外浦町(読み)ほかうらまち

日本歴史地名大系 「外浦町」の解説

外浦町
ほかうらまち

[現在地名]長崎市万才町まんざいまち江戸町えどまち

平戸ひらど町の南西中島なかしま川河口の右岸にある長崎うち町の一ヵ町で、陸手に属した。町並は東西に二筋に分れ、南東大村おおむら町や島原しまばら町に隣接する。元亀二年(一五七一)大村純忠により町割が行われた六ヵ町の一つで、外浦(西彼杵半島南西部)からの来住者が多かったらしい。天正八年(一五八〇)四月イエズス会に寄進されて教会領となり、同一六年に豊臣秀吉直轄領とされ、地子銀が免除された。文禄元年(一五九二)渡航船主の一人として船本弥平次がみえるが(長崎志)、当時は当町に居住していたという(のち新町に移転)。慶長九年(一六〇四)八月船本弥七郎は安南向けの朱印状を徳川家康から給付されて渡航(「異国御朱印帳」増訂異国日記抄)、「貴国商舶主弥七郎」は安南国大都統瑞国公(国王の外戚)の信頼が厚く、毎年のように通商を望まれた(弘定六年五月「安南国大都統瑞国公阮書状」外蕃書翰)。それまで多かった海賊的な船に対して弥七郎顕定の船は通商を目的とすることから信用されたらしく、同一〇年に交趾・柬埔寨、同一一年・同一二年に安南、同一八年・同一九年・同二〇年および元和二年(一六一六)などに交趾渡海の朱印状が交付され、また交趾国に渡る諸商は「顕定沙汰して互市厳正」にすべきことを幕府から命じられている(「徳川実紀」元和四年一〇月一二日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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