大蔵卿局(読み)おおくらきょうのつぼね

朝日日本歴史人物事典 「大蔵卿局」の解説

大蔵卿局

没年:元和1(1615)
生年:生年不詳
安土桃山から江戸初期,淀殿(豊臣秀吉側室)の乳母大野治長の母。淀殿の側近として重きをなし,秀吉没後大坂城を出た孝蔵主に代わり奥を取りまとめ,豊臣家存続のため,子の治長と共に奔走した。秀吉の冥福を祈願した方広寺大仏殿の鐘銘が徳川家康から不吉であると追及されたとき(方広寺鐘銘事件)には,片桐且元と共に陳謝のため駿府に赴いている。強硬派の局はかえって家康から優遇されたが,且元は厳しい処遇を受け,家康から人質と転封を要求されたと報告。局はこれを且元の策謀と非難したので,淀殿の怒りを買った且元は摂津茨木に退いた。その後も局は徳川方との交渉の中心となったが,大坂落城に際し淀殿に殉じた。<参考文献>桑田忠親女性の名書簡』

(西村圭子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大蔵卿局」の解説

大蔵卿局 おおくらきょうのつぼね

?-1615 織豊-江戸時代前期,淀殿(よどどの)の乳母。
大野治長の母。慶長19年京都方広寺鐘銘事件で,淀殿の使いとして,豊臣秀頼の陳謝使片桐且元(かつもと)に同行。駿府(すんぷ)の徳川家康に面会し和解をもとめたが,和解はならず大坂の陣がおきる。慶長20年5月8日大坂城落城に際し自刃(じじん)した。

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