土岐頼康(読み)とき・よりやす

朝日日本歴史人物事典 「土岐頼康」の解説

土岐頼康

没年:嘉慶1/元中4.12.25(1388.2.3)
生年:文保2(1318)
南北朝時代の武将美濃(岐阜県)・尾張(愛知県)・伊勢(三重県)3カ国守護。頼清(頼宗)の子。右馬頭,刑部少輔,大膳大夫。康永1/興国3(1342)年叔父頼遠の刑死後,美濃守護を継承,以後45年間在職する。早くから足利尊氏・義詮父子に従って歴戦し,尊氏・直義兄弟が争った観応1/正平5(1350)年の観応の擾乱では尊氏・義詮側で活躍,翌年,尾張守護を兼帯した。貞治年間(1362~68)に伊勢守護も兼帯するが,貞治5/正平21年,斯波高経が失脚細川頼之が管領になったとき,これを失う。しかし康暦1/天授5(1379)年,斯波義将と結んで頼之排斥の首謀者となり,一時追討を受けそうになったものの,頼之の失脚(康暦の政変)により伊勢守護職を再度手中にした。観応のころ,厚見郡革手城を築いて新守護所とし,それまでの守護所厚見郡長森城には弟直氏を入れ,大野郡揖斐城を築いて弟(兄ともいう)頼雄を入れたという。また,文和2/正平8年,義詮が後光厳天皇を奉じて京都を脱出した際には,美濃池田郡小島に天皇の頓宮を営んだ。頼康には実子がなかったため,頼雄の子康行を養嗣子にしていたが,頼康と頼雄,直氏,頼世(頼忠)ら兄弟の結束は固く,これを中心に一族庶流を結集し,家紋桔梗を冠して桔梗一揆と呼ばれる一族一揆を軍事力の要とした。政略,武略に秀でるとともに,京都の邸では歌会を催し,二条良基邸をたびたび訪れるなど,風雅の道もよくし,勅撰集にも多く入集している。

(谷口研語)

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改訂新版 世界大百科事典 「土岐頼康」の意味・わかりやすい解説

土岐頼康 (ときよりやす)
生没年:1318-87(文保2-元中4・嘉慶1)

南北朝時代の武将。法名善忠。頼貞の長男頼宗(頼清)の子。1342年(興国3・康永1)頼遠の刑死後,家督をつぎ美濃国守護となる。50年(正平5・観応1)の周済房の乱など土岐一族の反乱を鎮圧するとともに,観応の擾乱(じようらん)では,足利尊氏・義詮派につき各地を転戦し,51年高師泰の滅亡後尾張守護に任命された。53年(正平8・文和2)南朝方に京都をおわれた後光厳天皇を美濃小島に迎え,北朝方の京都奪回に功をあげるなど活躍した。のち伊勢守護職も与えられ,また幕政においても侍所頭人になるなど重きをなした。幕政においては斯波派に属し,79年(天授5・康暦1)の康暦の政変においては斯波義将とくんで管領細川頼之を失脚させ,いったん失った伊勢守護職を回復し,以後美濃,尾張,伊勢の3ヵ国の守護職を保持した。和歌・連歌をもたしなみ,《新千載集》《菟玖波集》にもその歌がのせられている。その墓は岐阜県揖斐郡揖斐川町の瑞巌寺にある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土岐頼康」の意味・わかりやすい解説

土岐頼康
ときよりやす
(1318―1387)

南北朝時代の武将。美濃(みの)(岐阜県)・尾張(おわり)(愛知県)・伊勢(いせ)(三重県)3か国守護。刑部(ぎょうぶ)少輔(しょう)、のち大膳大夫(だいぜんだいぶ)。頼清(よりきよ)の長男。法名善忠(ぜんちゅう)。1342年(興国3・康永1)おじの頼遠(よりとお)が誅(ちゅう)されると即日その跡を継承。有力な尊氏(たかうじ)・義詮(よしあきら)党として活躍。53年(正平8・文和2)義詮が後光厳(ごこうごん)天皇を奉じて美濃に逃れた際には、小島(おじま)・垂井(たるい)両頓宮(とんぐう)を造営。58年(正平13・延文3)尊氏死去のとき剃髪(ていはつ)。79年(天授5・康暦1)には斯波義将(しばよしまさ)と組み、細川頼之(よりゆき)追放を画策するなど、晩年には古参の外様(とざま)有力守護として幕政に重きをなした。

[谷口研語]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土岐頼康」の意味・わかりやすい解説

土岐頼康
ときよりやす

[生]文保2(1318)
[没]元中4=嘉慶1(1387).12.25. 美濃
南北朝時代の武将。美濃,尾張,伊勢の3国の守護。頼清の子。法名は善忠。叔父頼遠が興国3=康永1 (1342) 年光厳上皇に狼藉を働いた罪で誅せられたのち,家督を継ぎ美濃守護となった。初め官は刑部少輔,正平7=観応3 (52) 年右馬権頭,正平9=文和3 (54) 年大膳大夫の所見がある。観応の擾乱には足利尊氏に属して,足利直義に敵対し,正平6=観応2 (51) 年尾張守護職を与えられた。正平 13=延文3 (58) 年尊氏の死により出家。のち康暦の政変に,頼康は斯波義将と結んで,前管領細川頼之を失脚させた。天授5=康暦1 (79) 年伊勢守護をも兼ね,室町幕府を左右する有力大名となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土岐頼康」の解説

土岐頼康 とき-よりやす

1318-1388* 南北朝時代の武将。
文保(ぶんぽ)2年生まれ。土岐頼清(よりきよ)の長男。叔父(おじ)土岐頼遠(よりとお)の刑死で美濃(みの)(岐阜県)守護をつぎ,のち尾張(おわり)(愛知県),伊勢(いせ)(三重県)もあわせ3国の守護となる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では,足利尊氏(たかうじ)・義詮(よしあきら)側について活躍。文和2=正平8年侍所頭人(さむらいどころとうにん)となった。嘉慶(かきょう)元=元中4年12月25日死去。70歳。法名は善忠。

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世界大百科事典(旧版)内の土岐頼康の言及

【尾張国】より

…北条氏一門の進出は尾張においても顕著で,一門領は富田荘,篠木荘,枳豆志(きずし)荘,御器所保など全域にわたっている。 北条氏滅亡後成立した足利政権は1353年(正平8∥文和2)尾張守護に美濃守護土岐頼康を任じた。頼康の在任期間は以後36ヵ年に及び美濃と合わせた領国形成を強力に進めたが,これを牽制せんとする幕府と直接結び,守護支配に服さぬ国人もいた。…

【康暦の政変】より

…頼之は若年の将軍足利義満をたすけて10余年間幕政を主導したが,斯波義将以下諸大名の多くは頼之に対する反感を強め,1378年(天授4∥永和4)頼之の養子頼元を主将とする紀伊・和泉南朝軍の追討も失敗した。義満は反細川派の山名義理・氏清兄弟を紀伊・和泉守護として南軍を討たせ,ついで79年2月同じく反細川派の斯波義将,土岐頼康に大和の乱の鎮定を命じた。しかし義将は帰京し,頼康と京極高秀はそれぞれ本国美濃・近江に下って挙兵した。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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