城南宮(読み)じょうなんぐう

精選版 日本国語大辞典 「城南宮」の意味・読み・例文・類語

じょうなん‐ぐう ジャウナン‥【城南宮】

(平安京鎮護の神として、その南方にまつられているところから) 京都伏見区中島宮ノ後町にある神社。旧府社。祭神は息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)ほか。創建年代不詳。昭和四二年(一九六七)、真幡寸(まはたき)神社を改称。慶応四年(一八六八)の鳥羽伏見の戦いの主戦地。

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日本歴史地名大系 「城南宮」の解説

城南宮
じようなんぐう

[現在地名]伏見区中島宮ノ後町

かも川の東岸に位置する。現在は方除の神として知られる。主祭神は息長帯日売おきながたらしひめ命・八千戈やちほこ神・国常立くにとこたち尊で、ほかに御纛みはたぼこ神を祀る。旧府社。応徳三年(一〇八六)以来、白河・鳥羽両天皇によって鳥羽とば離宮が造営されると、その鎮守社として離宮内に祀られたと思われ、毎年九月二〇日の祭礼には両天皇も臨幸し、流鏑馬・競馬などを観覧した(長秋記・本朝世紀・山槐記)。この祭礼は「鳥羽城南寺明神御霊会」の祭事として始められたものと思われ(「中右記」康和四年九月二〇日条)、平安時代京中の悪神・悪霊を祓うため営まれた御霊会の一つであったらしい。「城南寺明神御霊会」「城南祭」といわれたが、城南寺は城南宮の杜にあったらしく、「洛陽名所集」に「城南寺 此処は上鳥羽と下鳥羽の間、路の東なる杜を云伝たり」と記す。平安末期、寺領が春川荘内にあったことが知られる(保元二年二月二三日「小野氏女田地売券」九条家文書)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「城南宮」の意味・わかりやすい解説

城南宮
じょうなんぐう

京都市伏見(ふしみ)区下鳥羽(しもとば)に鎮座。神功(じんぐう)皇后大国主命(おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀(まつ)る。創建年代不詳。社伝では、仲哀(ちゅうあい)天皇のとき、神功皇后の兵船上につけた旗とともに、神功皇后、大国主命の霊を奉斎したのが起源という。城南とは平安京都城の南の意。1087年(寛治1)鳥羽離宮が建設されたのはこの付近で、承久(じょうきゅう)の変(1221)時、後鳥羽(ごとば)上皇が兵を集めたのはこの地。また、明治維新における鳥羽・伏見の戦いの戦跡である。例祭7月20日。1961年(昭和36)境内に楽水苑(えん)を開園

[鎌田純一]

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世界大百科事典(旧版)内の城南宮の言及

【方違】より

…庶民社会では方違神社参詣の俗信が興り,禁忌の方向に対して舎宅を構えたり,窓や垣を開いたり塞いだり,あるいは旅行・回船の門出などをなすものは,この神社に参れば方違の意味が生ずるとするもので,大阪府堺市の方違神社は有名である。京都では洛南鳥羽の城南宮(真幡寸(まはたき)神社)が有名で,禁忌の方向に造作したり,転宅したりするとき,境内の土を持ち帰ってまけば,祟りを避けられるという。かくて方忌呪術の簡略化の結果は方違本来の意味をまったく一変させてしまったのである。…

【鳥羽殿】より

…鳥羽法皇は56年(保元1)に安楽寿院御所で没し,遺体は同所の三重塔に葬られた。【川上 貢】
[鳥羽殿跡]
 現在の京都市伏見区竹田および中島の地にあたり,安楽寿院,北向不動,城南宮と白河天皇,鳥羽天皇,近衛天皇の各陵を含める地域のことを指す。1960年からの発掘調査の結果,北殿は早いころの鴨川のはんらんで跡をとどめず,南殿はこの区域を南北に貫く国道1号線の西方にある築山の名ごり〈秋の山〉(鳥羽離宮跡公園)を含めてその南に遺跡を認め,田中殿は名神高速道路の京都南インターチェンジの南,東殿は安楽寿院付近に,馬場殿は城南宮とその東にあると推定される。…

※「城南宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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