デジタル大辞泉 「大学」の意味・読み・例文・類語
だい‐がく【大学】
2 「大学寮」の略。
3 俗に、社会人を対象にした教養講座のこと。「市民
[補説]書名別項。→大学
[類語]大学校
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
高等教育と研究のための機関。国によって年限,形態,理念などは異なるが,ほぼ18歳以上の青年男女を受け入れ,学校体系の最上部分を占める機関である点は共通している。日本の現行制度では,高等学校の上に位置し,修業年限4ヵ年の大学(ただし医学および歯学の学部は6年以上)と,2~3ヵ年の短期大学とがある。また設置者による区別として国立,公立(都道府県立または市立)および私立(学校法人の経営するもの)の3種類がある。日本の大学がこのような制度になったのは第2次大戦後1947年以降のことである。それより約70年前の明治維新後に,日本はヨーロッパ諸国およびアメリカの大学制度にならって,いわゆる近代大学の制度を導入した。これらのヨーロッパ諸国は,それより約900年前の11世紀に,今日の大学制度の原型に当たるものを生みだした。それは,現在の小学校,中学校などが生まれた時期よりはるかに古い。つまり大学は,さまざまの現存する教育機関のうち,最も古い歴史をもつ学校類型である。現代の世界で,大学はほぼ三つの機能を果たしている。(1)伝統的な学術・文化を継承・保存する一方で,現代科学技術を再生産・創造すること,(2)専門的技能や理論を継承・開発すると同時に,専門職業従事者(プロフェッション集団。医師,技師,法曹,教師など)を継続的に育成すること,(3)教養教育,専門教育を通じて,自然,人間,社会に関する教養を普及し,職業的技能・知識を育成し,市民性を形成すること。大学はこれらの機能を果たす文化的サブ・システムの一つである。第2次大戦後はとくに大学の高等教育機関的性格が強まり,(3)の機能が増大している。日本の大学の目的は,1947年制定の学校教育法によれば〈学術の中心として,広く知識を授けるとともに,深く専門の学芸を教授研究し,知的,道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする〉(52条)とされている。これもいずれかといえば,一般教育,専門教育,諸能力の育成などの教育的機能を重視した規定である。
執筆者:寺崎 昌男
大学の起源は中世のヨーロッパにあり,教師・学生の一種のギルドに発している。〈大学〉をさすuniversity,〈教師〉をさすmasterなどの現代語は,本来は単に〈団体〉〈親方〉というギルドの用語であった。〈12世紀ルネサンス〉とも呼ばれる12世紀の知的高揚のもとで,都市には多くの教師・学生が集まり,私塾をおこして教育活動を行っていたが,彼らはしだいに,一般の手工業者の同職組合にならってギルドを形成し,聖俗の外部権力に対して自己の特権を確立するよう闘争しつつ,内部では,共通のカリキュラムを定め所定の修了者には学位を認可するようになった。カリキュラムと学位制度に支えられた教育機関と,学徒の人的団体としてのギルドとが結合したところに,過去に類例をみない,そして現代にまで連続する〈大学〉という新しい教育組織が成立したといえる。
すでに12世紀後半から13世紀初めにかけて,〈自生的大学〉と呼ばれるボローニャ大学,パリ大学,オックスフォード大学などの大学が形成されている。この際,ボローニャでは比較的年齢の高い法学生のギルドが中核となり,パリでは学芸学部の教師(多くは上級学部の学生)のギルドが大学を形成し,ともに他の中世大学の模範となった。また,私塾連合体としての大学は,本来,共通の建物をもたなかったから,外部権力との抗争の過程で他の都市に移住することもあった。こうして,オックスフォード大学からケンブリッジ大学が派生し,パリ大学からオルレアン大学,ボローニャ大学からパドバ大学が生まれた(〈移住による大学〉と呼ばれる)。
大学の形成,学徒特権の確立には,ローマ教皇庁はつねに好意を示した。教皇庁は,地域教会や世俗権力への優越と教会思想の統一をめざし,早くから大学の重要性に着目し,その特権確立を積極的に支持した。他方,神学研究の中心地たらしめんとしたパリでのローマ法研究を禁じたことにみえるように,その統制をもはかった。元来一大学にのみ有効であった〈教授免許licentia docendi〉を,普遍的有効性をもつ〈国際教授免許jus ubique docendi〉として承認したのも教皇庁である。一方,大学の発展に促されて(後に〈大学〉は,〈教皇権〉〈皇帝権〉と並称された),13世紀以降,とくに14~15世紀に,都市や皇帝・国王も,その威信と官僚養成をめざして,大学の創設に積極的に加担した。神聖ローマ皇帝によるナポリ大学(1324)の創設を端緒として,スペインのサラマンカ大学(1330ころ),帝国領内のプラハ大学(カレル大学。1347),ウィーン大学(1365),クラクフのヤギエウォ大学(1364)などの大学が次々と創設された(〈創られた大学〉と呼ばれる)。
1500年ころまでに,ヨーロッパには約80の大学が成立した。中世大学は通例,同郷出身者の団体としての国民団(ナティオnatio)の集合体という性格と,学部の集合体としての性格とをあわせもった。学部には,神学,法学(教会法,市民法),医学と,その予科的な学芸学部があったが,すべての大学が4学部全部をもっていたわけではない。また本来学生の寄宿舎であった学寮(コレギウムcollegium)が,後に大学の重要な構成単位となったイギリスの大学の例もある(カレッジ)。中世末期になると,大学での学問は当初の清新さを失ってしだいに硬直化するが,教育機関としての社会的役割は増大した。聖職界や法曹界,あるいは集権化しつつある国王行政官僚に占める大学卒業生の割合は確実に高まり,それは下級官吏にまでおよんだ。世襲制に安住していた上層貴族も大学教育に無関心でいられなくなり,比較的下層の者が大学を通過することで社会的上昇をとげる例も多くみられた。
中世大学は,少なくとも理念上は,〈学問する者の自由〉を標榜したが,国権の強大化にともないしだいに国家機関化していった。とくに宗教改革の後,大学は鮮明にその宗派的色彩を明確にし,政治体制への隷属を強めた。パリ大学もストライキ権を剝奪され,絶対主義体制下ではガリカニスムの牙城となったし,イギリスの大学は政変のたびごとに構成員の大幅な更迭をみた。三十年戦争(1618-48)を経たドイツでは〈ドイツ大学史上の暗黒時代〉を迎えるにいたる。17世紀は近代科学の創成期ではあるが,哲学においても自然科学においても,大学は学問の新時代にほとんど寄与するところはなかった。新しい学問はもっぱらアカデミーを場にしたもので,大学は国家官僚の養成機関ではあっても,時代を領導する学問の担い手ではありえなかったのである。このような状況で,大学史に新時代を画したのはプロイセンのハレ大学(1693創設)である。ここでは,学問の自由を当時の合理的精神にそってうたい,諸科学の総合としての〈哲学〉を重視して学芸学部の予科的性格を改革し,高度な学問的探究と教育を一体化して近代大学の祖型をつくり,他のドイツ大学に強い影響を与えた。しかしこのハレの運動も他国には波及せず,フランスが新しい大学制度を樹立するにはフランス革命をまたねばならなかった。
執筆者:田中 峰雄
宗教改革のもとで,ローマ教皇によるヨーロッパの大学の一元的な支配は崩れ,ルターを生んだドイツでは,マールブルク大学(1527創立),イェーナ大学(1558創立)などプロテスタントの大学がつくられ,また旧来の諸大学にも人文主義が導入され,教養部の改革などが行われた。イギリスのオックスフォード大学では,ヘンリー8世がローマ教会から離脱した後,教会法が廃止され,スコラ学者たちの著作が追放されるなどの動きがあった。その後いくどかの変動を経験したが,ケンブリッジ大学も含めて,全体として英国国教会と王権とに所属していった。激化する旧教と新教の対立のなかで,ヨーロッパの大学は大きな役割を演じた。その過程を通じて大学はしだいにローマ教皇の手から絶対主義国家の手に移っていった。18世紀後半になるとこの傾向はフランス,ドイツの大学で決定的になった。こうして生まれた近代大学の一つの典型が,19世紀初めのドイツのベルリン大学である。それは神学部を頂点にすえていた学部構成を改めて,それまで〈神学の僕(しもべ)〉とみられていた哲学を大学の中心に置き(哲学部の優位),これに法学,医学などの諸学部を配するものであった。フランスでは,フランス革命後,中世以来の伝統的大学は解体され,ナポレオンによって帝国大学が設立された。それは単科的な職業教育大学のゆるい統合体であった。アメリカでは,ハーバード大学,イェール大学など,植民地時代からオックスフォード大学,パリ大学などをモデルとする大学が設けられていた。さらに19世紀になるとヨーロッパのくびきから脱した新しい単科大学を州立大学(農業教育や工業教育を重視)として設ける一方,19世紀にドイツの諸大学が自然科学,医学,法学などの分野で著しく発展させていた〈学問研究の府としての大学〉という性格を学びとって,大学院中心の総合大学を発展させることになる。ラテン・アメリカ諸国では,スペイン系の大学の影響下に,カトリック的な大学が多く設けられていたが,これらも19世紀になると実用的な諸学部を設けるようになっていった。このような変化の背後には,近代における国民国家の成立と資本主義の発展がある。大学は教会権力から国家権力のもとへ徐々に移行し,大学の自治・自由の問題も中世時代とは異なる形で問われるようになった。
一方,社会主義国家でも大学は独自の発達を遂げた。ロシア革命以後,ソビエト政府は,18世紀半ばに創立されていたモスクワ大学を最高学府として受け継ぎ,自然科学系6学部のほか言語学,歴史学,哲学,経済学,法学,ジャーナリズムの計12学部を置く総合大学として再編した。中華人民共和国でも,北京大学など清朝期に発展していた大学を継承・淘汰(とうた)し,新政権のもとに再編した。東ヨーロッパ諸国でも中世,近世以来の諸大学が新政権になって継承された。これらの大学はそれぞれの歴史的な伝統を負いながらも,マルクス・レーニン主義を基礎とするものであったが,1990年の東西ドイツ統合の影響により,とくにドイツにおいて大きく変動しつつある。
古代に貴族官僚の養成機関としての大学寮があったが,ヨーロッパのuniversityとは異質のものである。日本では,ヨーロッパやアメリカの諸国で大学が〈近代大学〉の形をととのえていた19世紀の後半に,近代大学が発足した。江戸時代から各地で生まれていた洋学私塾や漢学塾,幕末に幕府自身がつくった洋学教育機関(開成所,医学所など)が直接の母体となって明治期の高等教育が出発した。明治政府がつくった最初の大学は,昌平黌(しようへいこう)(昌平坂学問所ともいう)を再興した〈大学校〉であり,国学を中心に洋学と漢学を両翼に配するというものであったが,まもなく復古主義政策が後退するにつれ,国学重視の学問政策は衰微し,ついで開明主義への転換とともに洋学中心となった。やがて,政府は洋学教育機関を母体とする官立の東京大学を設けた(1877)。このほか工部省の工部大学校,司法省法学校などが一種の単科大学としてあった。しかし,工部大学校,法学校はしだいに文部省に移管され,1886年に設立の帝国大学(旧,東京大学)に統合された。帝国大学の性格はきわめて国家主義的で,〈国家ノ須要(しゆよう)〉に応ずる学問研究と教育を行うというのがその目的とされた。明治後半期から,帝国大学は地方の大都市(京都,仙台,福岡,札幌など)に広がり,大学制度の頂点をなすものとされた。
私立の高等教育機関が大学になる道を開かれたのは大正期に入ってからである。1918年の大学令制定によって,初めて地方自治体や私人(財団法人)も大学を設立できるようになり,また官立専門学校のなかのあるものも,大学になることができることになった。幕末,維新期以来発達してきていた慶応義塾,早稲田,同志社,中央,明治などの私学が大学令による大学になり,また東京高等商業学校が東京商科大学(現,一橋大学)に,東京高等工業学校が東京工業大学になるなど官立専門学校も次々に大学に昇格して,帝国大学すなわち官立総合大学だけが大学であるという独占体制が崩れた。さらに24年朝鮮に京城帝国大学,28年台湾に台北帝国大学を設立するなど植民地にも大学が設置された。
第2次大戦後の学制改革のもとで,大学の体制も大きく変わった。戦前,大学のほかに高等教育を担っていた専門学校,大学専門部,高等学校,大学予科,高等師範学校,師範学校などが再編統合されて新制大学となり,新制高等学校の上に直接つづく教育機関となった。私立専門学校や高等女学校専攻科などを母体として短期大学も発足した。私立の専門学校,旧制私立大学の一部が新制の大学に転換を開始したのが48年,国立大学の大部分が新制に移ったのは49年,同年短期大学も発足した。新制下の大学院は53年から出発した。新制大学は,理念のうえで戦前の大学の国家主義を否定し,制度のうえでは量的拡大(高等教育機会の均等,拡大)を予期して出発した。新制大学が6・3・3制の単線型的な学校体系の最上段に位置し,専門教育と研究という二つの機能と並んで,一般教育による市民形成をめざしたことも大きな変化であった。
現在,世界と日本の大学が当面している問題は数多いが,ほぼ世界的に共通な問題をあげれば,(1)大衆化のもとで大学の制度的性格をどうするか,(2)財政と大学の自治との関係をどう考えるか,(3)現代の学術との関係はどうなるか,(4)学生の地位や権利をどう考えるか,などである。
第2次大戦後,高等教育の〈大衆化〉はほぼ1960年代から本格化しはじめた。すでに早くから多数の青年を大学(ユニバーシティやカレッジ)に迎えていたアメリカを別として,ドイツ,フランス,イギリスその他のヨーロッパ諸国では,高等教育進学者の増加をいかにして伝統的な大学制度と調和させるかが深刻な問題となっている。ドイツではアビトゥーア(大学入学資格。〈バカロレア〉の項目参照)を獲得した学生たちが現実に大学へ進学できないという事態が深刻化しているし,68年の大学紛争後,大学の全面的な改革を行ったフランスでは,大学生の特定大学への集中,新構想大学の学生過密化や研究教育水準の低下といった問題を抱えている。またイタリアの有名諸大学は1960年代以来,大学教育のマスプロ化の課題を抱えている。伝統的大学制度をもつこれらのヨーロッパ諸国に比べて,イギリスでは新大学の新設,放送大学(オープン・ユニバーシティ)の設置などを行って大衆化への対応を比較的早く開始した。アメリカは,60年代の半ば以降,40~46%の大学進学率を迎えたが,コミュニティ・カレッジの普及,公立大学の無試験入学制度などの多様な方法によって,この圧力に対応している。大学入学方式の面でも,成人・勤労学生の進・入学,職業経験者の再入学などの弾力的な制度をとっており,大衆化への適応を最もよく果たしている国であるといえよう。
新制大学制度をとった日本は,1962年以降,大学進学希望者の著しい増加を迎え,高度経済成長期を経て石油危機直後の75年度までに,大学進学率は約13%から約38%に急増した(その後やや低下し,1985年度は30.5%まで落ち込んだが,その後ふたたび増加し,96年時点では39%である)。また,この間,4年制大学は160校,短期大学は208校増設され,大学全体の在学者数も約84万人から約210万人へと2.5倍の増勢を示した。大学がこれらの大量の進学者を受け入れることができたのは,戦後学制改革のもとで明治以来のエリート型の大学制度を大衆的な新制大学制度に改めていたためである。この意味では,戦後の大学改革は,大衆高等教育mass higher educationへの適応を先取りした制度改革だったといえる。ちなみにその後も大学数,在学生数は増加を続け,96年時点では大学576校,短大598校,在学者数は大学259万6667人,短大47万3279人である(なお2006年現在,大学744校・285万9212人,短大468校・20万2254人)。しかし,上のような1960-70年代の大衆化のもとで,日本の大学には国公・私立間の格差,国立大学相互間,私立大学相互間の格差が広がり,大学の序列化が進行した。大学入試の激化(特定大学の入学難),大学全体とくに進学者の80%を引き受けた私立大学の研究・教育条件の悪化などの深刻な事態が生み出されている。79年に大学入試の合理化をめざして国・公立大学共通一次試験が実施され,毎年33万人前後の学生が受験した。なおこの試験は90年以降,臨時教育審議会の答申により,〈大学入試センター試験〉と改称され,私立大学でこれに参加する大学も増えつつある。さらにこれを,選抜試験ではなく大学入学資格試験にすべきである,という意見も強い。一方,1985年度から放送大学が開校され,日本での初の試みとして注目されているが,これが従来の大学教育になかった特色を打ち出しうるか否かはまだ未知数である。
このような大学の大衆化という状況のもとで,多くの国の大学は,大学の内部の教育方式や管理制度を近代化,合理化する必要に迫られる一方,大学入学・進学方式をどのように改めるか,大学以外の多様な中等後教育(ポスト・セカンダリー・エデュケーション)の形態をどのようにつくり出すかという課題を抱えている。カリキュラムを合理化し,演習,作文などの方法を採用し,視聴覚的な設備・機器を導入することで学力の低下を防ぐなどの改革が多くの国で模索されている。また労働経験者,専門職業者の入学・再入学を許可し,入学年齢を壮年・中年に上昇させる方式もつくり出されつつある(スウェーデンなど)。日本においては1979年度,立教大学で初めて社会人入試制度が開始された。
88年,臨時教育審議会の答申に基づいて文部大臣諮問機関の大学審議会が発足した。それは大学の教育・研究・制度の全般について広範な審議を行ってきたが,審議の基調は,21世紀をめざしての高等教育・大学の拡充方策の策定である。特に91年同審議会の答申によって大学設置基準が大改定され,大学の科目を一般教育・専門教育等と区分する必要がなくなった。このため戦後〈一般教育科目〉という名で呼ばれてきた科目群は解消し,各大学は4年間の教育において教養教育と専門教育を有機的かつ自由に編成することができるようになった。戦後改革に次ぐ2度目の大学教育改革が,カリキュラム改革を中心として急激に進行している。他方,少子化の影響から,2010年前後には大学進学者総数と入学定員とが一致することが予想されており,そうなった場合,高等教育のレベルをどのように設定し直すかが問われるものと予想されている。また少子化の動向のもとで,学部・大学院を社会人・現職者などに開放する動きも急速に進んでいる。要するに現代の大学は,エリート主義的で硬直した形態を打破して,新しい国民生活にどのように柔軟に対応すればよいかについて,質・形態両面からの見直しと改革を迫られている。
増大する科学研究費と高等教育財政のもとで,大学が古典的な近代大学の自治の原則を守ることがきわめて困難になっているという事態がある。大学の研究・教育活動が巨額の公費によって支えられるようになると,国家・政府による研究,高等教育の〈計画化〉と〈財政主導〉とが避けられなくなる。研究活動は個人の営みとしてではなく研究機関の事業の一環として扱われ,大学は個性的な教育機関としてではなく,より抽象的な高等教育機構とみなされることになる。社会主義国家においてはともかく,資本主義国家の大学においては,この事態は近代的な大学の自治の理想と制度に対する重要な挑戦であるといえよう。アメリカにおける連邦政府の科学政策と大学の研究との関係,日本における私学への公費助成と統制の関係などに,代表的にあらわれる。この事態のもとでは,大学の研究者たちは,個人的な研究の自由だけでなく集団としての研究者の自由を守る組織や運動を考える必要に迫られるし,また大学は,個別大学の自治を守ることとともに,大学連合体の自治も守る方策を立てる必要に迫られている。
日本においては,大学審議会が財政問題を含む高等教育計画の答申に当たる審議会として活動しているが,同時に大学財政は国家レベルでの行政改革の動向に左右される面が大きく,国立大学の民営化や特殊法人化,特別会計制度の再検討などの論題がたえず浮かび上がっている。私学に対する公費助成施策は1970年度に発足して28ヵ年度を経たが,その総額は84年度以降横ばいの状態であり,96年度も研究設備整備費等補助金・施設整備費補助金を合わせて160億円,私学経常経費総額の12.1%にとどまっている。一方,大学が固有の財産,財源をもち,政府の掣肘(せいちゆう)を免れることは欧米では自治の重要要件とみなされてきたが,日本の国立大学は財政上の自由や自治をまったく欠いている。
2004年4月,国立大学は独立行政法人へと移行し,国立大学法人となったが,諸課題は依然として山積している。
19世紀に完成した学問体系・学問分類が現代において崩れつつあり,それに対応して学部,学科,講座等を編成してきた大学のあり方が問われている。世界各国の大学のうち,とくに1960年代以後につくられた〈新大学〉では,専門分野の伝統的な区分を排して,境界領域,複合領域,総合領域に即した大学の教育・研究組織をとり入れる試みがひんぱんにみられる。日本で74年に設置された筑波大学が学部制・講座制を廃止して,新しい学系・学群制をとったことなどもその一例である。現代学問体系に即応して大学の内部編成を変えていく試みは,今後の大学改革のなかで,広がっていくものとみられるが,大学の自治,研究成果,教育効果の面でどのような事態を生むかは,にわかに予測することはできない。
大学における学生の位置や権利をどう考えるかは,1960年代末に欧米諸国,日本などで起きた〈大学紛争〉〈学生反乱〉のもとで激しく問われた問題であった。学生が大学の構成要素であるという事実そのものは,大学の大衆化状況ともあいまってだれも否定することができない。しかし,学生たちに,大学構成員としての固有の地位や権利(学長選挙権,管理参加権,処分審議権など)を与えるべきか否か,単なる異議申立権だけを認めるかどうか,学問共同体を構成する学徒としてみるかそれとも大学において教育関係を結んだ〈契約者〉として考えるか,あるいは単なる施設利用者として位置づけるかなど,見解はさまざまに分かれているというのが,現状である。一方,学生自体の側も,量的増加のもとで,出身階層,文化的属性,社会的地位などに大きな変化をきたしつつある。大学の大衆化,さらにはその普遍化(M. トロウ)のもとで,学生層をどのように位置づけるかが,より基本的な問題であると思われる。
執筆者:寺崎 昌男
→四書
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1古代の中央における学問・教育のための機関。7世紀後半の天智朝に始まるとされ,大宝・養老令の官制では式部省のもとに大学寮がおかれた。博士1人・助教(大宝令では助博士)2人・学生(がくしょう)400人のほか,音博士・書博士・算生・書生などが所属し,学生は秀才・明経(みょうぎょう)・進士(しんし)などの課試をへて官吏に登用された。のち728年(神亀5)の学制改革によって文章(もんじょう)・明経・明法・算の4学科体制が成立し,730年(天平2)には衣食の給付をうける得業生(とくごうしょう)の制度が新設された。平安初期には文章道(紀伝道(きでんどう))が重視され,勧学田がおかれ,学問料が給付されるなど教育の条件が整えられた。大学はその後も中・下級官人養成の機能を維持したが,博士家の形成にともなってその実質はしだいに失われ,大学寮は1177年(治承元)の京都の大火によって焼失し,以後は復興されなかった。
2近代の学術研究と教育の最高学府。近代の大学は明治期以降,ヨーロッパの大学制度を移入して設立された。1877年(明治10)旧幕府の開成所(かいせいじょ)・医学所などを母体に東京大学が設立された。86年には工部大学校など各省管轄の教育機関を統合して帝国大学となり,「国家ノ須要」に応じる学問と官僚・高等技術者養成の役割をはたした。帝国大学はのち京都・仙台・福岡などにも設置された。1918年(大正7)の大学令以降,官立単科大学,公立・私立大学も認められ,さらに植民地に京城・台北両帝国大学が設置されるなど,大学数・学生数も増加したが,第2次大戦前および戦中期を通じて帝国大学の特権的性格は変わらなかった。戦後は6・3制の最上段階として旧専門学校・高等学校などを統合して新制大学に再編され,修業年限4年で一般教育・専門教育を施す機関となった。50年(昭和25)から2年または3年制の短期大学も発足した。戦後の大学進学率急増による大学の大衆化や序列化などに対応して,入試制度や大学の個性化などさまざまな問題もかかえている。ほかに文部科学省所管外の防衛大学校・防衛医科大学校・気象大学校・水産大学校など大学校がある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
中世に起源を持つ高等教育機関。ヨーロッパの大学は,伝統的な自由七科を教授した8~9世紀以来の修道院,司教座聖堂の付属学校を基礎に,イスラームの影響を受けつつ形成された。当初はボローニャ大学のように,個々の学部を持つにすぎなかったが,13世紀初頭に自治,裁判,免税の諸特権を獲得し,人文,法律,医学,神学の各学部を有したパリ大学(1200年創設)が,14世紀以降叢生する諸大学の範となった。大学は教師と学生のナツィオン(地域別グループ)からなり,その代表が学長を選んだが,のちには学位授与権を持つギルド組織の専門別学部制になり,またイギリスのような学寮の集合からなるものもあった。しかし「大学の自由」の理念に支えられ,あらゆる学問分野を包括する研究教育体系としての総合大学の出現は18世紀以降に属する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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