埴生坂(読み)はにうざか

日本歴史地名大系 「埴生坂」の解説

埴生坂
はにうざか

古代の官道丹比たじひ道が羽曳野丘陵東西に横切るところにあった坂で、交通の要衝野々上ののうえ付近をさすと考えられる。「日本書紀履中天皇即位前紀に、仁徳天皇死後住吉仲皇子難波の「太子の宮」にいた履中天皇を殺そうとして襲撃するが、平群木菟物部大前・阿知使主らは酔い伏していた履中天皇を馬に乗せて大和に向かって逃亡、履中天皇は「河内国の埴生坂」で覚め、難波の火災を見て驚いたとある。

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改訂新版 世界大百科事典 「埴生坂」の意味・わかりやすい解説

埴生坂 (はにゅうざか)

河内と大和とを結ぶ丹比道(たじひみち)(近世竹内街道にほぼ相当する)に沿った,大阪府羽曳野市野々上付近に想定されている坂。記紀に見える伝承によれば,仁徳天皇没後に起こった住吉仲皇子の反乱に際し,皇太子であった後の履中天皇が埴生坂まで逃れて,燃えさかる難波宮を見て歌を詠んだという。また,《日本書紀》大化5年(649)3月条の丹比坂も,この埴生坂と同一である可能性が大きい。仁賢天皇の埴生坂本陵や来目皇子の河内埴生山岡上墓の表記を参照すると,現在の羽曳野丘陵を指して埴生山と称している。この埴生山を越える坂が埴生坂であった。現在の野々上付近は羽曳野丘陵の北端部にあたり,埴生坂に相当する場所が見当たらない。それでむしろ,古市から西に進んで羽曳野丘陵を越える地点,羽曳野1丁目・2丁目付近に比定する土橋寛説が,より説得力を持っている。
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百科事典マイペディア 「埴生坂」の意味・わかりやすい解説

埴生坂【はにゅうざか】

古代の丹比(たじひ)道が羽曳野(はびきの)丘陵を東西に越える坂。大阪府羽曳野市内とされる。《古事記》《日本書紀》の履中天皇に関する説話によると,仁徳天皇の死後住吉仲皇子に襲われた皇太子(のちの履中天皇)が難波(なにわ)宮(現大阪市中央区)を逃れて大和に向かう途中,埴生坂を通ったという。難波からは難波大道が南下し,現堺市の金岡神社付近で丹比道と交差し大和に通じていた。《日本書紀》大化5年(649)3月条にみえる丹比坂も埴生坂を指す可能性がある。所在地は現野々上(ののうえ)説,これより南の羽曳野1・2丁目付近にあてる説がある。

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