日本大百科全書(ニッポニカ) 「壺」の意味・わかりやすい解説
壺
つぼ
胴部が球形に張り出し、底辺と口頸(こうけい)部がつぼまった容器。口頸があまりつぼまっていないのは甕(かめ)という。胴部の下半と上半で曲面の屈曲率の異なるもの、口頸から上部に直立した口唇部をもつもの、外湾した口唇部をもつもの、まったく口唇部を欠くものなど、さまざまな形態の壺がある。
[江坂輝彌]
壺の発生
今日知られる最古の壺は粘土でつくられ、素焼にした壺形土器である。壺形土器の発生が世界でもっとも早かったのはティグリス・ユーフラテス両川流域のメソポタミアの平原と思われる。ここでは紀元前7000年ころに麦類の栽培が開始されている。前6000年ころのジャルモ遺跡では大麦と2種の小麦が栽培され、家畜としてヤギが飼育されていた。これに続く前5500年ころのハッスナ期のハッスナ遺跡、テル・サラサートなどからは細い口頸部のついた壺形土器が出土している。いまから約7500年前、小麦などの栽培が普遍的になった地域では、穀類の種子保存容器として壺形土器が発達したものであろうと考えられている。前5000年ころになるとドナウ川流域から地中海岸に農耕文化が伝わり、この地方でも壺形土器がつくられた。
アジアでは黄河流域に展開した仰韶(ぎょうしょう)文化の前4000年ころの朱彩文壺形土器がよく知られていたが、近年、アワ、キビを栽培する前5000年ころにまでさかのぼる磁山(じざん)・裴李崗(はいりこう)文化の存在が明らかにされ、この文化に手作り粗製の低火度で焼成された細口壺形土器の存在することが明らかになった。
南・北アメリカ大陸でも、メキシコ高原では前2000年ころにトウモロコシの品種改良がなされ、農耕文化が興り、そのころ球形ないし卵形の壺形土器がつくられた。
中央アンデス山地でも前1000年ころには無頸壺形土器が現れている。エクアドル太平洋岸のバルディビア貝塚では前4000年ころに壺形土器がつくられ、調査者エバンズ博士は、本貝塚の土器の文様が日本の縄文土器の一部のものに類似しているとし、南米最古の土器文化は北太平洋海流に乗って、エクアドル海岸に漂着した縄文文化人によってつくられたとする奇想天外な仮説を発表した。しかし、このバルディビアの土器はかなり発展した段階のものであり、南米における土器の起源と壺形土器発生の起源はさらにさかのぼることが予測され、また壺形土器の発生の起源も、けっして一元でないことを物語っているようである。また土器は鉢、深鉢を主とした食料の煮炊きの煮沸用具として発生し、穀類の栽培の開始などによって、種子の保存などの必要性から保存用の容器としての壺形土器が分化発生をみたと思われる。
[江坂輝彌]
日本の壺
日本列島では縄文時代前期末、前3000年ころ広口壺に近い器形の土器が現れ、体部球形の細口壺形土器が現れるのは中期後半、前2000年ころである。壺形土器が普遍的に数多く現れるのは後期末から晩期である。日本の縄文時代の前期以降では初歩の植物栽培が開始されるが、それは穀類ではなくエゴマ、リョクトウなどであり、これらの種子を保存したものであろう。弥生(やよい)時代に入ると壺はさらに増加し、稲の種もみの越冬保存容器として使われたものであろうか、丹塗(にぬ)りの赤色の美しい壺形土器がみられる。
時代が下るとともに陶製、木製、青銅製、金・銀・銅・鉄製、ガラス製など各種の材料で、さまざまな形態、装飾もつけられた壺が現れる。用途も多様化し、酒の容器として、また薬、塩、油、茶などを貯蔵する容器としても使われた。また特殊な用途としての壺に、唾(つば)や痰(たん)を捨てるための唾壺(だこ)や、タコ漁に使うたこ壺などがある。
[江坂輝彌]