地方改良運動(読み)ちほうかいりょううんどう

改訂新版 世界大百科事典 「地方改良運動」の意味・わかりやすい解説

地方改良運動 (ちほうかいりょううんどう)

日露戦争後,多大の戦費による財政破綻の立直しと,社会矛盾激化講和への不満などで動揺した民心を,国家主義で統合することを目ざして内務省主導で進められた官製運動。桂太郎内閣の内務大臣平田東助,内務次官一木喜徳郎らにより推進され,1909年以降全国の町村吏員を集めて各地で開催された地方改良事業講習会にちなんで,地方改良運動と呼ばれた。

 平田ら国家官僚は,日露戦争勝利後の日本は欧米列強に伍して経済戦を戦わねばならず,したがってそれに耐えうる国内体制の整備・強化を早急に実現することが戦後の課題であると規定した。そのため改良運動を通じてまず第1には,町村財政基盤の強化と国民ひとりひとりの勤倹貯蓄が督励された。町村合併,町村基本財産の設定・増殖,部落有林野の統一が奨励され,戊申詔書渙発記念として蓄積,管理規程を定めて基本財産増殖を開始する町村が続出した。また貯蓄組合,納税組合の設置も進められ,貯蓄励行と滞納矯正が町村ぐるみで実行されるようになった。部落有財産の統一は,町村財政強化の側面だけでなく,神社合併とともに国民統合の観点からも重視された。1888年市制町村制公布により,国家は国民統合の基礎単位としての行政町村を創出したが,旧来からの自治村落たる部落の割拠性によってその企図は妨げられていた。そのため一村一社と財産の町村への統合により,その弊害を除去しようとしたのである。このほか地方財政補強のために地方産業の振興が提唱され,農会産業組合,蚕糸会などの設立が奨励されたが,こういった町村諸団体の設置促進とそれらへの国家統制が強化されたところに改良運動の特徴があった。それら勧業団体のほかにも,青年会,在郷軍人会,婦人会,処女会などが続々と生み出されていったのである。なかでも日清・日露戦争時の後援奉仕活動によりすでに官僚・軍部の注目するところとなっていた青年会は,この運動の過程で内務省の指導が本格化し,初期の自主的活動からしだいに国家目的に沿った修養と奉仕の活動中心へと変質していった。また,予後備兵と町村有志の親睦・後援組織であった軍人会も,1910年画一的に統合され帝国在郷軍人会となり,軍国主義培養の基盤となっていった。

 改良運動では,これら諸団体の中核となり率先して運動を推進する模範人物の顕彰がなされ,町村有力者,地方名望家の治績が広く喧伝された。これは他の諸施策とも相まって弛緩しつつあった農村の地主的支配秩序を締め直す効果をもち,一村一家,家国一致の天皇制国家観の注入により,挙村一致の体制の下,国運の発展のために農村民を奮励させる基盤を固める結果となった。これら多様な側面をもつ改良運動は,町村是確立運動によって集大成される。自町村を克明に調査・分析したうえで,国是・県是に沿って町村是を樹立し,計画的に運動を推進していく模範村が次々と生まれていったのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「地方改良運動」の意味・わかりやすい解説

地方改良運動
ちほうかいりょううんどう

日露戦争後、荒廃した地方社会と市町村などの地方団体の改良を目的に行われた官製運動。とくに第二次桂(かつら)太郎内閣のもとで、戊申(ぼしん)詔書の渙発(かんぱつ)(1908年10月13日)を契機に本格化し、内務省などによって推進された。

 日本は日露戦争の結果、帝国主義国として列強と並ぶ国際的地位を得たが、戦後の地方社会は、その矛盾のしわ寄せを受けて疲弊、荒廃し、町村財政も破綻(はたん)に瀕(ひん)していた。地方改良運動はそうした状態への対応であり、直接的には国家の基礎としての地方団体(地方自治体)を、帝国主義国家としての日本を支えるに足るものとすることを目ざした。その重点は、町村財政の整備、町村基本財産の造成、優良吏員の養成などに置かれ、具体的には、税の滞納の整理、部落有林野の統合などが行われた。また同時に、町村を支える地方社会の改良にも目が向けられたほか、国民に対するさまざまな教化策も推し進められた。

[岡田洋司]

『石田雄著『近代日本政治構造の研究』(1956・未来社)』『宮地正人著『日露戦後政治史の研究』(1973・東京大学出版会)』

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百科事典マイペディア 「地方改良運動」の意味・わかりやすい解説

地方改良運動【ちほうかいりょううんどう】

日露戦争後,多大な戦費による財政の立て直しと,講和への不満などで動揺した民心を,国家主義で統合することを目指して内務省主導で進められた官製運動。第2次桂太郎内閣の元で出された戌申詔書(ぼしんしょうしょ)をきっかけに本格的に遂行され,有識者を中心に地方自治,地方財務,農事改良,普通教育,青年教育などの地方改良事業講習会を開催した。地方改良運動を通じて,青年会,在郷軍人会,婦人会などが生み出され,国家目的に沿った奉仕の活動へと変質して,国家統制が強化され,軍国主義培養の基盤となっていった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「地方改良運動」の解説

地方改良運動
ちほうかいりょううんどう

日露戦争後の経済不況期に内務省が進めた町村財政と生活習俗の改良促進政策。1908年(明治41)戊申(ぼしん)詔書の発布以後,郡市町村に対し部落共有林野の統合による町村基本財産の造成,由緒不明の神社・祠殿の整理,部落祭礼と休日慣行の整理,町村農会による農事改良の活発化,町村ごとの実行計画としての町村是(ぜ)の策定などを奨励した。そのなかで報徳社運動が賞揚された。また青年会を町村単位に再編し,町村長・小学校長の指導下に活動させること,産業組合が勤倹貯蓄に役立つことが期待された。

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世界大百科事典(旧版)内の地方改良運動の言及

【運動会】より

…全校児童が参加するようになり,実施時間が長くなり,かつ体操の授業内容の充実とともに,演技・競技種目が盛りだくさんとなった。さらに日露戦争後の地方改良運動と関連して,学校運動会が校区民衆にとっても子どもを媒介としたレクリエーションの場と化していく。元来は豊凶を占う神事の一つだった〈綱引き〉が,父母ともども参加する種目になったことに示されるように,地域の〈まつり〉の要素を含むようになった。…

【農村教育】より

… 第2次大戦前,公教育として行われた農村教育は,学校教育では複線型の閉鎖的な学校体系のもとで,その教育内容が農民の必要とする日常の知識・技術と隔絶しており,科学的合理的な思考と訓練が不十分であった。一方,社会教育では体制的危機回避をめざして共同体的秩序保持のための国民教化策が貫かれ,青年団,婦人会,農会,産業組合などを指導して展開された明治期末の地方改良運動や昭和初期の農山漁村経済更生運動にその典型例がみられる。民間では,加藤完治らの日本国民高等学校などの塾風教育が登場して強力な農民錬成が試みられるが,満蒙開拓事業に直結していったように国家主義的性格がいっそう強いものであった。…

【部落解放運動】より

…岡山県の三好伊平次らが1902年に組織した備作平民会のように,各地に部落改善団体が設立され,翌年にはその代表者が大阪で大日本同胞融和会を開いて運動の拡大をはかった。このような自主的な部落改善運動が差別の原因を社会の側に見いだし,反体制の方向に進むことを恐れた政府は,日露戦争後,地方改良運動の一環として部落改善政策を進め,上から指導・統制する部落改善団体をつくらせていった。しかし差別の責任を被差別部落の側に押しつけるだけでは被差別部落の人々の支持を得られなくなり,1910年の大逆事件の衝撃もあって,明治末期からは被差別部落外の人々にも差別の反省を促し,被差別部落出身者への同情融和を求める融和政策がとられはじめた。…

【報徳会】より

…1905年に結成され,12年に中央報徳会と改称した。報徳主義を指導精神とし,〈勤倹力行〉〈分度推譲〉(分度は二宮尊徳の創始した仕法上の用語で分限度合の意)などの諸徳目を道徳と経済の調和というスローガンに組み入れて,資本主義の発展によって動揺した農村共同体秩序を再編するための地方改良運動の推進母体となった。斯民会を行政単位につくり,地方における実践団体とした。…

※「地方改良運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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