大和国家(読み)ヤマトコッカ

デジタル大辞泉 「大和国家」の意味・読み・例文・類語

やまと‐こっか〔‐コクカ〕【大和国家】

律令国家成立以前の大和政権による日本の統一国家。→大和政権

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精選版 日本国語大辞典 「大和国家」の意味・読み・例文・類語

やまと‐こっか ‥コクカ【大和国家】

〘名〙 現天皇家の系譜上の祖先を君主とし、少なくとも四世紀以降、古代日本の大和地方に成立していた国家。大和時代の国家。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大和国家」の意味・わかりやすい解説

大和国家
やまとこっか

日本古代史上で、律令制(りつりょうせい)国家成立以前の時期の国家。政権所在地は、おもに大和(奈良県)の地域および河内(かわち)(大阪府)など。大和政権または大和朝廷ともいう。最近では、古代国家の成立を7世紀に求める考えが増えたので、大和政権ということが多い。なお、「大和」の表記は8世紀なかば以降に使用され、それまでは「倭」「大倭」であるので、倭政権、大倭政権とも書く。また、ヤマト政権と表記することもある。

[吉村武彦]

成立時期と範囲

大和国家とは、奈良盆地前方後円墳が出現したころから、律令制国家が成立するまでの時期の「国家」の名称である。政権は、大和および河内を直接的な政治基盤とする。したがって、4世紀から7世紀ころまでの時期の政権となる。その成立時期は、邪馬台国(やまたいこく)が滅亡した後なので、邪馬台国の所在地が北九州近畿かによって、その前史の理解は大きく異なる。

日本書紀』では、邪馬台国の女王卑弥呼(ひみこ)を神功皇后(じんぐうこうごう)にあてるので、邪馬台国を大和政権に含めることになる。しかし、書記の記述は別にして、近年の古代史学界では、近畿説でも邪馬台国の滅亡後に大和政権を位置づける。北九州説では、一部に邪馬台国東遷説もあるが、一般的には邪馬台国との関係は認めず、奈良盆地で大和政権の成立を考察する。いずれの説をとるにせよ、『古事記』『日本書紀』の天皇名でいえば、実在がほぼ確実とされる崇神天皇(すじんてんのう)からである。なお、初代の王(大王)に想定されている崇神天皇と、最古の前方後円墳の成立時期や出現場所との関係はいまだ不明である。しかしながら、大和政権による政治的秩序の形成に、各地域で築造される前方後円墳の問題が関係していることは、ほとんど間違いない。

[吉村武彦]

政権の画期

記紀において、ハツクニシラススメラミコト(初めて国を統治した天皇)とよばれるのは、神武(じんむ)と崇神天皇である。しかし、神武天皇は実在しない。実在がほぼ想定されるのは、崇神以降である。記紀の系譜の天皇名でいえば、10代崇神、11代垂仁(すいじん)、12代景行(けいこう)の3名が対象となる。その後の13代成務(せいむ)、14代仲哀(ちゅうあい)は実在が疑われている。したがって、この3名を含めて初期の大和政権を考察することになる。記紀の伝承によれば、3名の都宮および陵は大和にある。巨大な前方後円墳の所在地の問題を考慮に入れて考察すれば、初期の大和政権の基盤は、後の大和国磯城(しき)、十市(とおち)郡を中心に、山辺(やまのべ)、高市(たけち)郡の一部を含めた地域であり、大和国規模の政治的統合を成し遂げたのであろう。最近では、最初の政権所在地の候補に巻向川(まきむくがわ)流域を求める見解も出ている。初期の大和政権は、山背(やましろ)、摂津(せっつ)など近畿地域の諸勢力と政治的関係を結び、その力を背景に、吉備(きび)、讃岐(さぬき)、筑紫(つくし)などの政治勢力と連合を形成していたと考えられている。この政権を「三輪王朝(みわおうちょう)」とみる見解もある。

 記紀の伝承によれば、15代応神(おうじん)、16代仁徳(にんとく)以降の都宮および陵は、河内(後の和泉(いずみ)を含む)を中心に考えることになる。4世紀末から5世紀の初めには、巨大な前方後円墳の営造は奈良盆地から大阪平野に移り、古市古墳群(ふるいちこふんぐん)と百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)の地域に相次いでつくられる。この現象の見方は二つに分かれる。一つは大和政権が発展し、その権力基盤が大和から河内の地域にまで拡大し、新段階に入ったとみる見解。もう一つは、大和政権の主体が大阪平野の南部に基盤をもつ勢力と交替したとみる見解である。後者の説のなかに「河内王朝」論がある。いずれにせよ、中期の大和政権である。

 5世紀の後半になると、大阪平野に営まれる王陵だけが、他とは隔絶した巨大化した前方後円墳となり、王権が顕著に強化される。これには、5世紀代における近畿地域の生産力の発展を背景としているが、朝鮮と中国からもたらされた渡来人の生産技術が大きく寄与していた。15代応神から始まる王統は、25代武烈(ぶれつ)でとだえ、応神5世孫という出自の26代継体(けいたい)が王位を継ぐ。

 継体は近江(おうみ)(滋賀県)ないし越前(えちぜん)(福井県)を出身地とする豪族であり、『日本書紀』によれば、即位してから大和に入るまで20年を要している。5世孫を疑う見解もあるが、事実としても疎遠な血縁関係である。しかも王陵(今城塚古墳(いましろづかこふん)説が有力)が孤立している点からみても、前代と一線を画する新しい王統としてとらえるべきであろう。継体の没年から次代安閑(あんかん)の即位まで、書紀の紀年では空白があり、また29代欽明(きんめい)即位年が書紀と『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』などとでは異なるので、継体の没後に、欽明朝と安閑・宣化(せんか)朝が併立していたとする見解もある。ともあれ欽明以降が後期大和政権の重要な時期でもある。7世紀の推古(すいこ)朝になれば、官僚制的国家の仕組みが徐々に形成されてくる。

[吉村武彦]

対外関係と社会編成

6世紀までの大和政権が中国の正史で取り上げられるのは、倭(わ)の五王の『宋書(そうじょ)』である。それ以外には、中国吉林(きつりん)省集安にある高句麗(こうくり)好太王碑文に、永楽6年(396)の記事にかかわる前置き文に「而倭(わ)以辛卯(しんぼう)年米渡海、破百残(ひゃくざん)□□新羅(しらぎ)、以為臣民」とみえ、かつて高句麗の属民であった百残(百済(くだら))、新羅を辛卯年(391)に倭の臣民としたような記述がある。4世紀の後半には、倭は朝鮮半島へ兵を進めていたのであろう。朝鮮を蕃国として支配することにより、倭王は治天下大王となる。また、通説では369年に想定されている。東晋(とうしん)の泰和(太和)4年に百済で製作された石上神宮(いそのかみじんぐう)所蔵の七支刀(ななつさやのたち)がある(百済と東晋との外交関係は372年に始まるので、通説には問題が残る)。ここに「旨」と読める倭王がいたとされる。『宋書』には讃(さん)、珍(ちん)、および済(せい)、興(こう)、武(ぶ)の5人の倭王がみえる。『宋書』の血縁関係の記載によれば、珍と済の間には血縁関係は見当たらない。ただし、『梁書(りょうじょ)』では父子の関係である。これら倭の五王は、宋の皇帝から倭国王として冊封(さくほう)されている。

 倭国の金石文で年代が確定的なのは、埼玉の稲荷山古墳(いなりやまこふん)出土の鉄剣と熊本の江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の大刀である。前者に、辛亥(しんがい)年(471)に杖刀人(じょうとうじん)の首としてワカタケル(雄略(ゆうりゃく))に奉事するヲワケ臣、後者に、ワカタケルに典曹人(てんそうじん)として奉事するムリテのことが銘記されている。ここでは、倭王は奉事する人から大王とよばれている。1987年に、稲荷山古墳より古い、5世紀なかばの千葉の稲荷台1号墳から「王賜」の銘文の入った鉄剣の存在が明らかとなった。王、大王とも「オオキミ」と訓(よ)むのであろうが、王であることにその本質がある。

 5世紀の大和政権は、中国の皇帝に倭国王として冊封されるばかりか、朝鮮半島南部の軍事的支配権の承認と、倭王に臣属する「倭隋(わずい)等十三人」「軍部二十三人」への、半西将軍等の冊封を要請し、承認されている。「王賜」銘鉄剣は、倭王とともに中国皇帝から冊封された地方豪族よりは下のクラスへの下賜刀である可能性が強い。これらの金石文には、明白に氏(うじ)・姓(かばね)と確認される名称はまだみられない。

 5世紀末ないし6世紀に入って、それまで王権に特定の職務で仕えていた倉人(くらびと)、史(ふひと)や大伴(おおとも)の伴(とも)の集団を対象に、百済の制度を移入した部(べ)の制度(部民制(べみんせい))が創設されたのであろう。その後、連(むらじ)の姓(かばね)を付与される氏の成立に伴い、平群(へぐり)、巨勢(こせ)、蘇我(そが)など、おもに大和の地域名をもつ臣(おみ)のカバネをもつ氏も成立した。そして、このような氏の序列化のために、ワケやスクネの「称号」が、姓(かばね)として使用されるようになる。大伴、物部(もののべ)などの連(むらじ)姓の氏は、特定の職掌をもって王権に仕え奉る氏であり、葛城(かつらぎ)、平群、蘇我などの臣(おみ)姓の氏は、独立の性格が強い在地系豪族で、それぞれ大和政権を構成した。

 継体以降の、大和政権の整備された形態では、治天下大王を頂点に大臣(おおきみ)、大連(おおむらじ)、大夫(まえつきみ)を核として朝廷が構成された。また、地域行政組織としては国造(くにのみやつこ)が支配する国と、稲置(いなぎ)・県主(あがたぬし)が治める県(コオリ、アガタ)の二重組織に整えられた。部民は、(1)名代(なしろ)・子代(こしろ)などの王権所有部(べ)、(2)海部(あまべ)、山部(やまべ)、忌部(いんべ)などのいわゆる職業部、(3)蘇我部、大伴部などの豪族所有部に大別される。国造や部民の制度が、『日本書紀』によると、大化改新詔で廃止の対象となっている。それ以前、基本的には王族は(1)名代・子代の民、豪族は(3)部曲(かきべ)の民を財政的基盤とし、王族は屯倉(みやけ)、豪族は田荘(たどころ)を農業経営の拠点としていた。

 外交関係では、推古朝に倭国は中国の冊封体制を離れ、対等の外交関係を志向するようになっていた。

[吉村武彦]

『井上光貞著『日本国家の起源』(岩波新書)』『平野邦雄著『大化前代社会組織の研究』(1969・吉川弘文館)』『鈴木靖民著『増補古代国家史研究の歩み』(1983・新人物往来社)』『歴史学研究会他編『講座日本歴史1』(1984・東京大学出版会)』『平野邦雄著『大化前代政治過程の研究』(1985・吉川弘文館)』『和田萃著『大系日本の歴史2 古墳の時代』(1988・小学館)』


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大和国家【やまとこっか】

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