堂島(読み)ドウジマ

デジタル大辞泉 「堂島」の意味・読み・例文・類語

どうじま〔ダウじま〕【堂島】

大阪市北区の地名。もと中之島と並ぶ島で、南は堂島川、北は明治期に埋め立てられた曽根崎川に接していた。元禄年間(1688~1704)に米市場が開かれて以来、大阪の経済の中心地。→
堂島下駄」の略。

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精選版 日本国語大辞典 「堂島」の意味・読み・例文・類語

どうじま ダウじま【堂島】

[1] 〘名〙
① 江戸吉原で、遊女が道中の際にはいた桐製の駒下駄
※随筆・柳花通誌(1844)道中長柄傘駒下駄の始「遊女都てむかしは草履をはきしに、中古角町菱屋権右衛門方の芙蓉といへる女郎伊達を好み、道中のせつ日和にても駒下駄をはきし也。〈略〉、この駒下駄を堂島といふ」
咄本・新板一口ばなし(1839)四「相場仕がせり合うて、堂島でたたいた」
[2]
[一] 大阪市北区の西部から福島区の東部にまたがる堂島川北岸の地名。江戸初期に堂島新地ができ、遊女の町として発展。元祿一〇年(一六九七)ここに米市場が移されてから諸藩の蔵屋敷が置かれ、米市がたち、現在まで、大阪の経済の中心をなしている。
※雑俳・水加減(1817)「立て置く・日本の脉のうつ堂島」

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日本歴史地名大系 「堂島」の解説

堂島
どうじま

堂島川の中洲をいう。西流してきた堂島川が島の東端で北のしじみ川と南の堂島川に分れる。地名の由来については、四天王寺(現天王寺区)建立の木材を置いたからなど、寺すなわち堂に由来するとする説や、両側を川に挟まれることから、「川」を「革」にかけて鼓の「筒」にみたてたとする説、また近世前期に五花ごか堂が営まれたところからきたとの説もある。寛正二年(一四六一)一二月二六日の中島崇禅寺領目録(崇禅寺文書)には曾根崎そねさきのうちに「堂島畠」がみえる。

明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図によれば南西部分はまだ開けておらず、堂島船大工どうじまふなだいく町・堂島裏どうじまうら(のちの堂島裏一―二丁目)太郎兵衛たろべえ(のちの堂島永来町)とさらに西町があるだけであった。

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改訂新版 世界大百科事典 「堂島」の意味・わかりやすい解説

堂島 (どうじま)

大阪市北区内の地名で,堂島川北岸一帯をいう。もと曾根崎川(蜆川)と堂島川とにはさまれた砂州で,広い意味の天満(てんま)に含まれる。地名の由来については,(1)四天王寺を玉造の岸に創建したとき,風波によって御堂の用材がこの地に流れついたため,(2)あらかじめ堂の用材を置いたところ,(3)流水が南北に分かれて,その中にあるため胴島といい,転じて堂島となったという説のほか,(4)二つの川(革)にはさまれた地であるため,鼓の筒にたとえて筒島(どうじま)といい,それが転化したものとも伝える。はじめ天満村と呼び,大坂三郷のうち北組と天満組の加郷であったが,人家が増加するにしたがい,一部に堂島船大工町など5ヵ町(古町)が形成されて,のち天満組に属した。1686年(貞享3)河村瑞賢の曾根崎川・堂島川改修のさい,新地5ヵ所(家数370軒)が加わって,88年(元禄1)町割りが実施され10ヵ町が増加,合わせて15ヵ町となる。このとき新地繁栄策として茶屋株,風呂屋株,煮売屋株,湯屋株が許され,しだいに発展した。97年には米市場が中之島から移転。1716年(享保1)隣接の曾根崎新地から出火して258軒が焼失したが,27年には米仲買株を許され,米仲買,両替屋が軒を並べる町になった。舟運の利便から,対岸中之島とともに諸藩の蔵屋敷が集中,堂島米市場は諸国米市場の中心的存在として,ここで立てられた相場が全国の規準となった。明治維新後は工業も進出し,五代友厚の朝陽館製藍所のほか,渋谷紡織所(のち堂島紡績所)も設けられ,また大阪商法会議所(のち大阪商業会議所→大阪商工会議所)や大阪堂島米商会所なども設けられ大阪経済の一中心となった。大阪市庁や大阪高等商業学校(現,大阪市立大学)などが置かれたこともある。
執筆者: 埋立地を含めた堂島の北の曾根崎新地は,梅田を中心とする〈キタ〉の繁華街の一画をなし,バー,クラブ,料亭,飲食店が軒を並べるが,堂島東部地区は中高層のビルが集中するオフィス街で,新聞,テレビのマスコミ機関が多く,大阪の都心地区の一部を形成する。西部地区には大阪大学付属病院(1993年吹田市に移転)や倉庫,ビルが立地し,四ッ橋筋の地下にはドウジマ地下センターの商店街がある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「堂島」の意味・わかりやすい解説

堂島【どうじま】

大阪市福島両区にまたがる堂島川北岸地区。かつて堂島川と曾根崎川の間の中州で,貞享年間堂島新地ができ,1697年米市(堂島米会所)がおかれてから発展。高層ビルが集中し,堂島川南岸の中之島とともに大阪経済の中心をなす。
→関連項目大阪[市]米会所天満青物市場払米

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堂島」の意味・わかりやすい解説

堂島
どうじま

大阪市北区南西部の一地区。淀(よど)川の分流堂島川と、もと曽根崎川(そねざきがわ)(蜆(しじみ)川。明治期に埋立て)に挟まれた中州であった。貞享(じょうきょう)年間(1684~1688)曽根崎川改修後に開発され、1697年(元禄10)淀屋橋から米市場(米会所)が移ってから諸藩の蔵屋敷が並んだ。現在はNTT毎日新聞社、堂島アバンザ、近鉄堂島ビルなどの高層ビルが林立するビジネス街で、地下街は大阪駅に続いている。

[樋口節夫]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「堂島」の解説

堂島
どうじま

大阪市北区・福島区の堂島川北岸,御堂筋(みどうすじ)以西一帯の地区名。名称の由来については,古くは堂島川と曾根崎川にはさまれた島であったため胴島といった,また川を革と読みかえて革にはさまれた鼓(つづみ)の筒にたとえて筒島とよんだのが転訛したなど諸説ある。1697年(元禄10)に対岸の中之島から米市場が移転し,天満(てんま)青物市場・雑喉場(ざこば)魚市場とともに,大坂の3大市場とよばれた。1730年(享保15)には米相場会所が設けられて,全国米取引の中心となり商業地域として発展。諸藩の蔵屋敷が中之島についで数多くおかれたが,近代に入り各種企業の本社・支社や新聞社などが集中して,都心部ビジネス地区へと発展した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堂島」の意味・わかりやすい解説

堂島
どうじま

大阪市北区,福島区にまたがる堂島川右岸の地区。 JR大阪駅の南西に位置する。かつては堂島川とその分流の曾根崎川にはさまれた中州で,貞享年間 (1684~88) には新地ができ,遊郭が設けられた。のち堂島米市場がおかれ,米市が立つようになってから,諸藩の蔵屋敷が集り,全国の米価を支配する商業の町に発展した。現在は銀行,会社,新聞社などの高層ビルが立並び,大阪の経済,文化の一中心地となっている。

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