壬午軍乱(読み)じんごぐんらん

改訂新版 世界大百科事典 「壬午軍乱」の意味・わかりやすい解説

壬午軍乱 (じんごぐんらん)

1882年(壬午の年)7月に朝鮮の首都,漢城(ソウル)で起きた軍人暴動。1873年に大院君(興宣大院君)から閔(びん)氏に政権が移ると,軍隊の待遇は悪化し,新たに新式軍隊の別技軍が設けられて優遇された。その結果,旧式の軍人たちの不満が給米の不正支給によって爆発し暴動となった。大院君はこの暴動を利用して,閔氏政権の転覆と日本公使館の襲撃を図った。彼は,1880年代に入って開始された閔氏政権の開国政策を覆し,鎖国攘夷政策に戻そうとしたのである。李最応,閔謙鎬などの政府要人と別技軍教官の堀本礼造少尉が殺害され,日本公使館は襲撃された。国王高宗の妃である閔妃は地方にのがれ,日本公使館の花房義質(よしもと)公使以下は仁川から日本に脱出した。暴動後,大院君が再び実権を握り,閔氏政権によって設けられた武衛営,壮禦営,別技軍を廃止し,旧来の五営を復活,さらに統理機務衙門を廃止した。これに対し日清両国が武力干渉したが,これには日清両国の利害と開国派の朝鮮人(金允植兪吉濬など)の思惑がからんでいた。82年8月,清は宗属関係を明記した商民水陸貿易章程を朝鮮と結ぶとともに,大院君を清の保定に幽閉し,軍隊を漢城に駐留させた。同月,日本は済物浦条約と修好条規続約を結び,前者によって公使館に警備兵を配置する権利を得た。この暴動の結果,朝鮮に対する清の宗主権が強まり,甲申政変遠因となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「壬午軍乱」の意味・わかりやすい解説

壬午軍乱
じんごぐんらん

1882年朝鮮のソウルで、日本の侵略と閔(びん)氏一族の腐敗、売国政策に対して立ち上がった軍人たちの反乱。日本では甲申政変とあわせて京城事変といったこともある。1876年の江華条約日朝修好条規)以来、日本をはじめとする外国資本主義国が朝鮮を侵略、李朝(りちょう)封建体制の危機は深まり、民衆の生活苦は倍加していった。時の権力者である閔氏一族は1881年に日本の要請で軍制を改め、日本陸軍少尉堀本礼造を軍事教官に招き、両班(ヤンバン)の子弟を中心に別技軍という新式軍隊を組織した。これに対し旧来の軍隊の兵士たちは、俸禄(ほうろく)米も13か月も支給されないままであった。82年7月にやっと1か月分の俸禄米が支給されたが、腐っていたり、砂が混ざっていたりした。ここで兵士たちの不満は爆発、武器をとって立ち上がり、一隊は閔氏一族の大官たちの邸宅を襲い、さらに内殿に侵入して閔妃(びんひ/ミンピ)を殺害しようとした。閔妃は宮女に変装し王宮を脱出、忠州に逃れた。他の一隊は日本公使館を襲撃、これを焼き払い、堀本礼造らを殺害した。公使花房義質(はなぶさよしもと)は命からがら長崎に逃げ帰った。ソウルでは大院君が政権につき反乱を収束一連の改革を行おうとしたが、清(しん)国の介入で失敗、清国に拉致(らち)され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化した。

[宮田節子]

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百科事典マイペディア 「壬午軍乱」の意味・わかりやすい解説

壬午軍乱【じんごぐんらん】

1882年(明治15年,壬午の年),朝鮮のソウルで起こった政変。第1次京城事変とも。日本の指導による改革に不満をいだいた軍隊が反乱,閔(びん)氏政府の要人や日本人を殺し,日本公使館を焼打ちした。暴動後,大院君が再び政権を握り閔氏政権の改革をもとに戻したが,日清両国が介入,大院君は清の保定に幽閉された。これより清国の指導権が一段と強化され,日本は朝鮮から一歩後退し,甲申政変の遠因となった。
→関連項目袁世凱大阪事件済物浦条約事大党丁汝昌日朝修好条規

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旺文社世界史事典 三訂版 「壬午軍乱」の解説

壬午軍乱
じんごぐんらん

李氏朝鮮末期の1882年7月,漢城(現ソウル)に起きた保守派による反日クーデタ
閔妃 (びんひ) を中心とする政府が日本人将校を招いて新式軍隊を創設すると,引退中の大院君を中心とする保守派は政府に不満な軍隊をそそのかして蜂起させ,政権を握った。このとき日本公使館が焼かれ,日本人が殺傷されたため,日本は漢城に出兵した。清軍も大院君を捕らえて清国内に抑留し,閔氏政権(事大党)を復活させて清に従属させ,清の朝鮮に対する指導力が強まるいっぽう,日本は一時朝鮮から後退した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「壬午軍乱」の解説

壬午軍乱
じんごぐんらん

1882年7月,朝鮮でおこった反日的クーデタ
閔妃 (びんひ) 政権が日本にならって兵制改革を始めたとき,大院君一派の守旧派がこれに反対し日本公使館を襲撃。日本軍は出兵したが,清国の李鴻章の工作で朝鮮との間に済物浦 (さいもつぽ) 条約を締結した。以後閔妃一派は清国に接近し日本の勢力は後退して2年後の甲申事変をひきおこす。

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世界大百科事典(旧版)内の壬午軍乱の言及

【徴発】より

…日本では第2次大戦終了までは1882年制定の徴発令によって行われ,現在では自衛隊法103条に同じ性格の規定(防衛出動時における物資の収用等)がある。徴発令は朝鮮の壬午軍乱に当たり日本陸軍最初の動員を行うに際し急ぎ制定され,敗戦まで無修正で存続した。徴発は軍官憲の徴発書によって行われ,徴発の対象は糧秣薪炭,馬匹および運搬用の家畜車両器材,人夫,宿舎厩圉(きゆうぎよ)倉庫,飲水石炭,船舶鉄道,演習に適する地所,演習に要する器材であった。…

【閔妃】より

…翌年,王子坧(のちの純宗)を産んで基盤をさらに固め,閔妃とその一族は政権の中枢を独占する。閔氏政権がすすめた開国政策は国内にさまざまな対立を生み出し,82年には壬午軍乱がおこった。このとき閔妃は変装して王宮を脱出したが,清国軍が介入して大院君を天津に連れ去ると,再び勢力を回復した。…

【李朝】より

… 1873年,守旧派の反撃をうけて大院君は失脚し,王妃(閔妃(びんひ))一族を中心とする閔氏政権が登場するが,守旧派に基盤をおく閔氏政権は76年に日本の軍事的圧力に屈して不平等条約である日朝修好条規を締結して開国し,以後,朝鮮は日本や欧米の半植民地に転落していくことになる。閔氏政権は82年の壬午軍乱,84年の甲申政変で倒されるが,いずれも清国の支援ですぐに復活し,94年,日本軍によって倒されるまで約20年間続いた。その間,閔氏政権も上からの近代化を推進するが,しかしそれは守旧派の抵抗で不徹底なものに終わり,むしろ閔氏政権の下で朝鮮の半植民地化が進行した。…

※「壬午軍乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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