大分(読み)だいぶん

精選版 日本国語大辞典 「大分」の意味・読み・例文・類語

だい‐ぶん【大分】

[1] 〘名〙 (形動)
① 数や量の多いこと。金額の大きいことなど。多数。たくさん。だいぶ。
※古文真宝前集抄(1642)一「悪は大分にして善は少し」
※浄瑠璃・冥途の飛脚(1711頃)上「手前も大ぶんの損銀」
② 物事の内容や状態の程度が、思ったより大きいさま。かなりなさま。たいしたさま。良い意味にも悪い意味にも用いる。
※俳諧・西鶴大矢数(1681)第一四「石亀に夫花の火か燃あかり 小の虫より大分の春」
※日本橋(1914)〈泉鏡花〉一〇「それにしても大分(ダイブン)の無沙汰をした」
御伽草子・酒の泉(室町時代物語大成所収)(室町末)下「いつしか孫太郎大ふんにへあがりてちゃうじゃとなり」
[2] 〘副〙
① 数量が思ったより多いさまを表わす。たくさん。
※浮世草子・好色一代女(1686)四「人は知らぬ事隠居銀大ぶん御座れは」
② 思ったより程度が大きいさまを表わす。かなり。ずいぶん。そうとう。だいぶ。
和英語林集成(初版)(1867)「Daibun(ダイブン) スズシク ナッタ」
※解体の日暮れ(1966)〈杉浦明平〉一四「そういえば三宅さんもだいぶん変わったらしいぞね」

だい‐ぶ【大分】

[1] 〘名〙 (形動) =だいぶん(大分)(一)
※御伽草子・浜出草紙(室町末)「そも鎌倉と申すは、昔は一足踏めば、三町ゆるぐだいぶの沼にて候ひしを」
[2] 〘副〙 =だいぶん(大分)(二)
※史記抄(1477)一五「槐里と云は大ふ西ぞ」
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)前「どうじゃ番頭どの。だいぶ寒くなったの」

おおいた おほいた【大分】

[一] 大分県中東部の地名。県庁所在地。古くは豊国(とよくに)の国府所在地。大友氏以来の旧城下町。日豊本線と豊肥・久大両本線の分岐する交通の要地。府内。明治四四年(一九一一)市制。
[二] 大分県の中部の郡。大分川の流域にある。旧郡域の東半部は大分市域となっている。〔豊後風土記(732‐739頃)〕

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「大分」の意味・読み・例文・類語

だい‐ぶ【大分】

[名・形動]数量や程度がかなり多かったり進んでいたりすること。また、そのさま。相当。だいぶん。「彼が去って大分になる」
「おそらく北向の―の沖を越えて」〈緑雨・おぼろ夜〉
[副]思ったよりも数が多かったり、程度がはなはだしかったりするさま。相当。ずいぶん。だいぶん。「本を大分買った」「今日は大分寒い」
可成かな[用法]
[類語]比較的割と割に割りかし割方割合結構大幅随分余程大分だいぶん余っ程ずっとかなり相当なかなか大層すこぶいやにやけにえらい馬鹿ばかましてなおさらいわんやさらに余計一層もっとますますいよいよよりも少しもう少しなお一段いやが上に数段段違い層一層しのぐもそっと今少しぐんとぐっとうんと遥かひとしおうたた尚尚なおなおなお以て更なるひときわいや増すなお且つかてて加えてそれどころそればかりかしかのみならずのみならず加うるにおまけにまた且つまた且つこの上その上しかもさてはさなきだに

だい‐ぶん【大分】

[名・形動]だいぶ(大分)」に同じ。
「それにしても―の無沙汰をした」〈鏡花・日本橋〉
「―な御親類だと友へ言ひ」〈川柳評万句合〉
[副]だいぶ(大分)」に同じ。「水かさが大分ふえた」「このあいだより大分涼しい」

おおいた〔おほいた〕【大分】

九州地方北東部の県。もとの豊後ぶんご全域と豊前ぶぜん南部にあたる。人口119.6万(2010)。
大分県中部の市。県庁所在地。もと豊後国府の地で、府内とよばれた。戦国時代は大友氏の、江戸時代大給おぎゅう氏らの城下町。別府湾岸は重化学工業地域。人口47.4万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「大分」の意味・わかりやすい解説

大分[県] (おおいた)

基本情報
面積=6339.33km2(全国22位) 
人口(2010)=119万6529人(全国33位) 
人口密度(2010)=188.7人/km2(全国35位) 
市町村(2011.10)=14市3町1村 
県庁所在地=大分市(人口=47万4094人) 
県花=ブンゴウメ 
県木=ブンゴウメ 
県鳥=メジロ

九州地方の北東部に位置し,瀬戸内海豊後水道に臨む県。北西は福岡県,南西は熊本県,南は宮崎県に接する。東西約120km,南北約110km。

明治以前は豊前国下毛・宇佐両郡と豊後国にあたる。江戸時代には豊前国に中津藩があり,豊後国に日田の西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)支配の天領と岡,臼杵,杵築,日出(ひじ),府内,佐伯,森の各藩が置かれたほか,預地,旗本領,宇佐神宮領,飛地などがあった。1868年(明治1)天領に日田県が置かれ,71年廃藩置県をへて,豊後の各県は大分県に統合された。豊前の各県は71年小倉県,76年福岡県に統合されたが,同年大分県に編入され,現在の県域が定まった。

大分県では,国東半島の海底などでナウマンゾウの化石が発見されたこともあり,この地域での洪積世における人類文化の発見が期待されていたが,1962-67年,丹生(にう)遺跡(大分市)で調査が行われた結果,その最古の段階の石器が第2間氷期のものとされ,前期旧石器時代の遺跡として注目を浴びた。また早水台(そうすだい)遺跡(速見郡日出町)でも第5・6層から祖型握槌などが出土し,周口店第1地点などの前期旧石器と類似していることが明らかにされた。このように,別府湾をめぐる洪積台地は,日本の旧石器文化研究の重要な拠点の一つとなっている。ところで,早水台遺跡では第3層からナイフ形石器など後期旧石器が,さらに第1・2層からは縄文早期押型文土器が出土している。まず,この第3層出土のような後期旧石器文化の遺跡としては,他にそのころの人骨(頭蓋骨)を出土した聖岳(ひじりだけ)洞穴(佐伯市)ややはり同期の岩偶を出土したことで知られる岩戸遺跡(豊後大野市)などがある。また縄文早期の遺跡としては,このほか押型文土器から尖底無文土器までの層位的変遷のみられた川原田洞穴(杵築市)などが,また前期には多数の人骨を出土した枌(へぎ)洞穴(中津市)などがある。縄文後期には磨消縄文土器が,晩期には凸帯文土器が盛行するが,後者には籾圧痕の認められる例があり,この時期における稲作の開始を示している。また大石遺跡(豊後大野市)では〈土段つきスタジアム風〉の大竪穴を中心に黒色磨研土器とともに石鎌などの石器が大量に出土し,これまた農耕の起源について問題を提起した。

 下城遺跡(佐伯市)は,弥生前期下城式の標式遺跡だが,縄文の伝統を色濃くとどめる。後期には櫛目文土器が盛行し,低湿地遺跡で有名な安国寺遺跡(国東市)がある。

 宇佐地方には〈宇佐邪馬台説〉というのがあって,この地方の弥生・古墳時代の遺跡すべてをこれと結びつけて解釈することもあるが,それはともかくとしても,県下の古墳のうちもっとも古式のものが宇佐平野に分布することは注意してよい。赤塚古墳(宇佐市)もその一つで,三角縁神獣鏡4面などを出土した九州でも最古の畿内型前期前方後円墳である。

 歴史時代では,8世紀後半の完成という弥勒寺跡(宇佐市)や藤原末期以降に造立された大小70の臼杵磨崖仏群などがある。
豊前国 →豊後国

西南日本は,中央構造線を境に内帯と外帯に分けられるが,この西南日本の延長線上にある九州は,臼杵-八代構造線より南に外帯の,松山-伊万里線より北に内帯の特色が示されていて,その間に長崎三角帯と呼ばれる九州独特の火山岩類の累積した地帯がみられる。大分県ではその南1/3,すなわち臼杵-八代構造線より南に外帯の特色をもつ地帯が,北2/3に長崎三角帯の火山地の特色をもつ地帯がみられる。外帯にあたる南部は主として秩父古生層や中生層などの水成岩層から構成された山地で,九州山地の北東部にあたる。この中で宮崎県境に高くそびえる祖母・傾(かたむき)山地(主峰祖母山,1757m)は,秩父古生層上に新生代の火山活動が行われて形成されたものである。長崎三角帯にあたる北部は新旧の火山活動による溶岩類が累積して形成されたところで,次の三つに大別できる。(1)阿蘇火山の外輪山とその火砕流の堆積した大野川流域,(2)豊肥火山活動による広大な溶岩台地が形成され,のち浸食されて溶岩台地削剝地形(メーサ,ビュート)の展開する日田,玖珠から耶馬渓地方,(3)両者の間に展開する山陰系の火山である両子(ふたご)山,文珠山(ともに国東(くにさき)半島),鶴見岳,由布岳,九重山などのある地帯。このように大分県の地形は,山地や高原が広く,これらを四周から筑後川の上流,大野川,大分川,山国川などの河川が浸食して,複雑な地形区をなしている。

 気候は複雑な地形,海岸線であることから地域的特性をもち,瀬戸内海に面するところは晴天が多く,降水量の比較的少ない瀬戸内式気候となっており,国東半島のように干ばつ常襲地帯もある。内陸の山岳地帯には山地型気候が卓越し,降水量が多くなり,気温は全般に低く,年較差が大きい。佐賀関半島より南の豊後水道に面するリアス海岸線沿いの地域は降水量も多く,気温も比較的高く,表日本式気候を呈する。

古来,〈豊(とよ)の国〉と呼ばれた大分県は,農林業を中心としてきたが,近年,農業の生産力は低下し,農業粗生産額でみると九州で5位にランクされている。このことは山地および火山地が広いため耕地率が10.5%(全国平均13.4%。1996)と低く,経営耕地規模も小さく,兼業化が進んでいることが原因であろう。農産物の中では畜産の比率が高いのが特徴で,粗生産額では米,肉用牛,ミカン,生乳,鶏卵,豚の順となっている。林業は,旧藩時代から植林が奨励されたため県の西部(日田林業地帯)や南部にはみごとな人工林がみられるが,近年,木材の価格が外材に押されて低迷し,経営は不振である。なお気候条件,豊かな原木に恵まれたシイタケ栽培は県下に広く普及し,干しシイタケの生産は全国1位。一方,水産業は小規模な漁船による沿岸漁業とノリ,貝類の養殖などを主とするが,漁獲量は少なく,ハマチ,タイなどの養殖漁業への転換が推進されている。

 農林業の不振のため,農家人口は大分市や北九州,関西方面に流出し,農村の過疎化が憂慮されている。過疎地域指定の町村数は45で,県下全市町村数の78%にものぼり,全国第1位(1997)である。このような状況を打開するため,1979年以来,1村1品運動が行政主導型で推進され,現在,地域の農水産物に注目して新しい産業を起こす〈村おこし〉が盛んになっている。この運動の先導的な役割を果たした日田郡大山町(現,日田市)は,梅,栗の生産およびその農産加工業の育成を計り,成功した例として知られる。

大分県は近代化の過程において,藩政時代の小藩分立の歴史が大きな障害となって,大藩に起源をもつ鹿児島本線沿いの諸県に比べて,中心都市の発達,近代工業の育成がかなり遅れた。鹿児島本線が熊本まで開通したのは1891年であったが,ほぼ県域の海岸線に沿う日豊本線が大分まで開通したのは1911年,東西に走る豊肥本線は28年,久大本線は34年であった。大分県では山地が広いためトンネルが多く,道路トンネルの総延長では北海道に次いで第2位となっている。大正から昭和にかけての資本主義の発展過程においても鉱工業を中心として発展した北九州に比べて,大分県は農産物と労働力の供給圏としての役割を果たしたにすぎなかった。複雑な地質構造を反映して多種の地下資源が分布するが埋蔵規模は小さく,第2次世界大戦後県北に約50あった金山は70年の鯛生(たいお)を最後にすべて閉山,祖母・傾山地のスズ,銅鉱山も海外からの鉱石輸入などによって閉山した。一方,非金属鉱山では津久見市の石灰石(全国の16%を占め1位)ほか周辺のドロマイト,ケイ石などが安定した生産量をあげている。工業では日豊本線開通以降進出した大分市,中津市の繊維工場,地元資源を利用した津久見のセメント工場,日田の木材加工工場,輸入鉱物加工の佐賀関製錬所などが起こった。1952年まで工業の首位にあった繊維は衰退して中津,大分になごりをとどめ,50年代末から大分川,大野川下流西岸一帯の遠浅の海岸が注目されて,61年から重化学工業を中心に大分・鶴崎臨海工業地域が造成された。大分川河口の大分空港が72年国東半島南東岸に移転して跡地の広範囲な利用が可能になり,第1期工事が完了し,新日鉄,九州石油,昭和電工などの大企業が立地している。現在は大野川東岸の第2期工事が続行中である。第1期工事完了以来,工業生産は飛躍的に増大し,現在,九州地方では福岡県に次ぐ工業県となって,年間製造品出荷額は2兆7422億円(1996)にのぼる。1964年,大分市,別府市を中心に新産業都市の指定をうけ,現在も都市づくりが進められている。80年代初めからICを中心とするテクノポリス構想が打ち出されてきたが,大分空港を基地として,国東半島から県北にかけての一帯の開発に力が注がれ,企業進出もさかんである。なお,伝統工業としては,日田の下駄を中心とする木材加工業および小鹿田(おんだ)焼,臼杵の醸造工業(みそ,しょうゆ)などがある。

県内には阿蘇,瀬戸内の2国立公園,耶馬日田英彦山(ひこさん),祖母傾,日豊海岸の3国定公園があり,さらに国東半島,豊後水道などの5県立自然公園が設定され,その面積は全県の約3割に達し,面積,比率ともに全国第7位にある。文化財についても,宇佐神宮(本殿は国宝)をはじめ,臼杵,国東半島,大野川流域の豊後磨崖仏などの石造文化財が多く,豊かな観光資源に恵まれており,観光消費額は2546億円(1995)にのぼる。別府から九重山にかけての地域は,1964年に誕生した九州横断道路(通称やまなみハイウェー。94年無料開放)に沿う火山,高原と温泉の里で,県観光の中心をなしている。別府は世界的な温泉観光保養都市であり,別府の西約20kmにある湯布院(ゆふいん)は観光客向けの行事を恒例化するなどユニークな温泉地づくりが進められている。九重山周辺には筋湯温泉,長者原(ちようじやばる)温泉郷,法華院(ほつけいん)温泉などの多くの温泉地がある。そのほか仏教文化と石仏の里国東,水郷日田,渓谷の名勝地耶馬渓,深山と渓谷の祖母山系,海岸美を誇る日豊海岸,史跡と古城の大野川流域などの観光地もある。

大分県では歴史的背景,複雑な地形区を反映して,各地に特色ある小文化圏がみられる。

(1)県北--中津,耶馬渓,宇佐地方 県北地域はかつての豊前国の南半分にあたり,北は瀬戸内海の周防灘に面する。山国川下流の中津地方は,県の最北部に位置し,中津平野の中心である。中津は1587年(天正15),黒田孝高(よしたか)が山国川の河口丸山に築城したのに始まり,1717年(享保2)からは奥平氏10万石の城下町として栄えた。明治以降も県北の商業・交通の中心である。周辺農村は豊かな水田地帯であるが,洪積台地下毛原(しもげばる)では野菜やかんきつ類,梨などの果樹の生産も盛ん。山国川上流の耶馬渓地方は,古くは山国と呼ばれていたが,現名は19世紀初め,頼山陽が渓谷美を賞して詩文に耶馬渓と記したことに由来する。駅館(やつかん)川下流の宇佐地方は,古代から宇佐神宮を中心に開けたところであり,現在,この地方から国東半島にかけては古い宇佐文化を物語る多くの遺跡が残っている。ここは宇佐米の産地として知られ,駅館川総合開発による大規模圃場基盤整備も完了し,生産性の高い農業が展開している。

(2)県西--日田,玖珠地方 県西地域は山間地で,西は福岡県,南は熊本県に接する。筑後川上流域の日田,玖珠地方は,藩政時代は天領が多く,その中心日田には西国筋郡代の布政所が置かれた。この地方は日田林業地帯を背後にひかえ,木材加工業が古くから盛んで,また三隈川の遊船,鵜飼いは日田観光の中心をなす。玖珠地方は高原が広く,牧野がひらけ,古くから豊後牛の生産が盛んである。

(3)県央--大分,別府,大野川流域 県央地域は瀬戸内海の伊予灘に臨み,南西部は熊本県阿蘇地方に接する。大分川下流の大分地方は,大分平野の中心で,古代から中世の大友氏の時代にかけて豊後国の政治の中心であった。近世には大分川流域地方を支配した2万2000石の小藩が府内にあったにすぎないが,明治以降,大分県の県庁の所在地となり,再び県の政治・経済・交通の中心となった。1961年から大分臨海工業地域が造成され,飛躍的に人口が増加している。別府は文政年間(1818-30)から温泉場として栄えるようになり,明治以降大きく発展して世界的な観光保養都市となっている。大野川流域は農村地帯であり,近年人口の減少が激しい。大分市との交通が国道57号線の開通で便利になると,大分市の商圏の影響を強くうけるようになった。上流域は竹田が,中流域は豊後大野市の三重が中心地である。

(4)県南--佐伯,津久見,臼杵 県南地域は豊後水道に臨み,南は宮崎県に接する。佐伯湾頭の佐伯(さいき)は,佐伯藩2万石の城下町として栄えた町で,現在,セメント,パルプなどの工場がある。臼杵湾頭の臼杵は,臼杵藩5万石の城下町として発達した。現在,醸造工業(みそ,しょうゆ,ウィスキー),造船業がある。津久見は藩政時代は臼杵藩と佐伯藩によって分割統治された半農半漁の村であったが,大正から昭和初めにかけてセメント工業が発達してから栄えた。
執筆者:


大分[市] (おおいた)

大分県中部にある市で,県庁所在地。2005年1月旧大分市が佐賀関(さがのせき)町と野津原(のつはる)町を編入して成立した。人口47万4094(2010)。

大分市中部の旧市で,県庁所在地。1911年市制。63年には鶴崎市,大南町,大分町,大在村,坂ノ市町と合体して大分市となった。人口43万6470(2000)。市域はほぼ大分平野とそれを囲む山地の範囲で,別府湾に臨む。古代に豊後国府が置かれ,賀来には国分寺の礎石が残り,一帯には条里制の遺構がみられる。中世大友氏が豊後国を支配してこの地にあり,義鎮(宗麟)の時代には九州6ヵ国の守護職を手中に収め,明やポルトガルと貿易をして繁栄したが,近世は領国は解体され小藩分立となり大分川流域地方を支配した小藩が府内にあり,当時の城跡と内堀を残している。中心市街地は旧城下町の西半分にあたる地域に発達し,東方の大野川下流部にある鶴崎の市街地は近世の港町であった。1900年大分~別府を結んで豊州鉄道(日豊本線の前身)が通り,28年豊肥本線,34年久大本線が全通してその分岐点となり,東九州の交通の中心となった。大分自動車道が通り,東九州自動車道に接続する。大正初期に大分紡績,片倉製糸大分製糸所が操業を開始したが,その後工業はそれほどの伸びをみせず,地方中心都市としての役割を果たしていた。61年から大分・鶴崎臨海工業地域造成が進み,64年新産業都市に指定されてから近代工業都市として発展し,九州石油,昭和電工グループ,新日本製鉄などの企業が進出している。市内には元町石仏,高瀬石仏,千代丸古墳(ともに史跡)など史跡が多く,西部の柞原(ゆすはら)八幡宮のクス,高崎山のサルは天然記念物。

大分市北東端の旧町。旧北海部(きたあまべ)郡所属。人口1万2860(2000)。佐賀関半島の北東部に位置する。瀬戸内海への門戸にあたる豊予海峡に面し,古代から交通の要衝として関が置かれたことから,この地名が生まれた。中心地は半島先端近くの,南北から湾入のある地峡部にあり,近世は風待港として栄え,熊本藩領に属していた。大正初期には久原鉱業(現,日鉱金属)佐賀関製錬所ができ,煙害をさけて丘陵上に設置された大煙突は佐賀関のシンボルとなっている。北の湾入の上浦(うわうら)は工業港で,愛媛県佐田岬半島の三崎港と結ぶ九四フェリーが発着し,南の湾入の下浦(したうら)は一本釣漁業の基地となる。半島先端は地蔵崎である。
執筆者:

古く《和名抄》では豊後国海部郡佐加郷に属する。良港に恵まれ,古来,海上交通の要地である。1285年(弘安8)の豊後国大田文に〈海部郡八百参拾壱町内,佐賀関拾壱町 関宮殿(早吸日女(はやすいひめ)神社) 地頭大友兵庫頭入道殿(頼泰)〉などとみえる。1330年(元徳2)3月の関東御教書(宇佐宮条々)に〈一庭石事,遷宮毎度自豊後国佐賀関調進云々〉とあり,当地より宇佐宮へ庭石を調進するのが恒例であった。当地は,鎌倉末期には北条得宗領になったとうかがえるが,南北朝期には豊後守護大友氏の手に戻った。下って1553年(天文22)の〈佐賀関郷25貫分御公領地検帳坪付〉で佐賀関の範囲が確かめられ,71年(元亀2)の〈関郷公領25貫分所務帳〉に分米惣都合8石6斗5升1合定とあり,大友氏や現地の早吸日女神社などへの納米から成っていた。
執筆者: 1593年(文禄2)太閤蔵入地となり,その後福原,太田,稲葉各氏が支配する臼杵藩に属したが,1601年(慶長6)肥後熊本城主加藤清正が瀬戸内への通路として豊後において2万3000石の領地を得たのに伴い,熊本藩領となる。32年(寛永9)からは細川氏の支配下となり,幕末に至る。近世において行政上は海部郡関手永に属し,〈関村〉(正保郷帳では171石余,天保郷帳では179石余)と称した。佐賀関半島の先端に位置する特徴を生かし,熊本藩は佐賀関番所を設置した。番所は浦奉行の勤務する関上御番所のもとに,10人の下番人が輪番制によりそれぞれ2人あて勤番する上浦(藩主の江戸参勤の際の潮待・風待港)番所と下浦番所に分けられ,港出入りの船舶と積荷の検閲,貢米輸送船・難船などの保護,安全の確保などをその任務としていた。ほかに有事に在番する遠見番所,笹遠見番所も置かれた。こうした佐賀関の状況について古川古松軒は〈佐賀関といふ所は外浦,内浦にて市中五百軒ばかり,よき船がかりの湊ゆへに日向,大隅より海上往来のふね日和待をする浦にて,淋しからぬ所なり〉(《西遊雑記》)と述べている。参勤交代のための休泊所として御茶屋も設けられていた。
執筆者:

大分市南西端の旧町。旧大分郡所属。人口5094(2000)。大分川支流の七瀬川流域に位置し,南部には鎧ヶ岳(よろいがたけ)など標高800m前後の山が連なる。七瀬川沿いにかつての熊本藩主の参勤交代路(現,国道442号線)が通り,町の中心をなす野津原は熊本藩の宿場町として栄えた。また街道西部の今市は岡藩領の旧宿場町で石畳道が残る。古くから米作の盛んな地域で,シイタケ,野菜,花卉の栽培や肉牛の飼育なども行われる。近年,農家の兼業化が進み,北東に隣接する旧大分市への通勤者が多い。南部の荷尾杵(におき)に江戸中期建築の直屋(すごや)農家,後藤家住宅(重要文化財)がある。南東部にそびえる障子岳(751m)山腹の宇曾神社は子宝と虫封じの神として知られるが,春秋の大祭以外は女人禁制である。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

普及版 字通 「大分」の読み・字形・画数・意味

【大分】たいぶん

おおよその定め。寿命など。〔南史、隠逸、陶潜伝〕疾患より以來、漸く損に就く。親(わす)れず、(つね)に石の救せらるるるも、自ら大の將(まさ)に限りらんとするをるるなり。

字通「大」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android