日本大百科全書(ニッポニカ) 「大粛清」の意味・わかりやすい解説
大粛清
だいしゅくせい
Great Purges
1930年代後半のソ連で、スターリンの指導の下に、国家機関によって行われた共産党員、知識人および大衆に対する大規模なテロルをいう。犠牲となった死者は800万~1000万人ともいわれるが、推定数字以外はない。34年初めの第17回ソ連共産党大会は「勝利者の大会」とよばれ、社会主義建設の勝利と党内反対派の屈服が宣言された。しかし、同年12月のキーロフ暗殺事件を契機に、スターリンは政治テロに対して死刑判決の即時執行などの非常措置の導入を決定。またこの事件を扇動したとして、旧反対派の指導者ジノビエフ、カーメネフらが逮捕され、禁固刑に処された。これに続き、35年のうちに古参ボリシェビキ協会や政治徒刑囚・流刑囚協会など、古くからの革命家の組織が解散させられた。その後、旧反対派の指導者たちが、外国人記者を前にした一連の「見せ物裁判」で、罪を「自白」し、「人民の敵」として処刑された。ジノビエフ、カーメネフらがスターリン暗殺を謀ったとするトロツキスト・ジノビエビスト・テロリスト本部(合同本部)事件(1936.8)、ピャタコフ(1890―1937)らの反ソ破壊活動に対する並行本部事件(1937.1)、およびブハーリンらのレーニン・スターリン暗殺未遂に対する右翼=トロツキスト・ブロック事件(1938.1)は三大粛清裁判とされる。37年6月には、元帥トゥハチェフスキー以下軍首脳部も、ドイツのスパイとして、秘密裁判で処刑された。粛清は、旧反対派のみならず、スターリンに忠実であった党幹部からコルホーズ農民、また外国人共産主義者にも及んでいる。しかも、彼らの大半は裁判にもかけられず、突然に逮捕され、銃殺されたり収容所に送られた。
この粛清は、一方での、社会主義社会の基礎の完成をうたった1936年の「スターリン憲法」の制定とスターリンの神格化の進行、他方での外敵に対する警戒と極端なナショナリズムのなかで行われた。この大粛清の虚構性については、亡命中のトロツキーが告発を続けたが、ソ連では、スターリンの死後、第20回党大会(1956)におけるフルシチョフの「秘密報告」によって初めて正式に認められ、生存者の収容所からの復帰と多くの人々の死後の名誉回復がなされた。ジノビエフ、ブハーリンらの名誉回復は行われなかったが、1988年ペレストロイカに伴い、名誉回復された。
[藤本和貴夫]
『菊地昌典著『増補 歴史としてのスターリン時代』(1973・筑摩書房)』▽『メドヴェージェフ著、石堂清倫訳『共産主義とは何か――スターリン主義の起源と終結』上下(1973、74・三一書房)』▽『ロバート・コンクェスト著、片山さとし訳『スターリンの恐怖政治』上下(1976・三一書房)』▽『アイザック・ドイッチャー著、大島かおり訳『大粛清・スターリン神話』(1985・TBSブリタニカ)』▽『オレーブ・V・フレヴニューク著、富田武訳『スターリンの大テロル――恐怖政治のメカニズムと抵抗の諸相』(1998・岩波書店)』▽『アーチ・ゲッティ、オレグ・V・ナウーモフ編、川上洸・萩原直訳『ソ連極秘資料集 大粛清の道――スターリンとボリシェヴィキの自壊1932~1939年』(2001・大月書店)』▽『亀山郁夫著『磔のロシア――スターリンと芸術家たち』(2002・岩波書店)』