大日寺(読み)だいにちじ

日本歴史地名大系 「大日寺」の解説

大日寺
だいにちじ

[現在地名]倉吉市桜

さくら集落の北西部にある。桜山と号し、天台宗。本尊大日如来。寺伝によると承和八年(八四一)円仁の創建とも、永延二年(九八八)源信の創建とも伝える。もとは熊野信仰の修験・霊場であった。「伯耆民談記」には胎金山と号し、本尊は源信作と伝える阿弥陀如来坐像とする。往古の寺域は広大で、じよう院・ちゆう院・安養あんよう院の三ヵ所に分れ、三〇〇余宇の坊舎を有したと伝え、本坊は現在地より六町余り西方にあったという。また古くは上院に大日堂・釈迦堂・薬師堂、中院に文殊堂・観音堂・普賢堂、安養院に弥陀堂・経蔵があり、跡地が残ると伝えている。

現島根県平田市の鰐淵がくえん寺蔵で、もと当寺にあった鐘の銘に「伯耆洲桜山大日寺上院」とみえ、寿永二年(一一八三)五月に改鋳されたことが知られる。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]岩出町水栖

水栖みずす集落の中央にある。真言宗豊山派。二乗山小伝法院と号し、本尊は大日如来。享保一四年(一七二九)の岩出組寺方指出帳写(藤田家蔵)に記す寺伝によれば、根来ねごろ(現岩出町)本願覚鑁の母(妙海尼)が覚鑁の後を慕って九州より訪れたが、根来山は古仏成道の秘場で女人結界の密崛として登山が許されず、寺領水栖村に根来寺を模して当寺を建立、妙海尼の住家を建て、本名筋とよばれる旧家の六人に給仕させたのに始まるという。その死後、六人は出家しその菩提を祈ったという。天正年中(一五七三―九二)の兵火で焼失し、しだいに衰退したという。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]室戸市佐喜浜町 浦

町の西方、南に矢立やたて山を負って位置する。真言宗豊山派で、蓮華山成就院と号し、本尊大日如来。古くは最御崎ほつみさき寺の末。寺号を称する以前は単に談議所だんぎしよとよばれ、天文二三年(一五五四)の佐喜浜八幡宮棟札銘(蠧簡集木屑)に「別当談議所覚彫」とある。この呼称は一般寺院とは異なる当寺の歴史によるもので、本来は真言宗僧侶の研修用僧堂として建てられたものである。慶長九年(一六〇四)の大津波を記録した置文(「南路志」所引)の筆者は讃岐国の暁印で、当寺に来ていた折のものである。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]四日市市寺方町

寺方てらがたの集落の中にある。高角山と号し、天台宗。本尊大日如来。年月日欠金沢貞顕書状(金沢文庫古文書)に「勢州大日寺御願寺間事、為矢野伊賀入道奉行、令申候之処、去五日合評定、無相違被成下御教書候」とあり、鎌倉末には将軍家御願寺であった。称名しようみよう(現横浜市)に関係する臨済宗の寺院で智積ちしやく御厨からの年貢を得ていた(年欠一〇月七日「金沢称名寺宛真如書状」同文書)

大日寺
だいにちじ

[現在地名]野市町母代寺

母代寺ぼだいじの南東部竹内たけのうち山にある。西麓を県道竜河洞公園線が南北に走る。北と東は山で静寂の地である。法界山高照院大日寺と称し、真言宗智山派。本尊は大日如来。行基の開基、空海の中興と伝え、四国霊場二八番札所。

長宗我部氏・山内氏の保護を受けた。「南路志」には「往古は寺領八百石、寺数廿五ケ寺、其後寺領上り八十八石に成、其時寺五ケ寺、其後又寺領上り三町七代壱分ニ成、此年月慶長二年二月廿三日町隼人・久万二郎兵衛と有之」と記す。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]姫路市勝原区朝日谷

朝日あさひ(八八メートル)山頂にある。朝日山と号し、真言宗御室派。本尊千手観音。「峯相記」に「朝日山観音」とみえ、天竺より渡来の法道が播磨国内に建立した光明こうみよう(現滝野町)など二〇ヵ寺の一つ。文治年中(一一八五―九〇)に吉河(吉川)氏が福井庄を拝領して下向してきた折、むろ(現御津町)老法師信寂(法然の弟子)を見つけ同庄に招請して、朝日山の東麓に堂舎を建立したという。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]板野町黒谷

黒谷くろだに川上流の山中にある。黒巌山と号し、真言宗東寺派。本尊は大日如来。四国霊場八十八ヵ所の第四番札所。黒谷寺とも通称された(「四国遍礼道指南」など)御詠歌は「ながむれバ月しろたへの夜半なれやたゞくろたにゝすミそめの袖」。寺伝によると、空海が長く当地にとどまって修行中に大日如来を感得したことから、大日如来像を刻んで本尊とし、寺名を大日寺としたという。「阿波志」によると、応永年間(一三九四―一四二八)に松法師により再建されたが再び衰退し、天和―貞享(一六八一―八八)の間に再興された。

大日寺
だいにちじ

阿毘留山密乗院と号し、真言宗豊山派。本尊大日如来。千葉院内いんない町に千葉神社に隣接して建立されていた。天平(七二九―七四九)末仁生が孝謙天皇の勅により開創したと伝える。「鎌倉大草紙」に大日寺とみえ、建長期(一二四九―五六)千葉頼胤が鎌倉極楽寺の忍性を招いて馬橋まばし(現松戸市)に創建し、貞胤のとき弘安期(一二七八―八八)に移したという。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]徳島市一宮町

一宮いちのみや神社の北、鮎喰あくい川南岸にある。大栗山と号し、真言宗大覚寺派。本尊は十一面観音。四国霊場八十八ヵ所の第一三番札所。御詠歌は「阿波の国一の宮とハゆふたすきかけてたのめや此世のちの世」。寺伝によると弘仁六年(八一五)に空海が当地で護摩修法を行っていたとき大日如来が現れここに寺堂を建立するよう告げたので、大日如来像を刻んで本尊とし、堂宇を建立したことに始まるとしている。一宮神社(下一宮)の宮坊で大坊また一宮寺とも称された。

大日寺
だいにちじ

[現在地名]五條市二見二丁目

二見ふたみ集落の南西にあり、南北朝時代を通じて南朝方として活躍した二見氏ゆかりの寺。高野山真言宗で日光山慈門じもん院と号し、大日密だいにちみつ寺とも称した。本尊は大日如来。もとは慈門寺と称し、嘉元四年(一三〇六)の慈門寺界相帳、延元二年(一三三七)慈門寺僧侶に宛てた後醍醐天皇綸旨(以上、大日寺旧蔵文書)がある。南北朝後期になって大日寺と改称したらしく、明徳四年(一三九三)一〇月二七日の二見光門遵行状(同文書)には「大日寺」とあり、応永五年(一三九八)には比丘実銀が大日寺造営に伴い料田五段を寄進した(同文書)

大日寺
だいにちじ

[現在地名]吉野町大字吉野山

勝手かつて神社前の坂を下りた所にある。日雄山と号し、真言宗醍醐派。古来金峯山きんぶせん寺満堂派の一院。本尊の木造五智如来坐像(国指定重要文化財)は平安後期の作。五体とも木造漆箔、像高は大日如来九七・三センチ、釈迦如来五三センチ、阿弥陀如来五二・七センチ、阿如来五二・四センチ、宝生如来五二・四センチ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「大日寺」の解説

大日寺〔高知県〕

高知県香南市にある寺院。真言宗智山派。山号は法界山、院号は高照院。行基による開基、空海の中興と伝わる。本尊の大日如来坐像と脇仏の聖観世音菩薩立像は国の重要文化財に指定。四国八十八ヶ所霊場第28番札所。

大日寺〔徳島県徳島市〕

徳島県徳島市の鮎喰川南岸にある寺院。真言宗大覚寺派。山号は大栗山、院号は花蔵院。815年、空海による創建と伝わる。当初の本尊は大日如来、現在の本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八ヶ所霊場第13番札所。

大日寺〔徳島県板野町〕

徳島県板野郡板野町、黒谷川上流域に位置する寺院。東寺真言宗。山号は黒巌山、本尊は大日如来。空海による創建と伝わる。四国八十八ヶ所霊場第4番札所。

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