大教宣布
たいきょうせんぷ
明治維新政府の神道(しんとう)による国民教化政策。新政府は1869年(明治2)宣教使を置き、同年10月9日これを神祇(じんぎ)官の付接とした。この宣教使は同年3月に設けられた教導局の後身ともいうべきもので、キリスト教防御と神道による国民教化を目的として設置されたものである。翌70年1月3日には神祇官神殿の鎮祭が執行され、あわせて「宣布大教詔(せんぷたいきょうのみことのり)」が下され、宣教使に「宜(よろし)く治教を明らかにし、以(もっ)て惟神(いしん)の大道を宣揚すべき」ことが命ぜられた。
この「宣布大教詔」によって宣教使は国民に「惟神の大道」を教化することになり、1870年3月には各府藩県にも宣教掛(かかり)が置かれて全国的な大教宣布運動が行われる基盤ができた。しかし、宣教使官員の少なさや教義の未確立、あるいは府藩県宣教掛の能力不足、消極性もあって、宣教使の大教宣布運動は終始不振で、かろうじてキリスト教徒が多い長崎県に宣教使を派遣して宣布を行ったにとどまった。同県では、同時に氏子改(うじこあらため)がかりに施行され、大教宣布と相まってキリスト教防御が期待されたが、みるべき効果はなかった。
このような状態を打破するため、神祇官、宣教使および政府首脳は、1871年後半から仏教・儒教をも取り込んだ一大国民教化運動を展開することを企て始め、翌72年3月に神祇省、宣教使を廃して神仏両教を管する教部省を設けた。4月には国民教化の任にあたる教導職が設けられ、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴(ほうたい)という三条の教則を宣布させることにした。この教導職による大教宣布運動は、神官、僧侶(そうりょ)および一般教導職を動員して大々的に展開され、多くの聴聞者を集め、当時の文明開化路線にも一役買った。しかし、神仏合同布教に批判的で独自の布教を望む西本願寺などの真宗教団は、大教院体制下の合同布教分離を要求し、75年5月には神仏合同布教は大教院の解散によって頓挫(とんざ)した。大教宣布は形式的には84年の教導職廃止まで続くが、事実上はこの大教院解散によって終息した。
[阪本是丸]
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大教宣布【たいきょうせんぷ】
明治維新に際して政府がとった神道による国民思想の統一・国家意識の高揚をはかるための国民教化政策。祭政一致のスローガンのもと1868年には神祇官を復興させ,1869年には宣教使を置いた。1870年2月2日(旧1月3日)には神道を宣揚すべしとする〈大教宣布の詔〉を発し,国民教化に乗り出した。しかし富国強兵政策の展開にともない,神祇官は神祇省に格下げされ,1872年には同省および宣教使も廃止となる。国民教化の政策は同年新たに設置された教部省,および同省に属する教導職(きょうどうしょく)に継承された。→大教院
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大教宣布
たいきょうせんぷ
明治政府の宗教統制策の一つ
政府は神祇官に宣教使を設置し,1870年大教宣布の詔を発布した。詔の趣旨は,惟神 (かんながら) の道(神道)を宣揚すべきであり,このため宣教使に命じて布教させた。神道の国教化をめざしたものであったが効果はあがらなかった。'72年教部省設置とともに宣教使も廃止し,新たに教導職・大教院を設け宣教政策拡大につとめたが,仏教側の抵抗が強く'75年大教院,'77年教部省,'84年教導職の廃止で終わった。
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大教宣布
たいきょうせんぷ
明治維新の当初神道によって国民思想を統一し,国家意識の高揚をはかった政策。神祇官が再興され,教導局,宣教使が設けられ,明治3 (1870) 年1月3日には,大教宣布に関する詔書が出された。のち,教導職,大教院の設置など,宣教の拡大がはかられたが,仏教側の反対により,1884年には終止符が打たれた。
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たいきょう‐せんぷ タイケウ‥【大教宣布】
〘名〙 明治初年、維新政府が行なった政策の一つ。
祭政の一致、神道による思想の統一をはかり、国民の国家意識を高めようとしたもの。仏教界の抵抗などで失敗。
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デジタル大辞泉
「大教宣布」の意味・読み・例文・類語
たいきょう‐せんぷ〔タイケウ‐〕【大教宣布】
明治維新政府が祭政一致・国体強化の一環として展開した国民教化政策。神道精神の高揚を目的としたが、仏教側の反対などで挫折。
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たいきょうせんぷ【大教宣布】
明治初年に天皇崇拝中心の神道教義に基づき展開された国民教化政策。明治政府はその正当性を確保するために天皇を絶対的存在と位置づけ,祭政一致のスローガンの下に神祇官を再興する等,神道国教化政策を展開した。しかし,この理念は当時の一般国民にはなじみの薄いものであったので,政府は1869年(明治2)宣教使を設け,翌年に大教宣布の詔を発して国民教化(布教)にのりだした。とくに長崎には特別の出張所を設けてキリスト教対策にあてるとともに,各藩には宣教係を置いて一般の教化に努めた。
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世界大百科事典内の大教宣布の言及
【祭政一致】より
…初期明治政府自身,そうした水戸学や平田派国学のイデオローグらの影響の下に,〈維新政府の宣伝政策〉(津田左右吉)の一環として〈祭政一致〉〈政教一致〉のスローガンをしばしば用いた。一時期,神祇官を太政官の上位に置く〈復古〉的制度を行おうとしたり,宣教使や教導職を置き,大教宣布の詔を発して神仏分離・廃仏毀釈の運動をあおる等のこともした(〈此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御
復被遊候ニ付テハ,先第一神祇官御再興御造立ノ上,云々〉――1868年3月13日太政官布達)。だが神祇官(のち神祇省)や教導職等はまもなく廃され,まがりなりにも近代立憲国家の体裁をとった大日本帝国憲法下では,いちおうの信教の自由と政教分離が打ち出された。…
【天皇】より
…このことは,新政府の布告が天皇を伊勢神宮の神様の子孫と紹介し,正一位稲荷大明神の位も天皇によって授けられたものだといい,それほどに尊いかただと説き,日本の父母であると述べたなかにもうかがえる。こうした説諭は,大教宣布運動の教化において,〈政府は人民の仕事を取扱ふ場所,天子様は請負人の頭取〉のようなものだとの説明にもみられるように,新国家の君主たる天皇の存在意味をはじめ,その位置と役割を広く民衆に知らしめねばならなかったことによる。行幸は,このような教化で説かれた天皇の姿をみせる場であっただけに,全国巡幸を軸にその多くが87年までに集中していた。…
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