大中臣能宣(読み)おおなかとみのよしのぶ

精選版 日本国語大辞典 「大中臣能宣」の意味・読み・例文・類語

おおなかとみ‐の‐よしのぶ【大中臣能宣】

平安中期の歌人。梨壺(なしつぼ)の五人および三十六歌仙一人。伊勢大神宮祭主。村上天皇の命により、源順(みなもとのしたごう)清原元輔(きよはらのもとすけ)らと共に「後撰和歌集」を撰(えら)ぶ。歌は「拾遺集」「後拾遺集」「詞花集」などにみえる。家集「能宣集」。延喜二一~正暦二年(九二一‐九九一

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デジタル大辞泉 「大中臣能宣」の意味・読み・例文・類語

おおなかとみ‐の‐よしのぶ〔おほなかとみ‐〕【大中臣能宣】

[921~991]平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。梨壺なしつぼの五人の一人として後撰集撰進。歌は拾遺集後拾遺集などに収載。家集に「能宣集」がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大中臣能宣」の意味・わかりやすい解説

大中臣能宣
おおなかとみのよしのぶ
(921―991)

平安中期の宮廷歌人。三十六歌仙の一人。頼基(よりもと)の男、輔親(すけちか)の父。祭主、神祇大副(じんぎたいふ)となる。951年(天暦5)、31歳のとき、梨壺(なしつぼ)の五人の一人に選ばれ、『万葉集』訓点、『後撰集(ごせんしゅう)』撰集作業に従った。「天徳(てんとく)四年内裏歌合(だいりうたあわせ)」(960)をはじめ、「円融院(えんゆういん)・資子(しし)内親王乱碁(らんご)歌合」「左大臣頼忠(よりただ)前栽合(せんざいあわせ)」「寛和(かんわ)二年内裏歌合」「皇太后詮子瞿麦合(せんしなでしこあわせ)」などに出詠、冷泉(れいぜい)、円融天皇の大嘗会(だいじょうえ)歌を詠進し、円融、花山(かざん)の両天皇から二度にわたり「家集」を召された。実頼(さねより)、兼通(かねみち)、兼家など権門の求めに応じ、屏風歌(びょうぶうた)、行事和歌の専門歌人として清原元輔(もとすけ)と双璧(そうへき)をうたわれたが、敦実(あつみ)親王家の子日(ねのひ)の歌のできばえを誇って父頼基にたしなめられた話(『袋草紙』)は、大中臣家の歌道相承の厳しさを象徴している。『拾遺集』以下勅撰集に124首入集(にっしゅう)。

[後藤祥子]

 ちとせまでかぎれる松も今日よりは君にひかれてよろづ代や経む

『山口博著『王朝歌壇の研究 村上・冷泉・円融朝篇』(1967・桜楓社)』『保坂都著『大中臣家の歌人群』(1972・武蔵野書院)』


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改訂新版 世界大百科事典 「大中臣能宣」の意味・わかりやすい解説

大中臣能宣 (おおなかとみのよしのぶ)
生没年:921-991(延喜21-正暦2)

平安中期の歌人。伊勢祭主頼基の子,輔親(すけちか)の父。蔵人,讃岐権掾を経て神祇官に勤務し,祭主正四位下神祇大副にいたる。若年より作歌し,951年(天暦5)〈梨壺の五人〉に選ばれて《万葉集》の訓読と《後撰集》の編纂従事。冷泉・円融両朝の大嘗祭に風俗(ふぞく)歌を詠進し,《天徳四年内裏歌合》《寛和二年内裏歌合》に出詠,権門のために多数の賀歌や屛風歌を制作した。《拾遺集》以下の勅撰集に125首入集。家集《能宣集》を残す。〈御垣守衛士のたく火のよるはもえ昼は消えつつ物をこそ思へ〉(《詞花集》)。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大中臣能宣」の意味・わかりやすい解説

大中臣能宣
おおなかとみのよしのぶ

[生]延喜21(921)
[没]正暦2(991)
平安時代中期の歌人。三十六歌仙の一人。父頼基 (よりもと) ,子輔親 (すけちか) ,孫伊勢大輔 (いせのたいふ) もともにすぐれた歌人であった。正四位下,伊勢の祭主にいたる。天暦5 (951) 年「梨壺の五人」に選ばれ,『後撰和歌集』の撰集と『万葉集』の古点に従事。歌合の出詠,屏風歌の詠進も数多く,冷泉,円融両天皇の大嘗会 (だいじょうえ) の風俗歌を献上している。『拾遺集』以下の勅撰集に 120首近く入集,家集『能宣集』は『三十六人集』の一つ。平兼盛 (かねもり) ,清原元輔 (もとすけ) ,源順 (したごう) らと交渉があり,当時の代表的歌人。

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朝日日本歴史人物事典 「大中臣能宣」の解説

大中臣能宣

没年:正暦2.8(991)
生年:延喜21(921)
平安時代の神祇官人,歌人。三十六歌仙のひとり。頼基の子,輔親の父。正四位下,神祇大副,祭主となる。いわゆる梨壺の五人のひとりとして『後撰集』の選者となり,『万葉集』の訓点作業に従った。また『拾遺集』以下13の勅撰集に入集,親王を出産した中宮彰子にその父藤原道長が贈った品物には能宣の家集『能宣集』が含まれていたという(『紫式部日記』)。「御垣守衛士のたく火の夜はもえ昼は消えつゝ物をこそ思へ」(『詞花集』)の詠歌が百人一首に採られている。<参考文献>山口博『王朝歌壇の研究/村上・冷泉・円融朝篇』,保坂都『大中臣家の歌人群』

(浅見緑)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大中臣能宣」の解説

大中臣能宣 おおなかとみの-よしのぶ

921-991 平安時代中期の神職,歌人。
延喜(えんぎ)21年生まれ。大中臣頼基(よりもと)の子。大中臣輔親(すけちか)の父。天禄(てんろく)3年伊勢神宮祭主となる。のち正四位下。三十六歌仙のひとりで,「後撰(ごせん)和歌集」の撰者をつとめた。「拾遺和歌集」などにおおくの和歌をのこす。正暦(しょうりゃく)2年8月死去。71歳。家集に「能宣集」。
【格言など】御垣守(みかきもり)衛士(ゑじ)のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ(「小倉百人一首」)

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世界大百科事典(旧版)内の大中臣能宣の言及

【梨壺の五人】より

…951年(天暦5)10月,村上天皇の勅命によって,《万葉集》の訓釈と第2番目の勅撰集《後撰集》の撰という二つの事業が課せられ,内裏の後宮にある昭陽舎(梨壺)に初めて撰和歌所が置かれた。別当(長官)には左近少将藤原伊尹(これただ)が任ぜられ,讃岐大掾大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ),河内掾清原元輔,学生源順(みなもとのしたごう),近江少掾紀時文,御書所預坂上望城(さかのうえのもちき)の5人が事にあたった。能宣,元輔は当代歌人の代表者,順は和漢にわたる随一の学識者,時文は能筆の者,望城は御書所の図書責任者であったから,それぞれの能力や立場に応じて撰集と訓釈という両面の仕事が分担されたと想像される。…

※「大中臣能宣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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