垣生村(読み)はぶむら

日本歴史地名大系 「垣生村」の解説

垣生村
はぶむら

[現在地名]中間市垣生

遠賀おんが川の中流左岸に位置する。同川を挟んで東は中間村。西は中底井野なかそこいの村、南西は上底井野村。中筋なかすじ往還(中通り)が通り、中間村とを結んで同往還の遠賀川の渡船場があった(「続風土記拾遺」「地理全誌」など)。垣生は埴生の誤記とされる(「続風土記」など)。古代の遠賀おか埴生はぶ(和名抄)の遺称地で、中世には羽生はぶ庄・埴生郷ともよばれた。集落本村および砂山すなやま三軒屋さんけんやの三ヵ所(続風土記拾遺)、「地理全誌」ではこれに八人町はちにんまち八尋やつひろ通裏とおりうらも加わる。埴生から垣生へ用字が変わった時期について、「埴生八幡宮記」にみえる村の古老の話によれば、天和(一六八一―八四)頃といい、福岡藩の記録によれば、「貞享御判物頂戴ノ節高辻御帳」に垣生村と記されていたので、元禄一四年(一七〇一)に正式に垣生に改めたという(中間市史)。小早川時代の指出前之帳では田二一町一反余(分米一九九石余)・畠一二町八反余(分大豆六〇石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高八一三石余(慶長石高帳)

垣生村
はぶむら

[現在地名]新居浜市垣生

東北二方は海、西は宇高うだか松神子まつみこ二村に接する。村域北東に垣生はぶ(一〇一・三メートル)があるほか、すべて浜辺の平地村。村名について埴土はにつちの生ずる所の意で、もと埴生と書き「はぶ」とよんでいたが、埴を垣と書き誤ったものかともいう。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)新居郡の項に「垣生村 日損所」とある。西条藩領。寛文六年(一六六六)の「新居郡之内村々高小物成家数人数船数之帳」(「西条誌」所収)には、家数七七、人数三九八とあり、翌年の「西海巡見志」には、舟数七艘、平太舟の記入がある。

垣生村
はぶむら

[現在地名]松山市東垣生町ひがしはぶまち・西垣生町

松山市の西南端に位置する農村。東は余戸ようご村、南は重信しげのぶ川を隔てて西高柳にしたかやなぎ村・北河原きたがわら(現伊予郡松前町)、北は南吉田みなみよしだ村に接し、西は伊予灘に面している。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の伊予郡の項に「垣生村 小川有」とある。地名の起りは埴生はにゆう郷の埴が垣と書かれて垣生となり、江戸時代の村名に受け継がれたと考えられる。

古代には温泉郡埴生郷(和名抄)に属したと考えられる。中世には河野氏の家臣垣生氏の統治下にあったと思われる。近世に入り加藤嘉明・蒲生忠知の治世を経て、寛永一二年(一六三五)以降松平氏による松山藩領となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報