大井荘(読み)おおいのしょう

百科事典マイペディア 「大井荘」の意味・わかりやすい解説

大井荘【おおいのしょう】

美濃国安八(あんぱち)郡の荘園。現岐阜県大垣市の中心部に位置した。奈良東大寺領。10世紀中ごろまでには見作田(げんさくでん)50余町の荘園として成立。同国厚見(あつみ)郡の東大寺領茜部(あかなべ)荘と同様,国司加納田(かのうでん)収公(しゅうこう)に対する争いの中で荘域を確実なものとし,不輸不入(ふゆふにゅう)権を獲得。1214年の見作田は170余町。茜部荘と同じく絹年貢を特徴とする。荘内は下司(げし)・公文(くもん)・田所荘官有司(ゆうし)・間人(もうと)・百姓の階層別の名(みょう)(名・名田)編成がなされていた。在地の開発従事者の中から荘別当(べっとう)などの荘官が補任され,荘官の頂点に立つ下司職は大中臣氏世襲。同氏は約70町の下司名を持ち,荘官の多くを一族で占めたが,内部抗争で鎌倉中期には没落,その後は東大寺が派遣した下司代と公文・田所の三職支配となり,さらに現地土豪の代官請となって終末を迎える。→荘園整理
→関連項目東大寺文書

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改訂新版 世界大百科事典 「大井荘」の意味・わかりやすい解説

大井荘 (おおいのしょう)

美濃国安八郡(現,岐阜県大垣市)にあった東大寺領の荘園。756年(天平勝宝8)に聖武天皇によって勅施入されたと伝える。遅くとも10世紀中ごろまでには50余町の規模の荘園として成立。その後1054年(天喜2)の国司高階業敏,69年(延久1)の国司藤原隆経,75年(承保2)の国司藤原定房,87年(寛治1)の国司高階公俊によって大井荘の収公がなされようとした。国司の主張はとくに大井荘の本免田以外の加納田(籠作公田)を収公しようとするものであったが,東大寺は四至内の土地はすべて荘域であるという論理を貫き,1071年の太政官符によって領域的な荘園として認められるに至った。この11世紀末の荘の確立は東大寺側の努力とともに,在地で開発に従事した人々の力によるところが大きかった。これら大井荘の住人の中から荘別当・専当の荘官が出現し,12世紀の初めにその後の荘官組織の中心となる下司職が出現する。その下司職を相伝したのが開発領主と称する大中臣氏であった。大中臣氏は他の荘官職を一族で固め,60余町の下司名を持ち,鎌倉初期には幕府御家人となって勢力を誇った。1214年(建保2)には見作田172町余に及んでいる。しかしその後下司職をめぐって大中臣氏一族間に争いがおこり,その訴訟の過程で同氏はしだいに力を失い鎌倉中期には没落する。以後大井荘は下司(代)・公文・田所のいわゆる三職が中心となり,16世紀中ごろの荘の終末まで大規模な在地領主は出現しない。1295年(永仁3)の大井荘実検取帳・名寄帳によると,大井荘の名(みよう)は荘官,有司,間人(もうと),百姓の各名に階層的に組織され,名内の田畠は分田,例名,一色,間田,新田など斗代の異なる種類に区分され,そこに東大寺へ納める法花会料,花厳会料,俱舎三十講捧物(袈裟料)などの絹が年貢として賦課された。大井荘には惣荘と区別された高橋郷,榎戸郷,楽田郷の3ヵ郷があり,東大寺別当の別相伝領となっていた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大井荘」の意味・わかりやすい解説

大井荘
おおいのしょう

美濃(みの)国安八(あんぱち)郡にあった東大寺領荘園(しょうえん)。現在の岐阜県大垣市。成立事情は明らかでないが、東大寺は、756年(天平勝宝8)聖武(しょうむ)天皇から施入されたものと伝える。950年(天暦4)ころまでには50町余の田数が注進され、その年貢絹は花厳会(けごんえ)、法花会(ほっけえ)の料足(りょうそく)にあてられた。1069年(延久1)の荘園整理の際の国司側の主張によれば、本免田(ほんめんでん)20町にすぎなかったが、鎌倉初期の1214年(建保2)には見作田(げんさくでん)172町余に拡大されている。当荘の発展に力を尽くしたと伝えられる大中臣信清(おおなかとみののぶきよ)の子孫大中臣氏が下司職(げししき)を相伝し、荘官組織の中心となった。同氏は石包名(いしかねみょう)(下司名)69町余を所有し、在地の事実上の支配者であったが、一族の内部分裂により、13世紀の後半に至り没落した。その後は公文(くもん)、田所(たどころ)、下司代による在地支配が南北朝時代まで続いたが、年貢の重圧、守護や在地の武士層による兵粮米(ひょうろうまい)・夫役(ぶやく)の賦課、大洪水による損亡などが相次ぎ、多くの農民が逃亡し、年々の未進年貢数百貫と称する事態となった。室町時代に入ると、1423年(応永30)に地下(じげ)農民の逃散(ちょうさん)がおこり、在地土豪大垣氏信(おおがきうじのぶ)、西尾直教(にしおなおのり)などによる代官請負が行われることとなり、東大寺の年貢収納の能力はほぼ完全に解体した。1543年(天文12)に定使(じょうし)行真(ぎょうしん)が在地に下向したが、収納した年貢はわずか30貫文で、東大寺に届けられたのは18貫300文余にすぎなかった。

[小泉宜右]

『『岐阜県史 通史編・中世』(1969・岐阜県)』

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世界大百科事典(旧版)内の大井荘の言及

【岩村田】より

…地名の初出は1447年(文安4)。古代の大井郷,中世の八条院領大井荘の中心集落。中世後期には守護小笠原氏の一族大井氏が支配し,その最盛期には民家6000軒,六斎市がたち,国府にまさる繁栄と伝える。…

※「大井荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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