大聖寺(読み)ダイショウジ

デジタル大辞泉 「大聖寺」の意味・読み・例文・類語

だいしょうじ〔ダイシャウジ〕【大聖寺】

石川県加賀市の中心部の地名。中世、白山五院の一つの大聖寺の門前町として興った。絹織物業で有名。

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精選版 日本国語大辞典 「大聖寺」の意味・読み・例文・類語

だいしょう‐じ ダイシャウ‥【大聖寺】

[一] 山形県東置賜郡高畠町にある真言宗智山派の寺。山号は松高山。大同二年(八〇七)徳一(とくいつ)が創建。江戸時代、院家となり住持は将軍との謁見を許された。日本三文殊(もんじゅ)の一つで亀岡文殊堂の通称で知られる。
[二] 石川県加賀市の中心市街地の地名。中世、大聖寺の門前町としておこり、近世、前田氏大聖寺藩十万石の城下町として発達。絹・人絹織物を生産。
[三] 明治四年(一八七一)七月の廃藩置県により成立した県。加賀国(石川県)江沼郡および能美(のみ)郡の一部を含めて設置。同年一一月に金沢県に合併された。翌年、金沢県は石川県と改称。

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日本歴史地名大系 「大聖寺」の解説

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]高畠町亀岡

文珠もんじゆ山の北西麓に古杉老松に囲まれてあり、通称亀岡文殊かめおかもんじゆ堂で知られる。松高山と号し、真言宗智山派(本山智積院)、本尊大日如来。堂宇は文殊堂(本堂)・庫裏・山門・鐘楼などがあり、文殊堂に祀る文殊菩薩像は日本三文殊の一として信仰を集め、最上郡のほか陸奥伊達だて信夫しのぶ二郡、さらに越後からの参詣者も多かったという。文殊堂は大同二年(八〇七)徳一の開創と伝え、堂塔伽藍は飛騨の工匠の建立という。文殊菩薩像は中国五台山から請来したものとも、大同元年伊勢度会わたらい郡神乳山に出現、翌年当地に移されたものとも伝え、天長五年(八二八)に制度化された諸国寺院の文殊会は、出羽においては当山で執行されたという説もある。文殊菩薩の脇立賓頭盧尊者像は徳一の作と伝え、本堂擁護の仏と称される。徳一は藤原仲麻呂の子といわれ、奈良興福寺で法相宗学を学び、のち東大寺に移った高僧。当時の新興仏教である最澄の天台宗、空海の真言宗を批判、北関東から会津に下向して、会津勝常しようじよう(現福島県河沼郡湯川村)を開創したと伝える。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]中富町八日市場

富士川の西岸、川沿いに位置する。三守皇山長光王院と号し、真言宗醍醐派。本尊不動明王。「甲斐国志」および慶応四年(一八六八)提出の由緒(寺記)によれば、円入を開山、新羅三郎義光を開基とし、長治二年(一一〇五)の創建という。本尊は嵯峨天皇の詔勅により弘法大師が作り、清涼殿に約三〇〇年間安置されていたのを、承安元年(一一七一)義光の曾孫である加賀美次郎遠光が不動明王の加護を念じて妖光から禁中を守衛した功績により高倉天皇から下賜された。遠光は不動明王を本尊として堂宇を作り、のちに勅額を賜って「三守皇山長光王院大聖不動明王寺」と号した。永禄四年(一五六一)川中島合戦の際、武田信玄は不動明王の託宣により勝利し、寺領一〇〇貫文を寄進した。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]越谷市相模町

元荒川の南岸にある。真言宗豊山派。真大山と号し、別に大相模おおさがみ不動院(尊)とも称する。本尊は不動明王で大聖寺は不動院の別当。寺伝によれば、不動院は天平勝宝二年(七五〇)に相模国おお(現神奈川県伊勢原市)から伝良弁作の不動明王を持帰り安置したことに始まるといい、享保一二年(一七二七)の真大山縁起考略(寺蔵)に「当山ノ霊像ハ是レ大山ノ尊像ト同木ノ形像、当尊ハ殊更ニ同木ノ本根ヲ以先ツ試ニ刻ミ玉フ故ニ此里ノ名ト山号トアリト云」と所在地名(大相模・相模)と山号の由来を記す。戦国期には在地領主の帰依を得、相当の勢力を有していたとみられ、岩付いわつき(岩槻)城代北条氏繁は元亀三年(一五七二)二月九日不動院宛に判物(寺蔵文書)を発し、岩付の祈願所であることを確認し、諸役免除を告げている。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]上京区御所八幡町

臨済系単立寺院。尼五山の一。聖護しようご院が延宝三年(一六七五)に類焼し、現在地(京都市左京区)に移った跡に建てられた。景愛けいあい(現上京区)開祖の如大無着尼の法統を継ぐ。開基は光厳天皇妃の無相定円禅尼で、貞治七年(一三六八)光厳天皇の法事を京都天龍寺で行ったとき、春屋妙葩について落飾した。足利義満が禅尼を室町むろまち御所の岡松おかまつ殿に迎え、ここに居したのが大聖寺の最初であり、岳松山と号した(平安通志)

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]日野町大窪 上大窪町

近世の上大窪かみおおくぼ町南に位置する。瑞雲山竹林院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。元来は薬師堂であったが、慶長三年(一五九八)頃に岡本おかもと(現滋賀県蒲生町)円通えんつう寺の安翁がここに隠棲して一寺とした。安翁はかつて呉服ごふく町の信楽しんぎよう院にも在院していたことから、当初は同院の寺号にちなみ大松だいしよう寺と号し、同七年の日野大窪村の検地では、検地奉行彦坂元正と安翁が旧知であったことから寺地二反二畝余が除地とされた(「日野町志」など)

大聖寺
だいしようじ

大聖寺川下流、錦城きんじよう(古城山)東麓一帯をさす中世以来の地名。白山宮加賀馬場に属した寺名に由来し、大正持・大勝寺・大正寺などとも書かれた。「白山之記」に白山五院の一つとして大聖寺がみえる。同寺は初め錦城山にあり、のちその南に続く小丘に移ったといわれるが、錦城山の寺跡は未確認で廃絶の時期も明らかではない。また現加賀神明宮境内社白山神社の鎮座地を当初の所在地とする説もある(加賀市史)

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]浪江町北幾世橋 北原

北原きたはらにあり、竜灯山と号し、真言宗室生寺派。本尊不動明王。創立年代は不詳だが、永享年間(一四二九―四一)智慶の再興という。中世には安楽あんらく寺と称し、標葉氏の祈願寺であったと伝える。「永享七乙卯天八月廿一日大檀那平朝臣清隆安楽寺願主智慶」の銘のある梵鐘を、寛文一二年(一六七二)藩主相馬忠胤が改鋳したという記録があるが(奥相志)、現存しない。近世には相馬家の祈願所となり、標葉しねは郡内に三三寺の末寺をもっていた。現在の寺地は相馬市にある浄土宗興仁こうにん寺のものであった。興仁寺は宝永五年(一七〇八)相馬昌胤の創建。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]犬飼町柴北 柴北上

柴北しばきた川の南西岸、字山内やもちにある。恵日山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は阿弥陀如来。寺伝では南北朝時代不肯正受の開創とされ、境内の開山塔とよばれる宝篋印塔(県指定文化財)には「貞治五年丙午 不肯正受禅師二月初八烏」の銘がある。銘文は江戸時代の後刻と考えられるが、塔自体は形式からみて南北朝時代と推定しても大過ない。貞治五年(一三六六)は不肯正受の没年であろうか。また「大聖寺殿 長禄三己卯天 耀山光君大居士 二月初六日」の後刻銘文のある宝篋印塔もある。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]土浦市永国

水戸街道の西側にある。羽黒山今泉院と号し、真言宗豊山派。本尊は大日如来。小田領四ヵ寺の一つ。応安七年(一三七四)九月二一日の小田孝朝下文(大聖寺文書)に「下 権律師祐慶 信太庄永国郷今泉寺別当職半分田地弐段半坊敷半事」とあり、初めは現在地の約三〇〇メートル東の字亀井かめい今泉こんせん寺としてあり、南北朝末期か室町初期に平塚ひらつか(現筑波郡谷田部町)に移り、大聖寺と称した。天正一二年(一五八四)二月二六日の光台院定存の相定条々(大聖寺文書)に「永国大聖寺」とあり、天正頃には現在地に移っていた。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]岡崎市中之郷町 元山

矢作川堤防のすぐ下に、集落から離れて松の大樹に囲まれてある。南に面した山門の前には水田が広がり、敷地も広く、正面に伽藍、右手に鐘楼・庫裏がある。無動山月照院と号し浄土宗鎮西派。本尊阿弥陀如来。正応年中(一二八八―九三)藤田性真の開基といわれ、一時は藤田派の三河地方での大本寺で七堂伽藍を備えて信仰の中心であったが、織田信秀の碧海へきかい地方への進攻の際に兵火によって全焼した。徳川家康の命によって再興され、武運長久・万民和楽の祈願所として朱印地二三石二斗余を賜る。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]飯山市大字飯山

曹洞宗常葉山(韶陽山)大聖寺。寺伝によれば元亀三年(一五七二)有尾ありお山根に開基。堀直寄が現地に移し菩提所とし、佐久間氏も安政以来三代の牌所とした。

慶長一六年(一六一一)堀丹後守直寄が「飯山大正寺分、山屋敷、如前々不可有相違候」(大聖寺文書)と寺領を安堵し、寛永九年(一六三二)には佐久間備前守安次が「飯山大正寺山林並屋敷高合五石分、少将様御代堀丹後守殿所附与」(同文書)と安堵した。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]豊川市牛久保町

牛頭山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「牛久保町誌」によると、享禄二年(一五二九)の創立と伝え、この頃一色刑部少輔家の位牌所として牛窪うしくぼ城中にあったという。永禄三年(一五六〇)五月一九日今川義元が桶狭間おけはざまの戦に討死し、家来某が死体をひそかに当寺に運んで埋葬し、同六年一一月二八日に嫡男氏真が墓を立てたという。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]作東町大聖寺

大聖寺集落にある真言宗大覚寺派寺院。恵竜山と号し、行基作という不動明王を本尊とする。「東作誌」によれば京都仁和寺末で、古くは坊数も多かったが、同書には本坊・上坊・藤坊が記される。慶長九年(一六〇四)の森忠政判物(大聖寺文書)によれば境内五〇石が寺領となっている。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]北方町大字大崎字杉岳

現北方町北西部の山中にある。杉岳山と号し、真言宗。寺伝によれば和銅年間(七〇八―七一五)に行基の開山といい、本尊は不動明王。寺宝の中に清の銅鏡と国信作の明王剣とよばれる名刀がある。

豊臣秀吉朝鮮出兵にあたって、肥前の名護屋なごや(現東松浦郡鎮西町)に在陣のおり、九州の名刀剣を集めて城内で縦覧した。

大聖寺
だいしようじ

[現在地名]取手市小文間

西方にしかた地区東部に所在。高竜山と号し、真言宗智山派。本尊不動明王。当寺は麻疹はしか不動の名で知られ、丈余の不動明王像頭部に本尊が納められている。

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百科事典マイペディア 「大聖寺」の意味・わかりやすい解説

大聖寺【だいしょうじ】

加賀国江沼郡,現石川県加賀市の錦城(きんじょう)山東麓一帯をさす中世以来の地名で,近世には大聖寺藩の城下町。地名は白山宮加賀馬場に属した寺名に由来。南北朝期,錦城山に大聖寺城が築かれ,以後,加賀一向一揆が平定されるまでこの城をめぐって攻防が繰り返された。1583年丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺に配され,1639年には金沢藩主3代前田利常の三男利治が7万石を分知されて大聖寺藩を興(おこ)した。利治は錦城山の東麓に藩邸を造営,その東に城下町が形成された。町人町は城下中央を南西から北東へ抜ける北陸街道沿いに発達,その中心である本(ほん)町には旅宿が多く,旅籠(はたご)町とも呼ばれた。町人町は2人の町奉行の支配下にあり,町年寄は藩によって有力町人のなかから選ばれた。九谷(くたに)焼を再興した吉田屋は福田町の有力町人。特産は絹織物で,明治維新後は武家屋敷跡を利用して多くの機織工場ができ,近隣農村部の養蚕・製糸業の発達と相まって発展したが,第2次大戦中の機業整備で転業を余儀なくされ,戦後も低迷を続けた。現在は九谷焼や観光産業に活路を見いだしている。1958年大聖寺町などの5町と4村が合併して加賀市が成立。

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改訂新版 世界大百科事典 「大聖寺」の意味・わかりやすい解説

大聖寺 (だいしょうじ)

加賀国(石川県)江沼郡の城下町。地名は白山五院の一つ,大聖寺があったことによるという。1600年(慶長5)8月,徳川家康の命で加賀藩2代藩主前田利長は,西軍に属する大聖寺城を攻撃して城主山口宗永を自刃させ,関ヶ原の戦の前哨戦として百万石大名の地位を確保した。城は15年(元和1)廃されたが,39年(寛永16)3代藩主前田利常は大聖寺藩7万石を分藩し,三男利治を藩主とした。大聖寺町は城下町といいながら城郭はなく,藩主は陣屋(藩邸,御館と呼称)に住んだ。城下に住む知行地を給された侍は18世紀中期には171人,町人町では17世紀前期には本町など10町があり,戸数313軒。17世紀末には399軒に増加している。下級侍の家の女性の内職として始まった大聖寺絹や1824年(文政7)再興された吉田屋窯(九谷焼)が知られている。1958年合体して加賀市となる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大聖寺」の意味・わかりやすい解説

大聖寺
だいしょうじ

石川県南西端、加賀市の中心地区。旧大聖寺町。白山(はくさん)五院の一寺に由来し、江戸時代は加賀藩の支藩大聖寺藩10万石の城下町として発達し、明治以降は江沼(えぬま)郡役所が置かれた。県南部の行政、経済、文化の中心。商工業も発達、伝統をもつ絹織物業は有名。中世の大聖寺城跡のある錦城(きんじょう)山、大聖寺川畔の藩主の別邸江沼神社長流亭(ちょうりゅうてい)(国の重要文化財)、式内社菅生石部(すごういそべ)神社などがある。

[矢ヶ崎孝雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大聖寺」の意味・わかりやすい解説

大聖寺
だいしょうじ

石川県南西部,加賀市の中心市街地,旧町名。平安時代に大聖寺の門前町,江戸時代には大聖寺藩の城下町として発展。伝統的な絹織物の産地で,自転車部品の製造など県南部の商工業中心地。

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デジタル大辞泉プラス 「大聖寺」の解説

大聖寺

千葉県いすみ市にある天台宗の寺院。室町時代に建てられた不動堂は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の大聖寺の言及

【織物】より

…特に各種の染技法は目覚ましい進歩をとげ,それにともなって羽二重や綸子,紗綾,縮緬などの白生地の生産が進展した。現在もなお縮緬や羽二重の主要生産地である京都府峰山,滋賀県長浜,石川県大聖寺などが,白生地生産の機業地として活発な活動をし始めたのは江戸中期からである。また各藩は領国経済の充実,発展に力を尽くし,各地に特色ある染織産業の発達をみることとなった。…

※「大聖寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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