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四一石、免四ツ、小物成は鮭役一匁(退転)であった(三箇国高物成帳)

大門村
だいもんむら

[現在地名]揖斐川町小島こじま

野中のなか村の西に位置する。天正一八年(一五九〇)一月九日の五ヶ村百姓中検地覚(粟野国雄氏所蔵文書)に村名がみえ、大枡量りの二〇九俵一斗九升を京枡に改め、高八七石余の定米となっている。慶長一五年(一六一〇)徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)に大門村五七石余とあり、野年貢ともに石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)に与えられている。慶長郷帳では高三〇三石余。

大門村
おおかどむら

[現在地名]庄内町大門

庄内川流域に位置し、北は元吉もとよし村。小早川時代の指出前之帳では大門村の田一八町余(分米一九〇石余)・畠一町六反余(分大豆七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高四七一石余、うち大豆三五石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高四七二石余、人数一〇〇(田圃志)

大門村
だいもんむら

[現在地名]生駒市大門町

生駒山東南麓、ふじ村北部に隣接する。慶長郷帳の村高一六〇・五二石、幕府領(代官大久保長安)。元和元年(一六一五)郡山藩(水野勝成)領となり、廃藩置県に及んだ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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