塩尻(読み)しおじり

精選版 日本国語大辞典 「塩尻」の意味・読み・例文・類語

しお‐じり しほ‥【塩尻】

[1] 〘名〙
① 塩田で、砂を円錐形に高く積み上げて、塚のようにしたもの。これに海水をかけて日にかわかして、塩分を固着させる。
※伊勢物語(10C前)九「富士の山を見れば、〈略〉比叡の山を二十ばかり重ねあげたらんほどして、なりはしほしりのやうになんありける」
② 家計。財政。
※浮世草子・諸道聴耳世間猿(1766)四「よい顔で隙とれば、いつしか塩尻(シホシリ)がつまらぬやうになりて、家屋敷も売はらひ」
[2]
[一] 長野県中部の地名。江戸時代は中山道の下諏訪と洗馬(せば)の間にあった宿駅として発達。ブドウ栽培が行なわれ、ぶどう酒醸造工場がある。昭和三四年(一九五九)市制。
[二] 江戸中期の国学者天野信景(さだかげ)の著わした随筆。元祿・宝永・正徳・享保の約四〇年間にわたって、歴史、地理、言語、文学、制度、宗教、芸術などについての見聞や感想を記したもの。

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デジタル大辞泉 「塩尻」の意味・読み・例文・類語

しお‐じり〔しほ‐〕【塩尻】

塩田で砂を円錐形に盛り上げたもの。これに海水を注ぎ、天日に乾かして塩分を付着させる。
「なりは―のやうになむありける」〈伊勢・九〉
家計。財政。
「いつしか―がつまらぬやうになりて、家屋敷も売り払ひ」〈浮・世間猿〉
[補説]書名・地名別項。→塩尻(書名)塩尻(地名)

しおじり【塩尻】[地名]

長野県中央部の市。もと中山道宿場町中央本線篠ノ井線の交点。ワインの製造・精密工業が行われる。人口6.8万(2010)。

しおじり【塩尻】[書名]

江戸中期の随筆。天野信景あまのさだかげ著。元禄10年(1697)ごろから享保18年(1733)までに執筆。現存は170巻余。歴史・地理・文学・宗教などへの見聞や感想を記したもの。

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改訂新版 世界大百科事典 「塩尻」の意味・わかりやすい解説

塩尻[市] (しおじり)

長野県中央部にある市。2005年4月旧塩尻市が楢川(ならかわ)村を編入して成立した。人口6万7670(2010)。

塩尻市北部の旧市。1959年塩尻町,片丘村,広丘村,宗賀村,筑摩地村が合体,市制。人口6万4128(2000)。松本盆地の南端,松本市の南隣りにあって,松本市の衛星都市として最大の規模をもつ。両市の市街地は国道19号線に沿ってほぼ連続している。また中山道の塩尻峠を通じて諏訪地方との交流も深く,現在では同地からの工場進出が著しい。江戸時代の塩尻宿は明治に入って衰えたが,1902年篠ノ井線,06年中央東線,11年中央西線の開通とともに駅前集落が発達し,現在の中心市街を形成した。長野自動車道が通じ,国道19号線と20号線との分岐点にも当たり,交通の要衝になっている。工業では精密機械,電気部品の製造が発達し,農業ではブドウ,リンゴ,ナシ,レタスなどの栽培が盛んで,ブドウ酒,ブドウジュースなどの特産品もある。市内には縄文時代,古墳~歴史時代の複合遺跡平出遺跡があり,平出博物館が設けられている。草競馬(8月)やレンゲツツジ(6月)の名所として知られる高ボッチ高原や桔梗ヶ原のブドウ狩りは有名である。
執筆者:

塩尻郷は平安末期からの国衙領であるが,郷内は塩尻峠に端を発する田川によって東条,西条に分かれていた。史料上の初出は西条が早く,1191年(建久2)捧紀五近永が諏訪下社領の年貢などを怠り社家から訴えられている。東条も1323年(元亨3)地頭塩尻次郎重光が諏訪下社の神役用途を抑留して社家から訴えられている。諏訪大社は信濃国の一宮として国衙の支配が強く,それが塩尻郷が下社領となった要因であろう。塩尻重光は塩尻郷の開発領主の系統とみられ,居館は堀ノ内にあり,近くに五日市場がある。南北朝時代から守護小笠原氏が塩尻を領有するが,1400年(応永7)長秀はこれを下社に寄進した。塩尻郷は府中に近いうえ,府中と諏訪地方を結ぶ塩尻峠や桔梗ヶ原を眼前にひかえていたので,南北朝~戦国時代にはこの付近でしばしば大きな合戦が行われた。
執筆者: 近世には中山道の宿駅として繁栄した。塩尻宿は上町,中町,下町の3町からなり,中町に本陣,脇本陣,問屋が置かれた。1651年(慶安4)の検地帳には宿並5町40間,家数119軒とあるが,その後発展し,1843年(天保14)調べの《宿村大概帳》には宿並7町28間,家数166軒,人口794人。本陣2,脇本陣1,旅籠屋75軒とある。宿定人馬は50人・50匹。本陣の川上家(建坪367坪)は中山道最大の規模を誇った。
執筆者:

塩尻市南部の旧村。旧木曾郡所属。人口3619(2000)。信濃川の源流奈良井川上流域を占め,木曾谷の北の入口にあたる。1889年奈良井贄川(にえかわ)の2村が合体,両者の名をとって楢川とした。中世は木曾氏の領地,近世は尾張藩に属し,奈良井,贄川は中山道(現,国道19号線)の宿駅であった。村の西端には街道の難所鳥居峠がある。全域が山林原野で,中心集落の平沢では伝統的な漆器製造が行われ,漆器と関連木工業に従事する者が全就業者の半数に達する。シイタケ栽培も行われる。重要伝統的建造物群保存地区に指定された。奈良井では往時の町並みが保存され,贄川には関所が復元されている。また北端の桜沢には〈是より南木曾路〉の石碑が残る。JR中央本線が通じ,北隣の旧塩尻市との経済的結びつきが強い。
執筆者:

塩尻 (しおじり)

江戸中期の随筆。天野信景(あまのさだかげ)著。現在通行本は門人,紀方旧(堀田六林)が考訂した百巻本。もとは一千巻近くあったというが多くは散逸した。大部であり,かつ近世随筆の中では時代が早いので世に広く知られる。信景は名古屋藩士。元禄(1688-1704)から享保(1716-36)にかけて,著者が諸書から記事を抜粋し,自身の意見を記す。歴史,伝記,地誌,言語,文学,制度,宗教,芸能,自然,教育,風俗など広範囲にわたっており,挿絵もある。考訂本は《日本随筆大成》に収録。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「塩尻」の意味・わかりやすい解説

塩尻
しおじり

江戸中期の随筆。170巻以上が現存すると思われる。天野信景(さだかげ)(1663―1733)著。1697年(元禄10)ごろから1733年(享保18)に執筆され、原本は1000巻に及ぶともいう。著者は尾張(おわり)藩士で、博学の国学者として知られ、その合理主義的な学風は、吉見幸和(よしみよしかず)ら当代の尾張(愛知県)の学者や文人はもちろん、平田篤胤(あつたね)らにも大きく影響した。本書は、有職故実(ゆうそくこじつ)を中心に広範囲な分野にわたる和漢の典籍や自己の見聞を抄録し、自らそれらを考証、論評したもので、豊富な内容とともにその実証的な方法論が注目される。著者自身が「人の見るべきにあらず、只(ただ)閑暇遺忘に備ふ」というように、その草稿は反故(ほご)紙などに書き散らしたもので、散逸が甚だしくて完本はないが、1782年(天明2)名古屋の書林西村常栄が出版の目的で編集した百巻本のほか、数種の写本が伝わる。

[宇田敏彦]

『『日本随筆大成 第3期 13~18』(1977~78・吉川弘文館)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩尻」の意味・わかりやすい解説

塩尻
しおじり

江戸時代中期の随筆。天野信景の著を天明2 (1782) 年堀田方旧が編んだもの。 100巻。元禄から宝永頃に著者が和漢古今の書を引用して史伝,神仏の由来,地理,言語,風俗などについて考証したもので,自作の詩文も収める。

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事典・日本の観光資源 「塩尻」の解説

塩尻

(長野県塩尻市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

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