大浦荘(読み)おおうらのしょう

百科事典マイペディア 「大浦荘」の意味・わかりやすい解説

大浦荘【おおうらのしょう】

近江国浅井郡に置かれた荘園。現在の滋賀県西浅井町域(合併し,現在は長浜市)。牛骨(うしほね)荘ともいう。881年清和院の要請で大浦荘の墾田28町5反余が延暦(えんりゃく)寺文殊楼料として施入されている(《三代実録》)。1041年に園城(おんじょう)寺の明尊はその住房を円満院と号してこれに大浦荘を寄進している。鎌倉期,延暦寺檀那院領の菅浦(菅浦荘)と境相論が起き,約150年に及ぶ激しい抗争となった。大浦側は菅浦を荘内とすることから特に論所となった日指(ひさし)・諸河(もろかわ)の帰属については譲ることがなく,1379年に両所を大浦荘内とし,年貢20貫文と春秋に各10貫文の公事(くじ)銭を菅浦から受け取ることで一応の決着をみた。しかし1445年に大浦が山留を行ったとして,1461年には菅浦の者が何者かによって殺害されたとして衝突,大浦は武力をもって菅浦を屈伏させた。鎌倉末期までに上荘・下荘に分かれ,上荘は梶井門跡領で公文(くもん)が置かれていた。下荘はのち日野家(裏松家)領となり,時貞名・友里名など25の名から構成され,また五所宮・八幡宮神事のため名主が【えり】を管轄していた。16世紀半ば頃には浅井氏の勢力下となり,1570年には真宗門徒堅田(かたた)で織田信長軍勢を破ったことに対して賀状を送っている。

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改訂新版 世界大百科事典 「大浦荘」の意味・わかりやすい解説

大浦荘 (おおうらのしょう)

牛骨(うしほね)荘ともいう。近江国浅井郡(現滋賀県長浜市,旧西浅井町)の荘園。はじめ清和院領,881年(元慶5)勅により,同荘墾田28町5反余が俘囚浪人とともに延暦寺文殊院に寄進された。その後,後一条天皇領,あるいは公卿領を経て,園城寺の僧明尊の私領となった。明尊は住房を天皇御願の堂となし,これを円満院(寺門派三門跡の一つ)と号し,1041年(長久2)大浦荘を寄付。鎌倉時代になると南接する山門檀那院領菅浦荘との間に激しい境界争いが始まり,日差・諸河の地を争って150年に及ぶ長い相論を展開。南北朝期以降,上荘・下荘に分かれた。上荘には公文(くもん)が存在し,また下荘は25の名(みよう)から成る。荘民のなかには漁業・廻船業に携わる者も多くいた。15世紀中葉には日野(裏松)家領となり,松平益親が代官として入部。大浦荘が菅浦荘を武力で屈服させた1461年(寛正2)以後,代官と荘民との間に紛争が起こった。天文年間(1532-55)になると浅井氏の領有となるが,一向宗の拠点としての活動を続けた。
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世界大百科事典(旧版)内の大浦荘の言及

【菅浦】より

…平安末期高倉天皇のときかと思われるが,住民の一部は内蔵寮(くらりよう)御厨子所(みずしどころ)供御人,蔵人所供御人の身分を得て漁労や湖上舟運等の特権を保証された。しかし菅浦自体は寺門円満院領大浦荘に含まれていたから,そこから独立するために,寺門との対抗上竹生島およびその本寺山門檀那院の支配に属することになった。以後鎌倉後期から200年弱の間,大浦荘と狭小な耕地日差,諸河の帰属をめぐり熾烈な争論を繰り返した。…

※「大浦荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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