堅田(読み)カタタ

デジタル大辞泉 「堅田」の意味・読み・例文・類語

かたた【堅田】

滋賀県大津市の地名。琵琶湖南西岸にあり、湖中に浮御堂うきみどうを望む。近江おうみ八景の一「堅田の落雁らくがん」の地。

かた‐だ【堅田】

《「かたた」とも》水が乾いて土のかたくなった田。

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精選版 日本国語大辞典 「堅田」の意味・読み・例文・類語

かた‐た【堅田】

(後世「かただ」とも)
[1] 〘名〙 水を落として土が堅くなった田。
平家正節(1776)一四下「前は堅田の畑のやうに乾(ひ)あがったるが、後ろは水田のこみ深かりける畔(くろ)の上に」
[2] 滋賀県大津市、琵琶湖西岸の地名。古くから湖上交通の要地。恵心僧都(えしんそうず)の創立した浮御堂満月寺)がある。「堅田の落雁」は近江八景の一つ。歌枕。
※浮世草子・近代艷隠者(1686)四「堅田(カタタ)の礒(いそ)に落鳫(らくがん)(むらがり)て」

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日本歴史地名大系 「堅田」の解説

堅田
かたた

琵琶湖を北湖と南湖に分ける最狭部の西岸に位置する。中世・近世を通じて漁業および湖上交通に圧倒的な権限を有し、またその経済力と自治意識、本福ほんぷく寺門徒の商業活動などから都市的集落であったと考えられる。湖の国のなかでも最も湖とともに生きた人々が集住した所といえよう。そうした堅田を藤原定家は「雲のゆくかたたの奥や時雨るらんやや影しめる海人の漁火」と詠んでいる(拾遺愚草)。のちには堅田落雁として近江八景の一つに数えられる。堅田の釣漁師は文化一〇年(一八一三)当時漁のみを家業とし、湖水浦々を徘徊し、月に一度のほかは堅田に帰らないのが仕来りで、家屋敷のほか田畑は所持しないのが「村法」であり、往昔から漁師町の一画に居住してきたという(堅田漁業史料)。米中心の江戸時代になお漁業一辺倒の暮しがあったことは、前代以来の根強い伝統があったからである。すでに堅田住人の源流を九世紀末からみえる和邇わに御厨(現滋賀郡志賀町)の贄人とする説、また別に網人と称された海民が拠点を置いたとする説がある。いずれにしても水上で船を操るに巧みな人々が集住し、文献上の地名初見である永承六年(一〇五一)当時、「堅田渡 酒直一斗五升」と当地で交通税を徴収していたこと、つまり関所の機能を有していたことがうかがえる(同年一月二八日「愛智庄結解」東南院文書)

〔堅田御厨と堅田庄〕

寛治四年(一〇九〇)以前に「堅田御厨網人」は網二帖の国役を免除され、京都下鴨社に毎日御膳料として鮮魚を納めることになっていた(同年三月二四日「鴨御祖大神宮申状案」賀茂社諸国神戸記)。この年京都上賀茂神社が安曇あど川全体を御厨にすることを朝廷に申請したため、網人らは同川での漁労の実績を根拠に、その半分を下鴨社の御厨とすることを下鴨社を通じて朝廷に訴えている(同案)。堅田側の訴訟は却下されたと思われるが、鎌倉期に対岸の豊浦とようら(現蒲生郡安土町)地先で釣漁を行った者が堅田住人であると考えられることも含め、すでに湖のかなり広い範囲で漁労活動を行っていたらしい。保安三年(一一二二)堅田御厨は鳥羽天皇により改めて下鴨社に寄進され、堅田供祭人はその活動を天皇に保証されることになった(鴨脚秀文文書)。建久五年(一一九四)一〇月九日、下鴨社は堅田御厨の下司に供祭物として鯉一〇喉・鮒五〇喉・鮨五〇喉・二斗・海老三斗の貢進を求めている(「下鴨社政所下文」賀茂社諸国神戸記)。これに対し下鴨社からは若干の米(三―二〇石)が下されてきたが、支給米が減ったとして増加を出願している。

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改訂新版 世界大百科事典 「堅田」の意味・わかりやすい解説

堅田 (かただ)

近江国滋賀郡の地名。11世紀後半には京都の下鴨社(鴨御祖神社)の御厨(みくりや)となっていたことが確かめられるが,それ以前は定かでない。平安末期までには,堅田荘として,延暦寺の荘園ともなっており,1227年(嘉禄3)には,承久の乱の行賞として,佐々木信綱に堅田荘の地頭職が幕府より与えられているところからすると,鎌倉時代の初めには,地頭職・領家職の二つに分かれていたものと推測される(《吾妻鏡》)。しかし,こののち延暦寺の支配が強まるにつれて,地頭職は実質的な意味を持たなくなったとみえ,史料の上からも姿を消す。中世の堅田は,かつて下鴨社より与えられたという,〈櫓(ろ)棹(さお)杵(櫂(かい)か)通路の浜,当社供祭所たるべし〉という特権をふりかざし(《鴨脚家文書》),琵琶湖における漁業・交通の覇者たらんことをめざした。このため諸勢力との摩擦も多く,鎌倉時代には,沖ノ島の葦をめぐって守護佐々木氏と争ったのをはじめとし(《本福寺由来記》),北の菅浦とは,1335年(建武2)ごろから97年(応永4)に至る長い漁場争いを行っている。また湖上交通においては,室町時代には,堅田浦より〈カイソク(海賊)ヲカクル〉ことをしない代償として,諸浦より一種の通行税を徴収するまでになっており,その通行税徴収権は,上乗(うわのり)と呼ばれた。このほか,堅田では,領主延暦寺が設置した湖上関の管理権をも室町時代になると掌握し,湖上に権勢を振るった。

 中世の堅田は,大きく分けて殿原(とのばら)衆と呼ばれた地侍と,全人(まとうど)衆と呼ばれた一般の百姓・商工業者の二つの階層よりなっていたが,全人衆の多くはやがて蓮如の教化によって,一向宗門徒となった。この堅田門徒の中心となったのが本福寺である。堅田門徒の台頭に対して領主延暦寺は,1468年(応仁2)堅田を攻撃したので(堅田大責(おおぜめ)),堅田門徒は沖ノ島まで落ちのび,70年(文明2)延暦寺に〈礼銭,礼物〉を支払うまで還住を許されなかった。のち織田信長もこれら一向宗門徒を中心とする堅田の反抗には手を焼いたが,地侍の協力によりようやく弾圧することに成功している。近世には,堅田ははじめ幕府の直轄領であったが,1698年(元禄11)には,堀田正高が入部,堅田藩が成立した。1825年(文政8),堀田氏の居館は撤収され堅田藩の名は消えたが,堀田領であることには変りなく,明治の廃藩置県に至った。1901年(明治34)堅田町となり,67年大津市に編入。
本福寺跡書
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堅田」の意味・わかりやすい解説

堅田
かたた

滋賀県南部、大津市の一地区。旧堅田町。琵琶(びわ)湖最狭部の西岸に位置する。古くから西近江路(おうみじ)と湖上交通の要衝として栄え、戦国時代には堅田水軍が活躍した。「堅田フナ」などをとる漁港でもある。湖中に浮御堂(うきみどう)があり、「堅田の落雁(らくがん)」は近江八景の一つであった。現在は工場の進出や住宅地化が著しい。国道161号が通じ、JR湖西(こせい)線堅田駅がある。また、琵琶湖大橋の西端にあたり、橋は国道477号につながる。

高橋誠一


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百科事典マイペディア 「堅田」の意味・わかりやすい解説

堅田【かただ】

滋賀県大津市の一地区。滋賀郡の旧町で,1967年大津市に編入。主集落は琵琶湖最狭部に臨み,湖上交通と漁業で栄えた。琵琶湖大橋,名寺満月寺(浮御堂)があり,堅田落雁は近江八景の一つ。
→関連項目安東蓮聖近江商人大浦荘海津吉崎和邇

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堅田」の意味・わかりやすい解説

堅田
かたた

滋賀県大津市北部の地区。旧町名。 1967年大津市に編入。琵琶湖狭隘部の西岸にあり,中世は湖上交通の要衝の港として栄えた。現在は商業の一中心地。紡績・化学工業もある。本堅田の居初氏庭園は名勝。湖中に恵心僧都創建の浮御堂があり,近江八景の一つ「堅田落雁」で有名。対岸の守山市との間に琵琶湖大橋がある。

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世界大百科事典(旧版)内の堅田の言及

【大津[市]】より

…1898年市制。1932年滋賀村,33年膳所(ぜぜ)町,石山町,51年坂本村,下阪本村,雄琴(おごと)村,下田上村,大石村,67年堅田町,瀬田町を編入。人口27万6332(1995)。…

【琵琶湖】より

…南北に長く,南端から約16kmのところがくびれて最も狭く,ここに琵琶湖大橋(1964完成。大津市今堅田町~守山市木浜(このはま)町間,全長1.35km)がかかっている。これを境にして北の主湖盆を北湖,南の副湖盆を南湖と呼ぶ。…

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