大山郁夫(読み)おおやまいくお

精選版 日本国語大辞典 「大山郁夫」の意味・読み・例文・類語

おおやま‐いくお【大山郁夫】

政治学者。社会主義運動家。早稲田大学教授。労農党委員長。兵庫県出身。弾圧をうけてアメリカに亡命。スターリン平和賞受賞。明治一三~昭和三〇年(一八八〇‐一九五五

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デジタル大辞泉 「大山郁夫」の意味・読み・例文・類語

おおやま‐いくお〔おほやまイクを〕【大山郁夫】

[1880~1955]社会運動家。兵庫の生まれ。大正7年(1918)吉野作造らの黎明会れいめいかいに参加。翌年、長谷川如是閑らと「我等」を創刊。無産運動を指導、労働農民党委員長となる。第二次大戦中は米国に亡命、戦後帰国、平和運動に専念。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大山郁夫」の意味・わかりやすい解説

大山郁夫
おおやまいくお
(1880―1955)

社会運動家、政治学者。明治13年9月20日兵庫県生まれ。1905年(明治38)早稲田(わせだ)大学政治経済学科を卒業。1906年同校講師となり、1910年よりアメリカとドイツに留学、1914年(大正3)帰国して教授となる。国家主義的な色彩をもつデモクラシー論を携えて論壇に登場。1917年早稲田騒動に際し、同僚教授の解雇に反対して大学を辞し、大阪朝日新聞社に入社。翌年米騒動時の大阪朝日新聞筆禍事件(白虹(はっこう)筆禍事件)に際し、他の論説委員とともに辞職した。1919年長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)らと雑誌『我等(われら)』を創刊し、1920年には早大に復職した。このころから国家主義的な色彩を払拭(ふっしょく)して、社会集団論を手掛りに社会主義に接近し、知識人の無産運動への参加協力の必要を唱えるようになる。そして1923年軍事研究団反対運動への参加を契機に、早大内で大学の自由と自治擁護運動の中心となった。1924年政治研究会創立委員となり、1926年労働農民党の中央執行委員長に就任、暗殺された山本宣治(やまもとせんじ)追悼演説のときの「われらの行くところは戦場であり墓場である」の文句は有名である。労働農民党の解散(1928)後、1929年(昭和4)11月新労農党を結成し翌年衆議院議員に当選したが、労農党は内部からの解消運動によって他党との合同を余儀なくされ、大山は政治的に孤立して、1932年渡米、16年間亡命生活を送る。1947年(昭和22)に帰国、早大に復帰して平和運動に参加し、1951年には国際スターリン賞を受賞した。1950年から参議院議員となり、1955年(昭和30)11月30日死去した。

[赤澤史朗]

『『大山郁夫全集』全5巻(1947~1949・中央公論社)』『大山記念事業会編『大山郁夫伝』全2巻(1956・中央公論社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「大山郁夫」の意味・わかりやすい解説

大山郁夫 (おおやまいくお)
生没年:1880-1955(明治13-昭和30)

政治家,政治学者。兵庫県の医家に生まれる。1905年早稲田大学卒業。欧米留学後,12年母校の教授となったが,17年大阪朝日新聞に入社,民本主義の論陣に加わる。米騒動をめぐる朝日の筆禍事件(白虹事件)を機に退社,長谷川如是閑と雑誌《我等》を創刊。20年早大に復帰し民人同盟会,文化会などの学生団体を指導。政治学者としては,社会学的実証研究たる《政治の社会的基礎》(1923)を刊行。24年政治研究会の創立に参画,無産政党運動に加わる。27年合法無産政党の最左翼たる労働農民党の委員長に就任,このため早大を追われた。同党の結社禁止後29年新労農党を創立,翌年東京から衆議院議員に当選。共産党からの合法政党解消の圧力に抵抗し活動をつづけたが,満州事変とともに運動の自由を失い32年アメリカに亡命。47年帰国,早大に復帰し平和運動に専念。50年参議院議員に当選,革新勢力の長老として敬重された。翌年スターリン国際平和賞を受ける。全集5巻(1947-49)がある。
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百科事典マイペディア 「大山郁夫」の意味・わかりやすい解説

大山郁夫【おおやまいくお】

労働運動家,政治学者。兵庫県出身。早大卒。大阪朝日論説委員時代に民本主義的論陣をはり,筆禍事件(白虹事件)で1918年退社。吉野作造らと黎明会創立,また雑誌《我等》を刊行。次第にマルクス主義へ接近。1927年労働農民党(労農党)委員長となり,無産政党運動を指導したが,満州事変後の弾圧強化のなかで米国に亡命,1947年帰国。1951年スターリン平和賞。
→関連項目長谷川如是閑レーニン賞

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大山郁夫」の解説

大山郁夫
おおやまいくお

1880.9.20~1955.11.30

大正・昭和期の社会運動家・政治家。兵庫県出身。東京専門学校卒。欧米に留学。1914年(大正3)早稲田大学教授となり政治学を講じる。17年辞職し大阪朝日新聞社に入社するが,翌年白虹(はっこう)事件で退社。吉野作造らと黎明会を結成,雑誌「我等」を創刊して民本主義を唱えた。26年(昭和元)労働農民党の委員長となり,28年第1回普通選挙に出馬するが,未曾有の弾圧にあい落選。翌年新労農党を発足させ,30年には代議士に当選した。以後共産党との激しい確執,ファッショ化の嵐のなかで32年アメリカに亡命。第2次大戦後47年に帰国,50年に参議院議員。平和運動に献身した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大山郁夫」の解説

大山郁夫 おおやま-いくお

1880-1955 大正-昭和時代の社会運動家,政治家。
明治13年9月20日生まれ。大正4年母校早大の教授。6年大阪朝日新聞に入社したが,翌年鳥居素川の筆禍事件を機に退社。15年労働農民党委員長に就任。衆議院議員。戦後は参議院議員,平和を守る会会長。昭和26年国際スターリン平和賞受賞。昭和30年11月30日死去。75歳。兵庫県出身。旧姓は福本。著作に「政治の社会的基礎」など。
【格言など】大衆の感覚は,支配階級の連中や御用学者たちのそれより遥かに鋭いものだといえるのである(地下の共産党への公開状)

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旺文社日本史事典 三訂版 「大山郁夫」の解説

大山郁夫
おおやまいくお

1880〜1955
大正・昭和期の社会運動家
兵庫県の生まれ。早大卒。大正中期,大阪朝日新聞論説委員や早大教授として民本主義思想を展開。吉野作造と黎明会を結成し,河上肇らと『我等』を創刊。のち社会主義に接近し,1926〜'28年労働農民党,'29〜'31年労農党の委員長を歴任。弾圧のため'32年渡米し,'42年まで亡命生活を送る。第二次世界大戦後の'47年帰国し平和運動に活躍した。'51年スターリン平和賞を受賞した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大山郁夫」の意味・わかりやすい解説

大山郁夫
おおやまいくお

[生]1880.9.20. 兵庫
[没]1955.11.30. 東京
社会運動家。早稲田大学卒業後,シカゴ大学に留学。早大教授,『朝日新聞』論説委員,労働農民党および労農党委員長を歴任。 1932年より 47年までアメリカに政治亡命。 47年凱旋将軍のような歓迎を受けて帰国。 50年参議院議員に当選。 51年スターリン平和賞を受けた。主著『政治の社会的基礎』『現代日本の政治過程』。

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世界大百科事典(旧版)内の大山郁夫の言及

【労農党】より

…結党後,左派の門戸開放運動が起こり党内でも日農がこれに同調すると,総同盟など右派は10月党から脱退するにいたった。残留派は左派に門戸を開放,12月第1回党大会で大山郁夫を委員長に選んで陣容を立て直し,左翼政党として再出発した。以後同党は日本共産党の事実上の指導下にある合法無産政党として,また左翼社会民主主義者と共産主義者の統一戦線的政党として,弾圧にさらされながら評議会,日農などと一体となって議会解散請願運動,対華非干渉運動,金融恐慌下の要求闘争,5法律制定要求運動,27年の府県会議員選挙,28年総選挙などに取り組み,無産政党のなかでもっとも有力な党としてめざましい活動を展開した。…

【我等】より

…大正から昭和初期の高級評論雑誌。1918年の〈白虹事件〉で大阪朝日新聞社を退いた長谷川如是閑が1919年2月,大山郁夫,井口孝親らと我等社をつくって創刊した。丸山幹治,伊豆富人,大庭柯公らが参加した。…

※「大山郁夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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