大城間切
ふうぐすくまぎり
沖永良部島のほぼ中央部に所在した行政区画の一。当間切はすでに琉球王国時代に置かれていたと考えられる。正保琉球国絵図に「大城間切」とみえ、「ヲホグスク」の訓が付され、間切高は高五八八石余で、当間切のうちとして「下平川村」「和村」を記す。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳でも同様で、田方三〇一石余・畠方二八二石余、桑役四石余。一八世紀頃間切の再編によって、大城・和泊・和・後蘭・田舎平、赤嶺・下城・田皆・島尻・屋母子・瀬利覚(現知名町)の一一ヵ村が所属したとされる(沖永良部島沿革誌私稿)。間切には島役人として与人、その配下に間切横目らが置かれ、与人役所は和泊村にあった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報