堺利彦(読み)さかいとしひこ

精選版 日本国語大辞典 「堺利彦」の意味・読み・例文・類語

さかい‐としひこ【堺利彦】

社会主義者。豊前(福岡県)出身。号は枯川。「万朝報」記者となったが日露戦争に反対し退社。幸徳秋水平民社を創設し、「平民新聞」を発刊、反戦・社会運動を行なった。日本社会党日本共産党の創立に参加。また、売文社をおこした。訳「共産党宣言」、著「売文集」「猫のあくび」など。明治三~昭和八年(一八七〇‐一九三三

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デジタル大辞泉 「堺利彦」の意味・読み・例文・類語

さかい‐としひこ〔さかひ‐〕【堺利彦】

[1871~1933]社会主義運動の先駆者。福岡の生まれ。号、枯川。万朝報記者となり、のち、幸徳秋水らと平民社を起こし、終始非戦論を唱えて数度入獄。日本社会党日本共産党の創立にも参加。

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百科事典マイペディア 「堺利彦」の意味・わかりやすい解説

堺利彦【さかいとしひこ】

社会運動家,政治家。福岡県生れ。枯川(こせん)と号。一高中退。《万朝報》記者などを経て,1901年ころから社会主義運動に参加。1903年幸徳秋水と平民社を創設,週刊《平民新聞》を発刊して日露非戦論を展開。幸徳とともに《共産党宣言》を初めて訳す。1906年日本社会党を結成。大逆事件時には入獄中で難をのがれ,出獄後は売文社を経営し社会主義者の孤塁を守った。1920年日本社会主義同盟を組織。1922年日本共産党の創立に参加,委員長となる。第1次共産党事件後解党論を唱え,社会民主主義に転じた。のち無産大衆党日本大衆党全国労農大衆党などに属し,終始反戦活動を展開しつづけた。全集6巻がある。
→関連項目赤旗事件アナ・ボル論争荒畑寒村石川三四郎尾崎士郎管野スガ近代思想黒岩涙香近藤真柄島田清次郎白柳秀湖高畠素之直言反戦運動防長回天史山口孤剣

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改訂新版 世界大百科事典 「堺利彦」の意味・わかりやすい解説

堺利彦 (さかいとしひこ)
生没年:1870-1933(明治3-昭和8)

明治・大正時代の社会主義者。号は枯川。一時,貝塚渋六(貝塚は千葉の監獄名に,渋六は四分六分の獄中飯による)の名を使用。福岡・豊津の生れ。貧乏士族の三男として自由民権思想の影響を受けて育つ。第一高等中学校に入学するが,放蕩の末に中退,大阪や福岡で小学校教員や新聞記者生活を続けるかたわら,兄の感化で小説を書きはじめ,軽妙洒脱な文章術を磨く。その後,毛利家編集所で《防長回天史》の編纂に従い,歴史への関心を養うとともに,山路愛山らと交わる。1899年《万朝報》記者となり,家庭や生活の改良,言文一致体の普及に健筆を振るう。1901年には社主黒岩涙香,同僚の内村鑑三,幸徳秋水らと〈理想団〉を結成,社会正義の実現を説く。日露開戦を前に社会主義の立場から非戦論を展開するが,同紙が主戦論に転ずると幸徳とともに退社。03年11月平民社を興し,〈自由,平等,博愛〉を掲げた週刊《平民新聞》を発刊,発行兼編集人となる。平民社創立の1周年には幸徳との共訳による《共産党宣言》を掲載する。同紙廃刊後も《直言》や《光》によって運動を継続し,06年2月日本社会党を結成し評議員となる。同党が議会政策派と直接行動派の対立を招いた際には中間的な立場から両者の仲介に努めるなど,運動の組織者としての優れた資質をもつ。その後,幸徳と行動をともにするが,その立場はつねに科学的社会主義の確立という日本の社会主義運動の中心的な位置を占め続ける。08年6月の赤旗事件で2年の刑を受けて入獄,結果的に大逆事件の難を免れる。

 1910年9月出獄,暮れには〈売文社〉を設立,残存の同志を糾合して社会主義運動の〈冬の時代〉をしのぎ,生活の確保と運動の持続を図る。14年1月に創刊した《へちまの花》は戯文に満ちつつ抵抗精神を随所に含んだ軽雑誌として,ついで〈小さき旗上〉として再出発した《新社会》は地道な社会主義思想の紹介や研究を行う雑誌として,ともに堺の編集ぶりがきわだち,〈冬の時代〉下に光彩を放つ。一方,普選運動や労働運動に大きな期待を寄せ,17年の衆議院議員選挙に立候補するなど,みずからも積極的にかかわり,運動の逼塞(ひつそく)状況を打破しようとした活動も注目される。さらに《新社会》でレーニンを初めて紹介したり,ボリシェビズムの本質をもっとも早く理解するなど理論面で卓越していたばかりでなく,マルクス主義思想の啓蒙普及の点でもその平易な文章により大きな貢献をなした。22年7月の日本共産党創立では初代委員長となるが,第1次共産党事件後,同党から離れる。27年山川均らと《労農》を創刊,社会民主主義左派の立場をとる。28年無産大衆党の結成に参加,合同後の日本大衆党では中央委員となり,29年東京市会議員選挙では牛込区から最高点で当選。最晩年まで無産勢力の結集に努め,満州事変の勃発に際しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長として反戦平和を訴え続けた。《堺利彦自伝》,《堺利彦全集》(全6巻)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堺利彦」の意味・わかりやすい解説

堺利彦
さかいとしひこ
(1870―1933)

明治~大正時代の社会主義者。明治3年11月25日福岡県に生まれる。号は枯川(こせん)。士族の三男として、自由民権思想の感化を受けて育つ。豊津(とよつ)中学を首席で卒業後、第一高等中学校に入学するが、飲酒遊惰にふけり中退する。大阪で小学校教員や新聞記者を勤めるかたわら、枯川の名で小説を発表。実業新聞、福岡日日新聞などを経て上京し、毛利(もうり)家編集所で『防長回天(ぼうちょうかいてん)史』の編纂(へんさん)に従う。1899年(明治32)萬朝報(よろずちょうほう)に入社、家庭や生活の改良を説く。1901年(明治34)には社主黒岩涙香(るいこう)、内村鑑三(かんぞう)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らと社会正義を求めて「理想団」を結成、また日露開戦の切迫に対し社会主義の立場から非戦論を主張する。同紙が主戦論に転換すると幸徳とともに退社し、03年11月平民社を創立、週刊『平民新聞』を発刊して反戦運動を展開する。創刊1周年記念号に幸徳と共訳の『共産党宣言』を発表。その後『直言(ちょくげん)』『光』と旺盛(おうせい)な論陣を張り、06年2月日本社会党を結成し評議員となる。翌年の同党禁止後は、幸徳と行動をともにして片山潜(せん)らと対立。08年6月赤旗事件で入獄、結果的に危うく大逆(たいぎゃく)事件の難を免れる。

 1910年9月出獄後、社会主義の「冬の時代」をしのぎ、生活と運動の拠点として売文社(ばいぶんしゃ)を設立、また14年(大正3)1月には戯文と随筆を主とした『へちまの花』を創刊して時機を待つ。15年9月『新社会』と改題して再出発を宣言、社会主義思想の紹介や研究を行う一方で、普選運動、労働運動と積極的にかかわって運動の拡大を図る。22年7月の日本共産党創立では初代委員長。このころから精力的にマルクス主義思想の啓蒙(けいもう)普及に努める。23年6月第一次共産党事件で検挙され、保釈出獄後に共産党から離れる。27年(昭和2)山川均(ひとし)らと『労農』を創刊、社会民主主義左派の立場をとり、28年鈴木茂三郎(もさぶろう)らと無産大衆党を結成、合同後の日本大衆党では東京市会議員に最高点で当選する。無産政党の結集に全力を注ぎ、満州事変勃発(ぼっぱつ)に対しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長として反戦の姿勢を貫いた。昭和8年1月23日死去。

[荻野富士夫]

『『堺利彦全集』全6巻(1970・法律文化社)』『荒畑寒村解説『堺利彦伝』(中公文庫)』『川口唯彦「堺利彦と唯物史観研究」(『思想』1955年9月号所収・岩波書店)』『犬丸義一著『堺利彦』(松島栄一編『進歩と革命の思想』所収・1978・新日本出版社)』


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朝日日本歴史人物事典 「堺利彦」の解説

堺利彦

没年:昭和8.1.23(1933)
生年:明治3.11.25(1871.1.15)
明治から昭和期の社会主義者。号枯川。現在の福岡県豊津町に旧小倉藩士の3男として生まれる。豊津中学校を卒業後上京し,第一高等中学校に入学するが,放蕩生活で退学。帰郷後明治22(1889)年に大阪に出て英語教員のかたわら小説を発表。大阪,東京,福岡で記者生活を送ったのち,32年万朝報社に入社。日露開戦の危機に際しては幸徳秋水,内村鑑三と共に非戦論を主張し,36年に退社。幸徳と平民社を設立して週刊『平民新聞』を発刊し,日本社会党の結成(1906)に参加するなど,明治社会主義運動の中心人物のひとりとなる。40年の直接行動派と議会政策派の対立では折衷派として両者の調停に努めた。赤旗事件(1908)で入獄中に大逆事件が起こり,連座を免れる。事件後の「冬の時代」には雌伏して売文社を起こし,生活を支えるとともに新旧の社会主義者を集め,雑誌『新社会』によってロシア革命の紹介を行った。大正8(1919)年に山川均と『社会主義研究』を発刊。9年設立の日本社会主義同盟の発起人となり,11年には第1次日本共産党の結成で委員長となる。翌年検挙され,出獄後再建された日本共産党には参加せず,山川,荒畑寒村らと『労農』を創刊(1927),労農派を形成した。明治の文人的性格を色濃く残したマルクス主義者で,飄逸な現実主義者という側面があるが,満州事変勃発に際しては全国労農大衆党の対支出兵反対闘争委員会の委員長も務めた。<著作>『堺利彦全集』

(有馬学)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堺利彦」の意味・わかりやすい解説

堺利彦
さかいとしひこ

[生]明治3.11.25. (1871.1.15. )福岡,豊津
[没]1933.1.23. 東京
日本の社会主義運動の先駆者。 1899年『万朝報』に入社,のち社会主義者としての道を歩む。 1903年『万朝報』が日露戦争主戦論へ転換したのに抗議し,幸徳秋水,内村鑑三とともに退社し,平民社を創設,『平民新聞』を発刊した。 06年,日本社会党を組織,のち赤旗事件で入獄,そのため大逆事件の難を逃れた。出獄後,10年売文社を経営し,無産政党の合同に尽力した。吉野作造民本主義に対しては山川均とともに,労働者階級を基盤にしたプロレタリア・デモクラシーに転化しなければならないと批判した。著作集に『堺利彦全集』全6巻がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堺利彦」の解説

堺利彦 さかい-としひこ

1871*-1933 明治-昭和時代前期の社会主義者。
明治3年11月25日生まれ。「万(よろず)朝報」で日露非戦論を展開。明治36年幸徳秋水らと平民社を創立し,週刊「平民新聞」を創刊。大正9年日本社会主義同盟を組織し,11年共産党初代委員長となる。のち無産大衆党,全国労農大衆党などに属し,反戦活動にたずさわった。昭和8年1月23日死去。64歳。豊前(ぶぜん)豊津(福岡県)出身。第一高等中学校(のち第一高等学校)中退。号は枯川(こせん)。
【格言など】社会主義の世は公園に弁当をひらきて桜をみる一家族のごとし(明治38年の街頭デモで配った「社会主義の檄」の冒頭)

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旺文社日本史事典 三訂版 「堺利彦」の解説

堺利彦
さかいとしひこ

1870〜1933
明治〜昭和初期の社会主義者
号は枯川 (こせん) 。福岡県の生まれ。一高中退後新聞記者となり,『万朝報 (よろずちようほう) 』ついで『平民新聞』により日露戦争に反対。『平民新聞』に『共産党宣言』を訳載。1908年赤旗事件で入獄,大逆事件('10)ののち出獄し,売文社をつくって暗黒時代をのりきる。'20年日本社会主義同盟を組織。'22年日本共産党創立とともに書記長となる。翌年検挙後は社会民主主義に転じて合法無産政党を支持。'29年普通選挙法による東京市会選挙に最高点で当選した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「堺利彦」の解説

堺利彦
さかいとしひこ

1870.11.25~1933.1.23

明治~昭和前期の社会主義者。福岡県出身。号は枯川(こせん)。日本社会主義運動の草分け的存在。「万朝報(よろずちょうほう)」記者となるが,日露戦争への反戦を貫くため退社。幸徳秋水らと1903年(明治36)に平民社を結成し,「平民新聞」を発刊,社会主義思想の普及に努めた。大逆事件後は売文社(ばいぶんしゃ)を結成,「へちまの花」「新社会」を発行し,社会主義運動を続けた。22年(大正11)日本共産党の創立にも参加。

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世界大百科事典(旧版)内の堺利彦の言及

【解放】より

…創刊号に〈宣言〉をかかげるなど,他の総合雑誌とは性格を異にし,労働問題,社会問題がとくに重視され,社会主義思想の影響を強く受けた。黎明会,新人会の会員が執筆したほか,荒畑寒村,堺利彦,山川均,山川菊栄などの社会主義者も毎号のように登場している。文芸欄には小川未明,宮地嘉六,金子洋文らが執筆,しだいに労働者作家,社会主義的作家の寄稿が増加したが,関東大震災のため23年9月終刊した。…

【新社会】より

…1915年9月,売文社から堺利彦によって創刊された社会主義啓蒙雑誌。月刊。…

【日本共産党】より


[党創立]
 第1次世界大戦後の社会運動の高揚とロシア革命の影響が波及するなかで,社会主義も新たな台頭をみせ,1920年12月に日本社会主義同盟が結成された。このころ,ロシア革命の成果を吸収した堺利彦山川均らによるマルクス=レーニン主義の普及とコミンテルンからの働きかけがあいまって,21年4月には堺,山川らが中心となって日本共産党準備委員会を組織し,〈日本共産党宣言〉と〈日本共産党規約〉を採択した。22年1月から2月にかけてコミンテルン主催の極東民族大会に,アメリカから入露した片山潜らとともに日本から徳田球一,高瀬清,吉田一らが参加したことが契機となり,同年7月15日,正式の創立大会がもたれ,堺利彦が委員長となった。…

【日本社会主義同盟】より

…米騒動後,急速に労働運動,普選運動の勢いが高まるなかで,〈冬の時代〉を強いられていた社会主義運動が活性化してきた。堺利彦の〈進歩主義の思想的大同団結〉の提唱を受けて,橋浦時雄,岩佐作太郎,山崎今朝弥らの社会主義者を中心に具体化が進み,20年8月5日,趣旨書と規約草案が発表された。〈あらゆる態度あらゆる色彩の社会主義者を糾合〉することを旗印にし,発起人には堺,山川均らのマルクス主義者,大杉栄,近藤憲二らのアナルコ・サンディカリストとともに,著作家組合の大庭柯公らの文学者,友愛会や時計工組合などの労働組合,新人会や建設者同盟などの学生団体からの若い世代も名を連ねた。…

【売文社】より

…堺利彦設立の代筆業兼出版社。堺は1910年赤旗事件の刑期を終えて出獄した際,大逆事件の弾圧下で生活難にあえぐ社会主義者たちを支えるために売文社を創立した。…

【平民社】より

…日清戦争後,日本の朝鮮進出と軍事力の強化の中で日露関係は切迫し,対露同志会や七博士の対露強硬意見書(七博士建白事件)が口火となり各新聞論調も挙国一致・主戦に傾いていった。1903年10月堺利彦と幸徳秋水は〈退社の辞〉を掲げて《万朝報》と決別し,約1ヵ月後《平民新聞》(週刊)を発行した。創刊号で〈平民主義,社会主義,平和主義の理想郷に到達せしむるの一機関〉と宣言し,世論に向かって日露非戦の活動を開始した。…

【平民新聞】より

…明治末期に発行された週刊および日刊の新聞。(1)週刊《平民新聞》 1903年11月15日,日露戦争に反対して《万朝報》を退社した幸徳秋水と堺利彦によって創刊された。後に石川三四郎,西川光二郎らが参加したほか,安部磯雄,加藤時次郎,木下尚江,斯波貞吉らが社外から協力した。…

【へちまの花】より

…1914年1月,堺利彦が売文社より創刊した月刊誌。16号まではタブロイド判で発行された。…

【マルクス】より

…また,07年には山川均によって《資本論》第1巻の紹介が行われている。しかし,マルクスの思想が本格的に紹介されるようになったのはロシア革命(1917)以後であり,22年には〈日本共産党〉(委員長堺利彦)が結成され,コミンテルン第4回大会において承認された。 昭和に入ると,福本和夫,三木清,河上肇などによるマルクス論が左翼的インテリのあいだで強い影響を及ぼすようになり,28年(昭和3)には世界で最初の改造社版《マルクス・エンゲルス全集》の刊行が開始された(全27巻30冊,補巻1,別巻1。…

【ユーモア】より

…フランスのH.テーヌ,H.ベルグソン,前述のカザミアンなど,多くの学者,思想家は,イギリスこそ世界で最も優れたユーモリストを,最も多く生み出した国だと認めているが,その理由は上記により自明のこととなったであろう。 日本でも夏目漱石,坪内逍遥などの文学者,堺利彦などの社会主義者は,正しい意味でのユーモリストと呼ぶに値するが,彼らはイギリスの文学や文化に深い関心をもち,それから影響を受けた人たちであった。《吾輩は猫である》の著者漱石は,けっしてただ笑ったり,笑わせるだけの人ではなく,1905年東京帝国大学での18世紀英文学講義(後に《文学評論》として公刊)の中で,〈ヒューマーとは人格の根柢から生ずる可笑味〉と断言した。…

【老壮会】より

…会としての一定の主義・方針はなく,内外の諸問題について意見を交換し研究することを目的としていた。満川や大川周明をはじめとする後年の国家主義運動の指導者ばかりでなく,堺利彦,高尾平兵衛などの社会主義者,高畠素之などの国家社会主義者や,大井憲太郎,嶋中雄三,下中弥三郎,権藤成卿,中野正剛など多彩な人々が参加したことに特色があった。満川が猶存社の活動に力を入れるにしたがって老壮会の活動はしだいに衰えたが,22年まで44回の会合を開き,500名をこえる参加者があったといわれる。…

※「堺利彦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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