塩(しお)(読み)しお(英語表記)salt

翻訳|salt

日本大百科全書(ニッポニカ) 「塩(しお)」の意味・わかりやすい解説

塩(しお)
しお
salt

塩化ナトリウムNaClを主成分とする物質で、動物体にとっては生理的に不可欠のものである。食料用以外に工業用として多量に用いられており、食料用の約5倍の使用量である。そのほか、医薬用としても少量使用されている。食料用としては、調味以外に、塩のもつ腐敗防止、発酵調節、脱水作用などの性質を利用した用途も多く、塩蔵(えんぞう)といって肉や魚など腐敗しやすい食品を塩漬けにすることによって保存するために用いられている。とくに食用として使用できるものを食塩という。工業用としては、ソーダ、塩素の原料としてソーダ工業に多量用いられるほか、多くの化学工業にとって重要な原料となっている。そのほか窯業におけるうわぐすり(食塩釉(ゆう))、せっけん、染料製造における塩析剤など、種々の工業において用途がある。血液と浸透圧が等しくなるように食塩を溶解した水溶液が、生理的食塩水として医療用に用いられる。

[平嶋克享]

種類

塩には原塩、粉砕塩、並塩(なみえん)、食塩、精製塩、特級精製塩、食卓塩、漬物塩(えん)などのほか、特殊用塩として各種加工塩(えん)がある。原塩、粉砕塩、並塩は、塩化ナトリウムの純度が95%以上で、おもに業務用に用いる。原塩には、岩塩、天日塩(てんぴえん)、海水よりつくる粗製塩などが含まれる。食塩は塩化ナトリウム純度99%以上で、料理の下処理、調味、漬物など広く一般に使用される。精製塩は塩化ナトリウム純度99.5%で、1キログラム袋のものでは防湿剤として塩基性炭酸カルシウムが0.15%以上含まれている。食塩に比べさらさらしており、料理の味つけに用いられる。精製塩にはこのほか塩化ナトリウム純度99.8%以上の特級精製塩がある。食卓塩は塩化ナトリウム純度99.0%以上で、防湿剤として塩基性炭酸マグネシウムが0.4%以上含まれている。名称のとおり食卓に置いて、できあがった料理の上からふりかけて、味をととのえるのに用いられる。防湿に加えられている炭酸マグネシウムは、非水溶性のため、澄まし汁などに用いると汁が白濁し、きれいな吸い物にはならない。漬物塩は、漬物専用につくられた塩で、輸入原塩を基に、リンゴ酸、クエン酸などを添加したもので、塩化ナトリウム純度は95%以上である。このほか各種の加工をした特殊用塩がある。これらには、ごま塩、焼き塩、グルタミン酸ナトリウムをコーティングしたもの、うま味調味料をコーティングしたものなど食卓塩の一種として用いるもの、パパイン酵素と混ぜて肉を柔らかくするために用いるもの、ガーリックソルト、オニオンソルト、セロリーソルトなどのように料理の調味に使われるものがある。にがり分などを加えた塩も特殊用塩の一つである。

[河野友美・林 正寿]

製塩

岩塩のない日本の製塩は、端的にいって、海水から97%の水分を除いて3%の塩をとることである。『万葉集』などに「藻塩(もしお)焼く」と表現している古代の製塩法は、海水の付着した藻を乾かし、それに海水を注いで濃厚な塩水をとり、それを製塩土器に入れて煮沸して塩をとったものと推測されている。塩浜(しおはま)(塩田)の語句が初めて文献にみえるのは875年(貞観17)『三代実録』の記事であるが、海水を濃縮する方法が、藻から砂(塩浜)利用に変わるのは奈良時代と推測されている。日本の古代・中世の塩浜には二つの様式があった。一つは揚浜(あげはま)であって、塩浜は満潮面より高い所につくられ、海水は人力でくみ上げて、砂面に撒水(さんすい)する方式である。いま一つは、潮が満ちると海になり、引くと干潟になる場所で、塩分のついた砂をかき集めて、海水を注ぎ濃い塩水をとる方法で、自然浜とよばれるものである。江戸時代になると入浜塩田(いりはまえんでん)が発達してくる。入浜塩田は堤防によって囲まれており、塩田面の一部を掘って溝をつくり、樋門(ひもん)から入ってきた海水は、溝から毛細管現象によって塩田面に浸透して砂に付着し、これが太陽熱と風力によって蒸発し、濃い海水のついた砂ができる。これを集めて海水をかけて濃い塩水をとる。この入浜式塩田も1953年(昭和28)以降、枝条架(しじょうか)を併設した流下式塩田(りゅうかしきえんでん)に転換した。その後、イオン交換膜を用いた製塩法が出現し、1972年にはこのイオン交換膜法に全面的に転換され、塩田製塩は消滅した。以後、日本では、イオン交換膜法によって、新日本ソルト(福島県)、赤穂(あこう)海水(兵庫県)、錦海(きんかい)塩業(岡山県)、ナイカイ塩業(岡山県)、鳴門(なると)塩業(徳島県)、讃岐(さぬき)塩業(香川県)、ダイアソルト(長崎県)の七つの製塩工場で塩がつくられるようになった。1995年(平成7)度の国内生産高は約135万トン、同年の輸入塩はメキシコ、オーストラリアを中心として約800万トンである。国内産塩は主として食料塩、輸入塩は化学工業用に使用されてきた。その後、1997年の塩事業法の施行により塩専売制は廃止されることになったが、塩専売制は廃止によって、一気に自由な市場構造へと全面転換するのは混乱が予想されたので、5年間の猶予期間が設けられた。

 なお、世界の塩事情をみると、全世界の塩の生産高は約1億9600万トン(1995)で、1位アメリカ(4200万トン)、2位中国(3000万トン)、3位カナダ(1100万トン)、日本は19位で140万トンである。製塩法(塩資源)は岩塩がもっとも多く、ついで天日製塩、そのほか、地下鹹水(かんすい)(塩水)、鹹湖(塩湖)などがある。岩塩は、鹹湖が乾固してできたもので、大陸には各地に存在する。天日製塩は、日射が強く蒸発が盛んで降雨量が少なく、また塩田築造に適した地形と土質の地域で行われている。まず、いくつかの蒸発池に海水を入れておくと、海水の塩分濃度が高くなる。それをいくつかの結晶池に入れておくと底に塩の結晶が沈殿する。それをかき集めたものが天日塩である。インド、オーストラリア、メキシコ、エリトリアエチオピアなどで天日製塩が行われている。

[渡辺則文]

専売制とその廃止

生理的必需品である食塩は、これの供給源を押さえたものが天下をとることができる。そこで塩の専売制度が生まれた。歴史的にみると、ヨーロッパでは早くも紀元前6世紀に古代ローマで塩の販売権を政府がもつようになり、一般民衆は製塩に従事するのを禁止された。

 日本でも江戸時代の藩専売制の対象品の一つとされてきたが、明治時代には日露戦争の戦費調達を目的として1905年(明治38)に国による専売が始められた。第二次世界大戦後の日本では1949年(昭和24)6月1日から実施された塩専売法により塩の製造、輸入、販売の権能は国に専属するという専売制がとられて、日本専売公社が専売権を実施していた。しかし、臨時行政調査会の答申にこたえて日本専売公社が民営化され、日本たばこ産業株式会社が創設されたのに伴い、1985年(昭和60)からは塩の専売事業は日本たばこ産業株式会社に委託された。その後の規制緩和要求の高まりに対応して、塩の専売制度も1997年(平成9)4月1日施行の塩事業法により廃止された。塩専売制度の廃止後においても、塩は国民生活に不可欠な代替性のない物資であるがゆえに、塩事業の適切な運営による良質な塩の安定的な供給の確保と、日本の塩産業の健全な発展を図るために、塩事業法は必要な措置を規程している。財務大臣は毎年塩の需給見通しを策定、公表し、塩事業センターを指定して、生活用塩の供給や備蓄、塩産業の効率化促進のため助言、指導をさせている。また塩製造業者、販売業者、卸売り業者は、財務大臣の登録を受けなければならない。

[河野友美・林 正寿]

日本の流通史

塩は人間の生命維持に不可欠な物資であり、しかも代替品もなく、またその生産が地域的に限定されたところから、もっとも早く地域間流通のみられた物資の一つと考えられる。日本の製塩の歴史は、縄文時代後期末、関東地方の霞ヶ浦(かすみがうら)周辺においてその痕跡(こんせき)が認められるが、そのころ、すでに関東奥地との塩の流通が推測される。律令(りつりょう)制下、古代帝都における塩の供給は、おおむね調塩(租税制度。租・庸・調・雑徭(ぞうよう)のうち、調として中央政府に貢進された塩)・庸塩(庸として年ごとに宮都(みやこ)に徴発される力役(りきえき)である歳役(さいえき)の代納物として納められた塩)によった。そして、中央官人層には季録(きろく)、月料(げつりょう)などとして支給され、不足分は京の東西市や難波市(なにわいち)で購入されたようである。奈良・平安時代、瀬戸内海地域を中心として塩荘園(しょうえん)が成立してくると、瀬戸内で生産された塩は、魚とともに盛んに中央へ運ばれたようで、その陸揚げ地である淀(よど)川の要津(ようしん)山崎の津は「魚塩の利」で栄えた。中世でも塩は利潤の多い商品で、1292年(正応5)東寺領伊予(いよ)国弓削島(ゆげしま)荘の年貢塩が淀魚市で京都七条坊門の塩屋(しおや)商人に1俵200文で売却されたが、2、3日のうちに塩屋商人は1俵400文で売っている。1445年(文安2)『兵庫北関入船納帳(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)』によると、この年、兵庫北関を通過した船1960艘(そう)のうち約47%が塩船であり、積載塩の総量は10万7841石である。これらの塩は、京都や奈良に搬入されたが、その地ではおもに塩座を通して一般に販売された。「舞の本」の人買い伝説「信田(しのだ)」には塩と子供を交換した話があり、『文正草子(ぶんしょうぞうし)』にも塩を焼いて産をなした話がある。これらによって中世商業における塩の地位をうかがうことができる。

 江戸時代、1人1日の塩の使用量は約3勺といわれ、牛馬の飼育の盛んな地方では4勺とも計算されている。18世紀前半ごろ、日本の人口は約3000万人といわれているが、塩の需要は少なくとも320万石から330万石に達している。その多くは瀬戸内で生産され、塩廻船(しおかいせん)によって東海・江戸方面、あるいは北国筋(ほっこくすじ)へ輸送された。広島藩を例にあげると、1825年(文政8)当時、領内塩浜軒数は238軒、生産高は80万俵(5斗入)、その供給先と販売量は、領内13万俵(16.25%)、北国40万俵(50%)、山陰1万俵(1.25%)、九州2万俵(2.5%)、江戸・清水・名古屋24万俵(30%)となっている。江戸への入津(にゅうしん)塩は18世紀の1720年代には167万俵に達している。これらの塩は江戸市中のみならず、関東各地に輸送され、ことに下総(しもうさ)(千葉県)銚子(ちょうし)などのしょうゆ醸造地帯には大量の塩が搬入された。江戸に入津する瀬戸内産塩を扱うのは、廻船下り塩問屋(下り廻船塩問屋ともいう)と塩仲買である。下り塩問屋は、江戸北新堀町(きたしんほりまち)の秋田屋、長島屋、渡辺屋、松本屋の4軒に限定され、塩廻船を一手に引き受けた。口銭(こうせん)利益は莫大(ばくだい)で、塩問屋株は、文化年間(1804~1818)に千両株と称せられ、十組(とくみ)問屋の最高株値段をよんだ。明治維新後、流通組織は一時混乱したが、1878年(明治11)には東京食塩問屋組合と東京食塩仲間組合に組織された。当時、1か年の平均入津塩は船数330艘、俵数210万俵であった。1889年には両者は合併して東京廻船食塩問屋仲間組合東京塩問屋組合と改称された。

 1905年(明治38)塩専売法が施行されることによって、塩の収納は政府の手で行われることになったが、運搬販売は、旧来の塩商人による販売機関がそのまま利用された。しかし、1907年には官費廻送販売制が実施され、さらに翌年には塩売捌(うりさばき)制が制定され、塩売捌人が指定された。これによって塩は、元売捌人―小売人の販売機関を通して消費者に売り渡されることになった。ところが、90年余年の長い歴史を持つ塩専売法が、1997年に制定された塩事業法によって廃止され、これまでの製造、輸入、流通を包括的に管理する塩専売法下での市場構造から、大きく転換することになった。

[渡辺則文]

塩と生理

動物にとって食塩は生理的に必要不可欠のものである。食塩は、体内とくに血液に存在し、そのナトリウムは、細胞中のカリウムとバランスをとり、浸透圧の維持という重要な役割を果たしている。人間は、健康時の血液中には0.9%程度の塩が含まれている。食塩のとり方が不足すると、消化液の分泌が減り、食欲が落ちる。長期にわたって食塩が不足すると、全身の脱力、倦怠(けんたい)、疲労、精神的不安などがおこる。さらに、ナトリウムは植物性食品のなかに多いカリウムとつねに体内でバランスをとっている。200年ほど前、奥羽地方で大飢饉(ききん)(天明(てんめい)の飢饉)のあったとき、多くの人々が山野に野菜や木の芽などを求め、それをむさぼり食べた。そのためカリウム摂取量が多く、そのうえ食塩を食べなかったので、食塩の欠乏による死亡者が続出したという。一方、食塩の過剰摂取は高血圧症の一因となる。また、急性の食塩過剰摂取は、腸における水分の吸収を妨げて下痢をおこす。食塩をとりすぎると、のどが渇く。血液中の塩分濃度が高まり、体液の浸透圧を亢進(こうしん)するので、水分を増し、食塩濃度を下げて浸透圧の力を和らげようとするためである。汗をかいて体内の水分が減少したときも同じである。成人1人1日当りの塩の摂取は、日本では10グラム以下が、WHO(世界保健機関)では5グラム以下が望ましいとされている。

[河野友美]

調理

食塩はすべての食品に対し、そのもっている味を引き立てる役目をする。一般に料理を調味することを「塩加減」というのにもこの意味が含まれている。塩味は、溶液の温度が高くなるにしたがって味が弱く感じるようになる。冷めた料理が塩辛く感じるのは、味の感じ方の弱い高い温度で味つけしたため、冷えるにしたがい塩味が強く感じられるようになるからである。塩味は酸味を加えることで味をやわらかくすることができる。昔から「あんばい(塩梅)」ということばが使われているが、これは食塩を梅酢でまるくするという意味である。また逆に、酸味の強いものを、食塩を加えることで和らげることもできる。したがって、酢の物、すしなどの合わせ酢に食塩は欠かせない。一方、食塩は味を強める働きもする。だし汁に食塩を加えると、だしの味が際だってくる。また、甘味に対しては甘味を強めるように働く。砂糖量に対し食塩が0.2%のとき甘味の強さは最高となる。汁粉の甘味はこれを利用したものである。

 塩は浸透圧の作用が強く、材料にしみ込みやすい。浸透圧の作用により、生物体の水分を強く外に吸い出す働きもある。「青菜に塩」というのはこの状態を表現したものである。なますをつくるとき、刻んだダイコンニンジンに塩をふり水けを絞るのも、塩の浸透圧の作用を利用したもので、水けを絞ることで調味液がよくしみ込む。このように食塩は料理の際、味以外に各種の物理的な作用を食品に及ぼす。コムギや魚肉のタンパク質に対しては、塩分の濃度が低いときには溶解させるように働く。魚のすり身では、食塩を少量加えることで滑らかなすり身ができる。小麦粉では、粘りの強い生地(きじ)になる。食塩はタンパク質を固める作用もある。とくに塩分があって熱が加わると、熱によるタンパク質の凝固温度が低くなり、それだけ早く固まる。魚や肉を焼くとき、表面に食塩をしてから焼くと、表面だけが早く固まり、中の液汁は出てこない。落とし卵をつくるとき、魚をゆでるときも湯の中に食塩を入れておくと、卵や魚肉の表面が早く固まるため、形がくずれたり、うま味成分の抜けるのが防げる。

 食塩には防腐作用があるが、塩分の濃度が12%以上ないと効果がないから注意を要する。濃度が低いとよく繁殖する菌もあり、とくに食中毒菌の一つ腸炎ビブリオ菌は3%の食塩水をもっとも好む。青菜をゆでるとき、ゆで湯に1.5~2%の食塩を加えると、青菜の葉緑素が安定してきれいな緑色にゆで上がる。また、リンゴなどを褐色にするポリフェノールオキシダーゼなどの酵素の働きを止め、褐変を防止する働きや、ビタミンCの空気酸化を防ぐ働きがある。サトイモ、ヤツガシラ、タコ、アワビなどのぬめり取りにも食塩は有効である。食塩には寒剤としての働きもあり、食塩に氷を加えると低温が得られる。もっともよく冷えるのは氷3に対し塩1の割合のときで、ほぼ零下20℃まで下がる。これを利用し、アイスクリームをつくるなど食べ物を凍らせることができる。

[河野友美]

民俗

塩は精神生活にも大きな意義をもっており、日本では清めのため神事の祭場や祭具、神棚に使用され、また、炉、かまど、井戸などの清めや、相撲(すもう)の土俵で力士に用いられている。葬式の場合、塩で身を清めることは全国一様の習俗である。瀬戸内海周辺から九州にかけて、オシオイといって毎朝竹の手桶(ておけ)に海水をくんできて家の内外を清める風習がある。この手桶を門口にかけておく所もあるという。客商売をする飲食店などでは、店を掃除すると店先に盛り塩と称して一握りの塩を置いておくのは全国的にみられる。全国各地の祭礼に潮水を神前に捧(ささ)げる例がある。東京・府中市の大国魂(おおくにたま)神社の祭礼に、品川の海水を持参することが行われている。神輿(みこし)を海中に担ぎ入れる祭りもあり、遠方の神社から海浜にまで行列をつくって神幸(しんこう)する祭礼もある。正月の初宮詣(もう)でに浜から海草をとって神前に捧げる例もある。

 塩についての伝説に塩井伝説がある。弘法大師(こうぼうだいし)が旅先で塩気のない小豆粥(あずきがゆ)を出されたので、塩のないことを気の毒に思い錫杖(しゃくじょう)で地を突いて塩井を湧出(ゆうしゅつ)したという。塩がもっとも貴重な商品であったことは、諸国の市場にこれを求めて人々が集まり、一方、塩売りが遠い山間の地にまで入り込んで行ったことでもわかる。これは「塩の道」と称して交通経済上よく知られており、塩売りは文化の移入者の役をも務めていた。九州の鹿児島湾の東、高隈(たかくま)山中腹の山村では生児の養い親に塩売りを頼む風習があり、子供に名をつけてもらい、籠(かご)に入れた塩が塩売りから子供に贈られたという。また塩が貴重なものであったので、塩断ちといってこれをとらないことを約束して神仏に祈願することが行われている。

[大藤時彦]

文化史

塩は、ほとんどすべての民族がそれぞれなんらかの方法で入手し、使用している。ただし、塩をまったく知らない、あるいは使わない民族もあった。台湾のタイヤル族が塩を知ったのはタバコよりずっとあとであったという。植物、動物の肉や内臓、また乳製品などに含まれる微量の塩分で、必要量を十分に得ていた民族もあったと考えられる。

[板橋作美]

製造法

人工的に塩を製造するのではなく、天然の塩、つまり岩塩や干上がった塩湖などの塩をそのまま採集、採掘することが、古くから、また現在でも行われている。オーストリアのハルシュタットでは、すでに鉄器時代に岩塩が採掘されていた。これは斜坑と300メートル以上の水平坑をもつ本格的なもので、内部には採掘に使った道具が捨てられていた。カルパティア山脈の岩塩も有史以前から採掘されていた。砂漠地域、たとえば中国西部などでは、塩分を含んだ湖が干上がった跡に残った塩を利用することが多い。イランのナマキ砂漠もそうであり、ナマキは塩の意で、またこの砂漠という語もペルシア語のキャビール(塩砂漠)の訳である。次に、海、塩湖、塩井の水を火や天日で蒸発させて塩をとる方法も広く行われている。コロンビアのエル・ポルテテ近くでは、カリブ海に面した塩田で、グアヒロ人が1年のうち2か月間塩をとっている。メキシコ南部のマヤ人地域には、塩井から塩をとる所がいくつもある。ほかに、特殊な製塩法として、植物を利用する方法がある。ニューギニアのダニ人は、バナナの幹の外皮を乾燥させ、これを山中のイルエカイマ塩湖に浸す。この塩水をしみ込ませた樹皮を村に持ち帰り、2日間屋根の上で乾かす。それを焼き、塩分を含んだ灰をつくり、水をあわせてこねて固め、乾燥させる。使用するときは削って料理にかける。同じニューギニアのモニ人は普通の草の束でこれを行う。類似の方法は古代ゲルマン人が行っていた。

[板橋作美]

交易

塩がとれる場所は比較的限られているため、古くから世界各地で塩の交易が行われた。ヒマラヤ地方ではボーチア人が交易商人として活躍し、チベット高原の塩と羊毛を、ヒマラヤ山脈中腹や山麓(さんろく)の住民に売り、そこの穀物をチベット高原に運んだ。北西アフリカではサハラ砂漠の遊牧民トゥアレグ人が隊商交易を行い、アルジェリア南部産の塩やアジア、ヨーロッパの物資をサハラ砂漠を通ってニジェール、マリなどに運び、黄金、象牙(ぞうげ)、奴隷などを地中海地域に運んだ。交易品としての塩の重要性は、しばしば塩に一種の貨幣の役割をさせることになった。ローマ時代に役人、軍人への給料の支払いが塩によって行われた時期があったこと、そして英語のサラリーsalary(俸給)が、ラテン語のサラリウムsalarium(塩の支給)に由来することはよく知られている。アフリカのソマリア半島やチベットでも同様のことがあった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』には、チベットのガインドゥ(建昌路)地方で塩が小額貨幣として用いられていたことが記されている。塩水を煮つめた糊(のり)状の液体を型に入れて固め、表面に皇帝の印を刻したこの塩貨は、80個が金1サジオに相当したと書かれている。

[板橋作美]

象徴的意味

塩は清める力、聖なる力をもつとする信仰がよくみられる。『旧約聖書』には塩に関する記述が多く、「列王紀」には、塩が悪い水を清め、死と流産の穢(けがれ)を祓(はら)うと述べられている。「エゼキエル書」のなかに、ヤーウェに犠牲の動物を捧(ささ)げる際、犠牲の牡牛(おうし)と牡羊に祭司が塩を振りまくよう指示している。また「出エジプト記」の聖なる薫香(くんこう)の作り方のなかで、材料を混ぜ合わせたあと塩を入れ、清く聖なるものにせよ、と指示している。カトリック系社会では、洗礼のとき、子供の口に塩を入れることが多い。メキシコの高地マヤ人はこのときの塩によって子供の魂は初めて固定するといわれる。カトリックの洗礼との関係は不明だが、フィリピンのネグリトは、新生児の口に塩を入れる。

 このような、穢を祓う塩は、また魔除(まよ)けや病気治しにも使われる。東南アジアのラオ人やタイ人では、出産後の女性は妖術(ようじゅつ)を防ぐために塩水で体を洗った。かつてユダヤ人は邪視(じゃし)除けに子供の舌の上に塩を置いた。魔物が入らないように戸口に塩をまく慣習がシリアにみられた。メキシコの高地マヤ人のシナカンタン村では、塩はさまざまな妖怪、魔物を撃退する力をもっていると考えられている。ヨーロッパで魔女のサバト(宴会)の料理は塩抜きであると考えられていたのも、塩のもつこのような力の信仰の反映である。古代ギリシアでは塩は神聖なもので、神にかかわるものであるために、病気を治したり、力をつけることができると考えられていた。呪術(じゅじゅつ)師やシャーマンが体を燃えている状態にするため塩を多量に摂取することがある。たとえばメラネシアの妖術師にあっては、ヨーロッパの魔女とは逆に、塩水を飲み香料が多量に入った食物をとって体を熱くすると信じられている。また病気治しではないが、塩を美容のために使うこともよくある。エジプトのクレオパトラ、中国の楊貴妃(ようきひ)は入浴のとき塩を使ったといわれ、古代ローマでも美顔術に塩を用いたといわれる。塩はさらに、人と神、人と人の固い結び付きを象徴するものとされる。『旧約聖書』の「民数記」では、神と人の永遠に変わらぬ聖なるきずなを「塩の契約」と言い表している。古代チュートン(テウトニ)人は、誓いをたてるとき、塩に指を浸して誓った。古代ギリシア、ローマ、またはヨーロッパ、アラブで、塩とパンの共食は友情と歓待のしるしであり、しばしば「塩の交わり」を意味することばがある。ギリシアの哲学者アリストテレス、ローマの政治家・文人キケロなどが、塩のそのような力について述べている。

 他方、これらとは逆に、塩を忌避する場合がある。古代エジプトの神官は塩をタブー視していた。アフリカのテソ人の社会では儀礼のときの料理には塩を使わない。同じアフリカのンデンブ人は割礼儀礼のときは塩も塩辛いものも食べてはいけない。メキシコの先住民ウィチョルのシャーマンは修行中は塩をとらない。またウィチョルはペヨーテという幻覚作用のあるサボテンを食べる宗教儀礼を行うが、ペヨーテをその自生地までとりに行く巡礼の旅の間、またペヨーテを食べて恍惚(こうこつ)状態で神と交流する儀礼の間も塩を食べず、儀礼の最後に一つかみずつ塩を食べ、儀礼の終了が示される。このような宗教的理由による塩の禁止、塩断ちはかなり多くの社会にみいだせる。社会によっては塩を穢と結び付けることすらある。アフリカのチェワ人やヤオ人は、塩は穢を伝達すると考えている。さらにイスラエルの死海という名が示すように、塩が死や不毛を表すものとしてとらえられることも少なくない。

 このようなシンボルとしての塩の多義性また二面性は、最近の文化人類学の考えを応用すると、ある程度理解できる。ヨーロッパの錬金術で、16世紀のパラケルススとその一派は、水銀と硫黄(いおう)と塩を3原理とした。そのうち塩は水銀と硫黄を結び付けると考え、そのことを水銀は王妃、硫黄は王、塩は僧侶(そうりょ)の姿で描くことがあった。このことと、塩が神と人、人と人を結び付けるとする信仰は、ともに塩が、異なる二つのもの、対立するものを仲介、媒介する力をもつことを示している。塩が僧侶に類比されることはきわめて象徴的であり、僧は神と人の中間にたつ存在である。そもそも塩は自然物である食料を人工的、文化的な食物に変える料理の過程で用いられる。そのような媒介者的存在、中間的位置のものは一般に異常な力をもつとされる。そしてその力は、ある場合には善なる神聖な力と解釈され、またある場合には逆に危険な、邪悪な力と解されるのである。

[板橋作美]

『日本専売公社総務部編『専売事業の概要』(1953・日本専売公社)』『日本専売公社総務部編『専売法規の解説』(1954・日本専売公社)』『渡辺則文著『日本塩業史研究』(1972・三一書房)』『渋沢敬三編『塩俗問答集』(「日本常民生活資料叢書4」1973・三一書房)』『平島裕正著『ものと人間の文化史7 塩』(1973・法政大学出版会)』『日本塩業体系編纂委員会編『日本塩業体系』(1974~1982・日本専売公社)』『亀井千歩子著『塩の民俗学』(1979・東京書籍)』『広山尭道著『塩の日本史』(1990・雄山閣出版)』『加茂詮著『近代日本塩業の展開過程』(1993・北泉社)』『網野善彦著『海の国の中世』(1997・平凡社)』『富岡儀八著『塩の道を探る』(岩波新書)』


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